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塩哲の空即是色

日々の徒然日記

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 寅年牢舎惣人御仕置書付

2015-02-08 03:42:41 | ミュージアム巡り_2015
 小伝馬町の牢屋敷以外にも囚人の数が記されている。
 次の資料は、慶応2年(1866)に奈良奉行の小俣伊勢守景徳が作
成した文書。

 この年、奈良奉行所の牢屋敷に収容されていた囚人の総数と、
文書作成時の在牢者数などが記されている。この年の総在牢者は
207人。それが58人に減ったのは出牢者が101人、獄門から所払
までの刑に処せられた者が20人、そして牢死者が18人だった。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 卯年江居越候牢舎人数書付

2015-02-07 05:16:21 | ミュージアム巡り_2015
 慶応2年(1866)に死罪、獄門、遠島以下の各種追放刑や手鎖等に
処せられた囚人の数が刑罰別に記されているのが「寅年中御仕置相
済候人数」。その数は866人。
 この数は三奉行のそれぞれの裁判を担当した受刑者の総数で、わ
ずかに将軍家の法事が行われたため“御赦”になったケースもある。

 刑罰では入墨に敲きを加えた「入墨之上敲」を科された者が287
人と全体の1/3を占めている。しかし、死罪や引廻しの上、死罪、
獄門、引廻しの上、獄門の極刑も113人いる。

 その中で、「塩詰死骸磔」は、刑の確定を待たず牢死した重罪人
の死骸を塩詰めにして保存し、刑が確定した後、死骸を磔にしたも
のだ。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 出牢之溜預人数書付

2015-02-06 05:50:20 | ミュージアム巡り_2015
 小伝馬町牢屋敷では毎年多数の囚人が牢死している。決して在牢
期間が長かった訳ではない。審理は短期間で終わることが多く、判
決が下ると速やかに刑が執行されている。その中で、在牢期間が6
ヵ月以上に及ぶ時は、町奉行から老中に報告書が提出される。

 展示されていた資料「六ヶ月以上牢舎ならびに出牢之上溜預人数
書付」は、慶応2年(1866)11月に北町奉行・井上信濃守清直が提出
した在牢者名簿。
 同年10月の時点で6ヵ月以上在牢している者と溜預の者、計118
人の名前と入牢日等が記されている。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 牢舎ならびに溜預人数書付

2015-02-05 05:48:21 | ミュージアム巡り_2015
 小伝馬町の牢屋に収容されていた囚人の数は、江戸中期には100
人以下のところ、次第に増えていき江戸後期ともなると200~400
人、多い時は900人にもなった。
 そうなると牢内はすし詰め状態で、衛生面は劣悪となり牢疫病と
呼ばれる感染症で死亡する囚人が相次ぐ。牢死者の数は江戸後期か
ら増えていき、幕末にはなんと年間1,000人以上が判決後に亡くな
っている。
 小伝馬町の牢屋には浅草と品川に重病者を収容する“溜”と称する
施設があり、重病人はこの溜に預けられ療養した。ところが十分な
治療は望めず、病気になれば即死を覚悟しなければならなかった。

 展示されていた資料の「卯正月中牢舎ならびに溜預人数書付」は、
慶応3年(1867)正月の牢舎と溜預の人数を、北町奉行の井上信濃守
清直が書き上げたもの。この月の在牢者は300人強。牢死は25人、
溜預の94人のほとんどが死亡したとすれば、年間には1,000人の死
亡者にのぼることが伺われる。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 御様有之間

2015-02-04 05:41:57 | ミュージアム巡り_2015
 処刑された罪人の死体は、牢屋敷内の「御様場」にて刀剣の試し
斬りに用いられる。その試し斬りの刀は将軍家の一刀で、その手順
は複雑だった。
 前もって腰物奉行と町奉行が日程等を打合せ、斬り手は試し斬り
御用「御様」(おためしと称され)を代々務める浪人の山田浅右衛門
かその弟子であった。
 当日は腰物奉行、石出帯刀、牢屋見廻り、徒目付、刀剣の鑑定御
用・本阿弥も出席し、浅右衛門と手代の弟子は熨斗目麻上下を着用
して参上。

 展示されていた資料は、腰物奉行から五時(12月29日午前8時頃)
に牢屋敷に出勤せよと召喚状に対する浅右衛門の承知の返答。
 当時は処刑死体の全てが試し斬りにされたわけではない。武士や
女性、僧侶、神職の死体は除かれ、下手人や等も対象外とされ
ていた。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)