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塩哲の空即是色

日々の徒然日記

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 刑法

2015-02-13 03:34:16 | ミュージアム巡り_2015
 先に挙げた「新律綱領」や「改定律例」は、刑法典として十分で
はなかった。より近代国家にふさわしい刑法典を制定すべく、明治
8年(1875)に司法省で編纂をスタート。フランスの法学者・ボアソ
ナードの原案を元に、1880年7月「刑法」が公布され、1882年1
月1日より施行された。
 以前の刑法典は中国系の法典であったが、「刑法」は近代的法典
の形式を備え、第2条に“法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之
ヲ罰スルコトヲ得ス“と、罪刑法定主義を宣言した。
 またこの「刑法」により、それまで斬と絞だった死刑が“死刑ハ
絞首ス“と絞首刑のみとなる。明治41年施行の刑法が“新刑法”と
呼ばれたのに対し、明治15年施行のものは“旧刑法”と呼ばれた。
 展示されていた資料は、明治13年7月に高田義甫が滋賀県大津
で出版した「刑法」(旧刑法)。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 監獄則

2015-02-12 05:44:07 | ミュージアム巡り_2015
 河鍋暁斎が大番屋に入牢した当時、東京府囚獄の長は、幕末岡山
藩の尊皇派で入牢経験もある小原重哉。江戸時代の獄舎の悲惨さを
地獄世界と呼んだ小原は、新政府に出仕後、獄舎改革を訴える。

 明治4年(1871)、政府は小原を香港、シンガポールの刑務所の視
察に派遣。英国領事館員のJ・ケアリー・ホールが通訳兼ガイドとし
て同行。小原がそこで視たものは、行き届いた換気と下水設備。清
潔さや起立正しいルールに則って、受刑者たちが整然と労働に従事
する姿だった。

 「監獄則」(1872年完成)は、海外視察を終えて帰国した小原が近
代的な獄舎の構想をまとめたもの。また、同書の附図に「監獄則図
式」がある。“米華”の号をもつ画家でもあった小原が監獄の設備や
器具等を描いたもの。

 ところが、1872年に頒布された同書&図は監獄新築など巨額の
経費を要するという理由で施行が中止されている。しかし、1874
年末に完成した鍛冶橋監倉の建築などに生かされたという。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 暁斎画談

2015-02-11 05:47:15 | ミュージアム巡り_2015
 明治維新後しばらくは、江戸時代の刑罰と牢獄の状況は変わらな
かった。ところが、不平等条約の改定に伴い、残酷な刑罰や劣悪な
牢獄の改善は緊急の課題だった。
 新政府は新しい刑法典の編纂を進めるとともに、小原重哉を海外
に派遣して近代的獄舎を視察させ、帰国後に小原は「監獄則」を作
成する。

 展示資料は、幕末から明治半ばにかけて活躍した画家・河鍋暁斎
(1831~89)が描いた明治3年(1870)当時の東京府の獄舎の図であ
る「暁斎画談」。しかし、この図が政府高官を揶揄したとして捕縛
された暁斎は、維新前から使用されていた大番屋に拘禁される。

 大番屋とは本牢へ送るか否か、予審を行うための仮牢で、大番屋
の内部の様子が克明に描かれている。画を眺めると、大番屋にすし
詰め状態で、疥癬などに罹る囚人や発病する囚人が跡を絶たなかっ
たという。

 暁斎は入牢数十日で衰弱して保釈となり、同年12月に再入牢。
翌4年1月末に本牢の東京府囚獄(元小伝馬町牢屋敷)に身柄を移さ
れ、笞50の刑を受けて即日放免となる。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 海国図志

2015-02-10 05:45:26 | ミュージアム巡り_2015
 江戸時代の牢獄は、牢名主や牢内役人による囚人に対して過酷な
扱いや、過密収容と不衛生、栄養不足がもたらす多数の牢死を生み
出していた。そのような牢獄の改善は、早くから指摘されていた。

 「海国図志」(1842年)は、アヘン戦争後の民族的危機の高まりの
中、清の魏源が著した地理書。西洋諸国の情勢を述べるとともに中
国の富国強兵を説き、開国で揺れる日本でも西洋事情を知るための
情報源として読まれている。

 同書にはアメリカの牢獄に関する記述もあり、
 “牢獄内は清潔で換気も十分。敷地内には受刑者が散歩できる場
所があり、職員は受刑者に丁寧な言葉で話しかけて更正に導く。受
刑者には労働を割り当てて収益を挙げている“

 この記述に啓発された吉田松陰は、安政2年(1855)6月、獄中で
「福堂策」を著する。当時、松陰は海外密航を図った罪で萩の野山
獄に幽因中だった。
 展示資料は、「海国図志」の「墨利加洲部」(全2冊、昌平坂学問
所旧蔵)、嘉永7年(1854)に出版されたもので、返り点や送り仮名
が付けられている。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)

ミュージアム巡り 江戸の罪と罰 草茅危言

2015-02-09 05:43:18 | ミュージアム巡り_2015
 凶悪犯が増えていくと治安が悪くなり、牢屋では囚人が判決を受
ける前に死亡してしまう。そんな刑罰と牢獄の現状を憂慮して、改
革を唱える知識人が現れる。
 大坂の儒者・中井竹山(1730~1804)は、天明8年(1788)、老中・
松平定信から政治経済や諸問題について諮問を受け、その答申とし
て「草茅危言」(1789年、全5冊、農商務省旧蔵)を著して献上して
いる。

 同書の“盗賊”の項で竹山は、従来の入墨の刑では罪人を平民に変
えるのは難しく、スリのような小盗も現在のように見逃していては
凶悪犯に変貌する恐れがあると憂慮している。
 また、竹山は弟の中井履軒(1732~1817)の著書「恤刑茅議」を引
用して、罪人を永牢という収容施設を設けて拘禁し労働を科す提案
をしている。

 死刑と追放刑、身体刑中心の刑罰では、もはや多発する犯罪を抑
え治安を維持することは出来ないという認識を多くの人が抱いてい
た。この永牢の構想は老中の定信に受け入れられ、人足寄場の創設
を促している。
(国立公文書館:千代田区北の丸公園3-2)