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KIND OF BLUE

「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」

大聖人の「四度の大難」

2010-10-16 | 教学の研さんについて
末法に、法華経を弘める者には、必ず迫害がある――そう法華経には説かれています。
日蓮大聖人の御生涯は、まさに迫害による難の連続でした。
大聖人は御自身が受けられた難について「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(御書200ページ)と言われています。四度の大きな難とは(1)松葉ケ谷(まつばがやつ)の法難(2)伊豆流罪(3)小松原の法難(4)竜(たつ)の口の法難・佐渡流罪の四つです。
大聖人は二度にわたる流罪をはじめ、権力の迫害によって処刑場で首を斬られるような事態になったことや、武装襲撃など、命に及ぶ数々の難を受けられました。また、あらゆる階層の人々から憎まれ、悪口されました。
法華経には、末法の法華経の行者(ぎょうじゃ)が「刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)」(刀や杖で打たれ、瓦や石を投げつけられる)、「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」(権力によって何度も追放される)、「悪口罵詈(あっくめり)」(悪口を言われ、罵〈ののし〉られる)などの難を受けると説かれています。
大聖人は「開目抄」で、御自身が受けられた大難を挙げながら「ただ日蓮一人がこれらを身で読んだのである」(御書203ページ、趣意)と仰せです。大聖人の遭われた難は、まさに、これら法華経の文と一致し、大聖人が身をもって法華経を読まれたこと(法華経の身読)が明らかになるのです。
そうした法華経の身読によって、大聖人が末法の御本仏であることが、事実と経文の一致をもって客観的に証明されました。しかし、大聖人が大難を受けられたことの意義は、法華経を身読したということだけにとどまりません。
大聖人は、法華経に説かれている通りに、数々の大難を受け、そのすべてに耐え抜き、民衆救済の振る舞いに徹し抜かれた勝利の姿をもって、一人の人間が、生命に本来そなわる仏界の偉大な力を湧現できることを、証明されたのです。
凡夫がそのまま仏になる――これこそが、法華経の核心であり、魂です。大聖人は大難の連続のなかで、この法華経の魂を身をもって示されたのです。

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