45年(昭和20年)7月3日、第二代会長は、2年におよぶ獄中生活を終え、出獄します。日本の敗戦の1カ月半前のことで、東京は既に度重なる空襲で焦土と化し、悲惨な戦争のために民衆は苦しみにあえいでいました。しかも、軍部政府の弾圧で、幹部の多くが退転し、組織は壊滅状態でした。第二代会長は、ただ一人、初代会長の遺志を継ぎ、広宣流布を固く心に誓ったのです。
そのために、まず学会再建に着手した第二代会長は、自分が経営する東京・西神田の会社の2階を活動の拠点としました。そして、翌年正月を期して、法華経講義を開始する一方、座談会、夏季講習会などを開催していきました。
また、この学会の新出発にあたり、教育改革だけでなく、全民衆の幸福と世界の平和を目指す学会の目的に即して、「創価教育学会」の名称を「創価学会」に改めています。
そうした中、47年(昭和22年)8月24日、池田名誉会長が創価学会に入会。そして49年(昭和24年)1月、名誉会長は第二代会長が経営していた出版社「日本正学館」に入社しました。一年を経ずして出版業は行き詰まり、第二代会長は信用組合の仕事を始めますが、これも悪化。多くの社員がやめていく中で、ただ一人、懸命に第二代会長を支えたのが名誉会長だったのです。
50年(昭和25年)8月、第二代会長は自身の事業の破綻の影響が、創価学会自体におよぶことを憂慮して、理事長職を退く意志を固め、11月に正式に辞任しました。
しかし、この窮地の中でも、名誉会長をはじめ、弟子の青年を手塩にかけて育成していきます。
そのために、まず学会再建に着手した第二代会長は、自分が経営する東京・西神田の会社の2階を活動の拠点としました。そして、翌年正月を期して、法華経講義を開始する一方、座談会、夏季講習会などを開催していきました。
また、この学会の新出発にあたり、教育改革だけでなく、全民衆の幸福と世界の平和を目指す学会の目的に即して、「創価教育学会」の名称を「創価学会」に改めています。
そうした中、47年(昭和22年)8月24日、池田名誉会長が創価学会に入会。そして49年(昭和24年)1月、名誉会長は第二代会長が経営していた出版社「日本正学館」に入社しました。一年を経ずして出版業は行き詰まり、第二代会長は信用組合の仕事を始めますが、これも悪化。多くの社員がやめていく中で、ただ一人、懸命に第二代会長を支えたのが名誉会長だったのです。
50年(昭和25年)8月、第二代会長は自身の事業の破綻の影響が、創価学会自体におよぶことを憂慮して、理事長職を退く意志を固め、11月に正式に辞任しました。
しかし、この窮地の中でも、名誉会長をはじめ、弟子の青年を手塩にかけて育成していきます。