できるだけごまかさないで考えてみる-try to think as accurately as possible

さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

海賊のニュースからうだうだと考えてみた

2005-03-16 07:00:46 | ほら穴
 ワンピースしか知らん子どもたちは、「海賊って正義の味方じゃねーの?」とか言うんだろうな。

 このニュースさえ知らん子どもたちに比べれば、現実に触れた分だけ遙かにましだろうが。

 世界には悪意があふれているっていうことやね。この表現が、今流行の「言い過ぎ」なのであれば、「自分がどれだけ善人でも、他者の悪意の犠牲にならざるを得ないときがある」と言い直しておこう。だからこそ、備えというものが重要なのだろう。拉致された人の無事が早く確認されることを祈っている。

 竹島問題にも通じるね。韓国では指を切って抗議した人もいるというが…そこまで問題をこじらせたのも、日本外交の「事なかれ主義」のせいだろう。さらに、その前提は「自国が『いい子』にしていれば、他国も自国の利益を侵害しようとはしないだろう」という発想だ。国を個人と置き換えると、いかに現実味のない発想かわかるだろうに・・・。

 ホッブス(1588-1679)の指摘した、「万人の万人に対する戦い」という状態から、400年経っても我々はまだ抜け出せていないのだ、と嘆くことは簡単であるが、このように嘆くことで自分だけは高級な人間であると勘違いする前に、「万人の万人に対する戦い」をできるだけ調整しうるシステムを作ろうと努力すべきだし、調整するために自ら動きたいものだ。

 また話はずれるが、子供や生徒の持つ「弁護士になりたい」という思いも、「正義の味方になりたい」という動機を親が子供に植え付けてきたから、という場合が多いように私は思うが、本来は「衝突する利害調整のためにめんどくさい役を引き受けたい」という動機の方が、遙かに現実に近いんだろうな。ここ数年は毎年弁護士に相談に乗ってもらっているが、法律的なトラブルにぶつかっていつも思うことは「どちら側も自分は正しいと心底から思っている」ということであり、だからこそ、法律トラブルの解決策は「(どちらか片方の)正義の実現」というより、「他者とのすりあわせで己の正義を再検討する作業」に思えてならない(刑事事件でさえ、加害者側が明確に「自分こそ正義だ」と思っている場合は決して少なくないのだ)。それでも納得いかないことは多々あるのだが、途中の局面として、そういう段階をふまえておくことは必要だということは納得している。

 そんなわけで、ここでもほぼ毎日堀江問題を採り上げているが、堀江側にも彼らなりの正義があるということは、私なりにふまえた上で考えたり、書いたりしているつもりなのだが・・・まあ伝わってないだろうな。それは私の表現力の問題でもある。これからも前向きに努力するとしよう。その努力とは、堀江を持ち上げることでは決してないのだが。

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