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KIND OF BLUE

「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」

報恩抄

2010-08-14 | 代表的な御書
建治2年(1276年)7月21日、日蓮大聖人が55歳の時、身延において御述作になり、安房国(千葉県)清澄寺の故郷、道善房の供養のため浄顕房、義浄房のもとへ送られた書で、五大部、十大部の一つです。日蓮大聖人が清澄寺で12歳の時より修学に励まれた時の師匠が道善房で、浄顕房、義浄房の二人は兄弟子でありました。民部日向が使者として本抄を持って清澄寺に行き、蒿が森の頂きと故道善房の墓前で本抄を拝読しました。
内容は、最初に通じて四恩を報じ、別して故師道善房の恩を報ずべきことを明かされ、そのためには出家して一代聖教を学ばなくてはならないとされています。しかし一代聖教を学ぶ明鏡となるべき十宗がそれぞれ自宗の正当性を主張しているために、いずれが仏の本意か分からない。そこでインド、中国、日本の各宗の教義を挙げて破折され、一代聖教の中では法華経が最勝であり、法華経の肝心は題目にあることを示され、さらに末法の法即人の本尊と、戒壇、題目の三大秘法を整足して明かされています。
特に真言(密教)を破折され、天台座主でありながら真言に転落した慈覚、智証については厳しく破されています。最後に三大秘法を流布し、一切衆生を救済することが師の大恩を報ずる道であることを明かされています。
なお「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(御書329ページ)の御文は日蓮大聖人の三徳を明かされています。

撰時抄

2010-08-09 | 代表的な御書
建治元年(1275年)日蓮大聖人が54歳の時、身延においてお認めになり、駿河国(静岡県)西山の由井某に与えられた書で、五大部、十大部の一つです。由井氏は芝川と富士川に合流する河合に住んでいた日興上人の外戚にあたります。
佐渡から鎌倉に帰られた日蓮大聖人は、文永11年(1274年)5月、身延に入られました。そして翌建治元年(1275年)に本抄をお認めになります。撰時抄とは「時を撰ぶ抄」の意となります。
本抄は、まず「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」と説き起こされ、以下、正像末の三時にわたり、インド・中国・日本の三国にわたって、それぞれの時代、それぞれの国における機感相応の正法を明かしています。
すなわち、インドにおいては正法の初めの五百年に、迦葉、阿難等が小乗教を流布し、次いで正法の後半の五百年には、竜樹、天親等が出現して権大乗教を弘めます。次いで仏滅後千十五年に、仏教は中国へ伝来し、像法の中期には、天台大師が中国において法華経の迹門を広宣流布し、同じく像法の終わりには伝教大師が日本において比叡山に円頓の戒壇を建立します。
仏の予言によれば、仏滅後二千年を過ぎると末法となり、白法隠没の時代となります。この時に、上行菩薩が世に出現して三大秘法を広宣流布し、末法の一切衆生を救うことを示され、大聖人の御出現は、仏滅後二千二百余年にあたり、当時の世相は仏の予言通りであることを述べられています。そして特に真言の邪法を徹底的に破折されながら、末法に寿量品文底秘沈の三大秘法が広宣流布することを明かされているのです。

観心本尊抄

2010-08-08 | 代表的な御書
文永10年(1273年)4月25日、日蓮大聖人が52歳の時、佐渡流罪中に、一谷で御述作になり、下総国(千葉県)葛飾郡八幡荘の富木常忍に与えられた書で、観心本尊抄、本尊抄ともいいます。五大部、十大部の一つです。開目抄が人本尊開顕の書であるのに対し、観心本尊抄は法本尊開顕の書であり、教行証に配すると観心本尊抄は受持即観心の義を明らかにしているので行の重に配されます。
観心本尊抄の内容は、大きく四段に分けられます。第一段で一念三千の出処として、初めに摩訶止観巻五上の一念三千の出処を正しく示され、次に一念三千が情非情にわたることを明かされています。 第二段では観心の本尊の観心の義について述べられ、観心とは衆生の観心であり、末法においては本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることに尽きるとして、受持即観心の義を明かされています。
第三段では末法に建立される本尊を明かされ、五重三段の教相を論じ、釈尊の教相・寿量文上脱益の本尊を破って、寿量文底下種の本尊を示され、末法の観心の本尊を結せられています。
最後に久遠元初自受用身である御本仏、日蓮大聖人が大慈悲を起こされ、南無妙法蓮華経の大御本尊を御図顕されて、末法の一切衆生に信受せしめることを明かされています。
このように観心本尊抄には、五重三段、受持即観心、末法下種の法本尊の開顕など、日蓮大聖人御建立の三大秘法の御本尊が末法の独一本門であることが詳しく説かれていのです。

開目抄

2010-08-06 | 代表的な御書
文永9年(1272年)2月、日蓮大聖人が51歳の時、佐渡御配流中に塚原で御述作、門下一同に与えられた書です。上下二巻からなり、五大部、十大部の一つです。観心本尊抄が法本尊開顕の書であるのに対して、開目抄は人本尊開顕の書であり、教行証に配すると、開目抄は一代の諸経の勝劣浅深を判じ、五段の教相を説いているので教の重に配されます。
日蓮大聖人が文永8年9月12日に竜の口の法難、ついで同10月に佐渡配流になると、弟子檀那に対しても迫害が襲いかかったために、ある者は耐えず、ある者は諸天の加護なきを疑い、ある者は大聖人が法難に遭われたことに不信を起こすなど、退転する者が続出しました。そのため大聖人は門下の疑いを解き、かつ末法の御本仏であることを宣言なさるため本抄をしたためられたのです。
文永8年11月から起草、翌文永9年2月に完成されて、有縁の門下のなかにも特に四条金吾に与えられました。
開目抄は、末法下種の人本尊をあらわすために、初めに主師親の三徳を尊敬すべきを標し、次に儒外の三徳を挙げ、次に内典の三徳を釈し、一代聖教の浅深を判じて熟脱の三徳をあらわしています。次に大聖人こそ真実の法華経の行者であることを明かして下種の三徳をあらわし、最後に「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(御書237ページ)と本抄の元意を結ばれ、日蓮大聖人御自身が寿量文底の主師親三徳を具えた末法の御本仏であることを明らかにされています。
また、本抄で一代諸経の浅深を判ずるのに五段の教相、すなわち五重相対を説かれています。

立正安国論

2010-08-04 | 代表的な御書
文応元年(1260年)7月16日、日蓮大聖人が39歳の時、宿屋入道光則を通じて当時の鎌倉幕府の最高権力者、北条時頼に提出された諫暁の書です。日蓮大聖人御述作の中でも開目抄や観心本尊抄とともに最重要の書で、十大部の第一にあげられています。
立正安国論とは「正(法)を立て国を安んずる書」という意になり、全体が客と主人の問答形式で述べられています。客とは宗教の是非や高低深浅も知らずに、誤った宗教に執着し、迷妄に覆われた一切衆生であり、別しては北条時頼のことを指します。主人とは仏法に無知な客に対して法華の正法を説き示す人で、日蓮大聖人をあらわしています。
最初に、相ついで起こる天災、飢饉、疫病の原因は、世の人々がみな正法を捨てて悪法を信じていることにより、国土を守護すべき善神が去って、悪鬼・魔神が乱入したためであるとされ、金光明経、大集経、仁王経、薬師経の4経の文を引かれて、正法を信じないで謗法を犯すことによって三災七難が起こると述べられています。
そして社会を覆い、人々の生命をむしばんでいる一凶は法然の念仏であるとし、この一凶を断って布施を止め、正法に帰依するならば、一切の災難が消えて平和楽土が実現すると説かれています。しかし、もし正法に帰依しなければ、七難の中、まだ起こっていない自界叛逆難と他国侵逼難の二難が競い起こるであろうと予言され、すみやかに実乗の一善(妙法)に帰依するよう強く訴えて結ばれています。