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KIND OF BLUE

「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」

三証

2010-07-16 | 宗教を考える基準
三証とは、「文証」「理証」「現証」の三つをいいます。
「文証」とは、その宗教の教義が経文、仏典のうえで裏づけをもっているかどうか、ということです。日蓮大聖人は、「経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり」(御書482ページ)と、経文上の明確な根拠のある教義を用いるべきであり、経典によらない教えを用いてはならないと戒められています。文証に基づかない教義は、所詮、自分勝手な主張になるからです。仏教であるならば、釈尊の教え、すなわち経文に基づくものでなければなりません。また、私たちの場合で言えば、文証とは、日蓮大聖人の「御書」に基づいているかどうかです。
次に「理証」とは、その宗教の教義や主張が道理にかなっているかどうか、ということです。「仏法と申すは道理なり」(同1169ページ)と仰せのように、仏法はあくまで道理を重んじます。道理に外れた主張は用いてはならないのです。
「現証」とは、その宗教の教義を実践した結果が生命や生活、そして社会にどのように現れたか、ということです。宗教とは、観念的なものではなく、人々の生活や人生の側面に必ず大きな影響を与えるものです。そして、その現実の結果がどう生活や人生に影響を与えたかで、宗教の勝劣浅深を判断していくべきです。
日蓮大聖人は「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(同1468ページ)と仰せです。この御文で「道理」とは理証、証文とは文証のことです。この御文に明らかなように、大聖人が一番重視されたのが現証です。それは、本来、現実の人間を救うために仏法があるからです。
また、この三証のどれか一つが欠けても正しい宗教とはいえません。薬で譬えれば、成分表や効能書きがあり(文証)、効き目がある確かな理由があり(理証)、実際に服用して、体が回復するという明確な結果が出てこそ(現証)、有効な薬と言えます。反対に適切な薬でなければ体にとって毒となってしまいます。
日蓮大聖人の仏法は、理論のうえでも、現実のうえでも、万人が納得できる客観的、普遍的な根拠を持つ宗教なのです。

五重の相対(5)種脱相対

2010-07-12 | 宗教を考える基準
種脱相対とは、久遠実成を明かす文上の本門と南無妙法蓮華経を明かす日蓮大聖人の文底独一本門を相対したものであり、法華経文上の本門が脱益、日蓮大聖人の文底独一本門が下種益の法門です。
文底独一本門とは、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている真実の成仏の因果を明らかにした日蓮大聖人の仏法のことです。
「種脱」とは「下種益」と「脱益」のことです。これについて、まず説明します。
「下種」とは、仏が衆生に初めて成仏の種子となる法を教えることをいい、その法を聞くことによって衆生の生命に成仏の種子が植えられる利益を「下種益」といいます。
また、仏の教化によって次第に衆生の生命が整えられ、成熟していくことを「調熟」といい、その利益を「熟益」といいます。
そして、最終的に成仏することを「得脱」といい、その利益を「脱益」といいます。これは仏の衆生教化の過程を、稲などが種を下されて成熟し、収穫されるのに譬えたものです。
釈尊の真実の仏の境涯を明かした法華経の文上本門は、爾前迹門の教えによって調熟されてきた衆生を仏の悟りに至らせ、得脱させる「脱益」の働きがあります。釈尊の真実の仏の境涯という果を明かすことによって衆生が得脱できたのは、その衆生の生命がそれだけ成熟していたからです。
しかし、末法の衆生は、そのような成熟の過程を経ていない凡夫です。したがって、法華経の本門、つまり釈尊の真の仏果を説く脱益のための教えでは成仏することができません。
法華経の本門で、釈尊の久遠の成道が説かれたといっても、それは結果の姿であり、成仏の真実の原因となる法が衆生に対して明確に示されたわけではありません。釈尊自身が修行して成仏した根源の法が何であるかについて、法華経では示されていないのです。
日蓮大聖人は、成仏の真実の原因となる法が本門寿量品の文底に秘沈されていると仰せです。その法が、釈尊を成仏せしめ、またあらゆる仏を成仏させた仏種です。日蓮大聖人はこの根源の仏種を南無妙法蓮華経として顕し、弘められました。末法の衆生はこの南無妙法蓮華経を信受し唱えることにより、自身の生命に仏種が下され、初めて成仏することができるのです。
法華経本門が脱益にとどまるのに対して、南無妙法蓮華経は下種益の法です。このことを日蓮大聖人は「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(御書249ページ)と述べられています。「彼」とは法華経文上の本門、「此れ」とは文底独一本門のことです(なお、「一品二半」とは法華経本門の中心となる部分で、寿量品の一品とその前後の半品ずつのことです)。
大聖人の下種仏法によって、成仏の種子を衆生の生命に植えることが可能になり、すべての衆生が一生のうちに種熟脱を具えて仏界の生命を現し、成仏していける道が開かれたのです。
このように、末法の衆生は釈尊の脱益仏法では成仏できず、大聖人の下種仏法によって初めて成仏できることを明かしたのが種脱相対です。

五重の相対(4)本迹相対

2010-07-11 | 宗教を考える基準
本迹相対とは、法華経二十八品を前半十四品の迹門と後半十四品の本門に立て分け、両者を比較相対して、本門の教えが迹門の教えに勝ることを示したものです。
本迹の本とは本地(=仏・菩薩の本来の境地)、迹とは垂迹(=衆生教化のために現した仮の姿)という意味です。
法華経の後半十四品は釈尊が仏としての真実の境地(本地)を顕した法門なので本門といい、前半十四品はまだ本地を顕さず、仮の姿のままなので迹門といいます。
法華経の前半十四品では、二乗作仏、諸法実相を説いて一切衆生の成仏の法理を明かしましたが、権教と同様、釈尊がインド伽耶城近くの菩提樹の下で初めて悟りを得たという見方が前提になっています。この仏の立場を「始成正覚」といいます。
しかし、これは釈尊という仏の仮の姿に過ぎず、真実の姿ではないと打ち破ったのが本門寿量品の説法です。
始成正覚という釈尊の仏果が打ち破られることによって、その始成正覚の釈尊によって説かれた権教や迹門の種々の仏果も、結局は仮のものであると打ち破られたことになります。
また、それらを目指して行うように説き示された種々の修行(因)も、真実の成仏の因ではないと打ち破られたことになるのです。
したがって、迹門までの教えでは、真実の成仏の因果が説かれたことにはならないのです。
それに対して後半十四品、特に要の寿量品では、釈尊はインドの伽耶城近くの菩提樹下で初めて成仏したのではなく、実は思惟を絶するはるか久遠の昔に成仏して以来、種々の姿を現して衆生を教化している永遠の仏であるという釈尊の真実の姿が明かされたのです。
この仏の立場を「久遠実成」といいます。
本門で仏の生命の常住(過去・現在・未来の三世にわたって常に存在すること)が明かされたことによって、初めて一切衆生の生命が常住であることが示されたのです。
また、権教・迹門においては、仏の国土は現実世界(娑婆世界)から離れた別の世界にあるとされてきたのに対して、本門では娑婆世界こそが仏の国土であることが明かされました。
釈尊の真実の境地を明かすことを通して仏の常住、衆生の生命の常住、国土の常住という本門の法理が明らかにされ、現実世界に生きる衆生が自身に本来具わる仏界の生命を覚知することで成仏できるという真実の成仏観が初めて明らかになりました。真実の成仏観を明かした本門が、それを明かしていない迹門よりも優れていることはいうまでもありません。

五重の相対(3)権実相対

2010-07-09 | 宗教を考える基準
権実相対とは、大乗教を、仏の真実の悟りを明かした実大乗教(法華経)と、真実を明かすための準備、方便として説かれた権大乗教に立て分け、権大乗教よりも実大乗教が勝ることを示したものです。権とは仮の意、実とは真実の意です。
仏は本来、いかなる境涯の人をも成仏させる根本法を悟ったのですが、大乗経典のなかでも華厳経・般若経・阿弥陀経・大日経などの法華経以外の諸経では、二乗(=声聞・縁覚)の成仏や、悪人・女性の成仏を否定しています。また、その他の人々についても成仏のためには何度も生まれ変わって修行を積み重ねなければならないとしています。
また、仏についても、阿弥陀仏や大日如来などという、人間を超越し、現実世界から遊離した世界に住む架空の仏を説きます。
成仏や仏に関するこれらの教えは、仏の悟りを理解させるための手段(方便)として、当時のインドの人々の考え方に合わせた説き方をしたものであり、仏の境涯、あるいは悟りの法の一側面、一側面を説いているに過ぎないのです。
それに対して、実教である法華経は、二乗や悪人・女性を含めて、一切衆生が平等に成仏できることを説き、その根拠となる法(一念三千の法門)を明かしています。
諸経は仏の悟りを説くための方便として説かれたのであり、法華経にこそ仏の真実の悟りが明かされているのです。それゆえに、権教は劣り、実教は勝るのです。

五重の相対(2)大小相対

2010-07-08 | 宗教を考える基準
大小相対とは、仏教のなかで小乗教と大乗教を比較相対し、大乗教が小乗教よりも勝っていることを明かすものです。
「乗」とは、乗り物の意味で、仏の教えが、人々を迷いと苦悩から悟りの境地へと運び、導くので、乗り物に譬えたのです。
小乗教とは、釈尊滅後、多くの部派に分かれて展開された部派仏教の教説がそれに当たります。経典としては阿含経を用い、論(教理を体系づけた理論書)としては倶舎論などが著されました。
これに対して、紀元前後から小乗教を批判しつつ、釈尊の精神に立ち戻る仏教ルネサンス運動として展開されたのが大乗教です。
大乗教の経典としては華厳経、般若経、阿弥陀経、大日経、法華経などがあり、論としては大智度論などが有名です。
小乗教は、出家して修行し、自分だけが悟ることを目指す二乗(=声聞、縁覚)のための教えです。これは小さな範囲の人々しか救えないという意味で、小さな乗り物に譬えるのです。
小乗教では、苦悩の原因は自分自身の煩悩にあると説き、苦悩を解決するには煩悩を滅する以外にないとして、厳しい戒律と修行による解脱(=悟りによる苦悩からの解放)を求めました。これは、煩悩を解決する道(因果)を自分の生命の内に求める点では正しいと言えます。
しかし心身を滅すること(因)によって煩悩を完全になくした境地(果)を目指す小乗教の生き方は、結局、生命自体を否定することになり、真実の救いにはなりません。ゆえに大乗教の側から灰身滅智(=身を焼いて灰にし、智慧を断滅していく)の教えであると批判されました。
これに対して、大乗教は、自分も他人もともに幸福になろうとする菩薩のための教えです。大乗教は、自分の救いを求めるだけでなく、他の多くの人々を救うことを目指すので、大きな乗り物に譬えられるのです。
大乗教では、小乗教のように煩悩を排除するのではなく、煩悩のある生命に菩提(=悟り)の智慧を現して、その智慧によって煩悩を正しくコントロール(制御)し、清浄で力強い生命主体(仏界)を確立することを教えています。これを煩悩即菩提といいます。

五重の相対(1)内外相対

2010-07-07 | 宗教を考える基準
五重の相対とは、内外相対、大小相対、権実相対、本迹相対、種脱相対の五つの相対(比較)をいいます。
これは、一切の思想、宗教、なかでも仏教の種々の教えを比較検討して、その浅深、高低を判定していくものです。
その判定の基準は、生命の因果(人間に幸・不幸をもたらす原因と結果)をどう説いているかにあります。
日蓮大聖人は、開目抄において五重の相対を明かし、大聖人が弘められる文底独一本門の仏法こそが、末法の衆生を救済しうる最高の教えであることを示されています。内外相対とは、内道である仏教と、中国の外典(儒教・道教など)やインドの外道などの仏教以外の教えとを比較相対して、内道の仏教が優れていることを明かすものです。
日蓮大聖人は開目抄で、インド・中国における仏教以外の諸宗教の祖師たちについて「因果を弁ざる事嬰児のごとし」(御書188ページ)と述べられています。この因果(=原因と結果)とは、人間の幸・不幸に関わる因果であり、絶対の幸福境涯をあらわしていくための因果です。この人間の幸・不幸に視点を当てた因果を的確に説いているのが仏教(内道)で、仏教以外の諸宗教(外道)はその因果を説かないか、説いても偏った因果観にとどまっています。
儒教・道教は、現世だけを見て、過去世・現在世・未来世の三世の因果を説きません。インドの諸宗教(バラモン教など)には三世の因果を説くものもありますが、それは過去世の原因によって今世に得られる幸・不幸の結果(境涯)が決まっているという運命論・決定論にとどまっており、今世における変革の可能性は説きません。わずかに神などの力で、天に生まれ変わることができると説くに過ぎません。 仏教以外の教えには、このほかに因果そのものを否定する説なども含めて、さまざまな因果説がありますが、いずれも偏った因果観であると言わざるをえません。
それに対して仏教(内道)では、人間の内面に変革の可能性があることを洞察し、今世の行いによって、苦悩を安心へ、不幸を幸福へと転換できることを説きます。