KIND OF BLUE

「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」

学会再建に奔走

2010-10-30 | 創価学会と三代会長
45年(昭和20年)7月3日、第二代会長は、2年におよぶ獄中生活を終え、出獄します。日本の敗戦の1カ月半前のことで、東京は既に度重なる空襲で焦土と化し、悲惨な戦争のために民衆は苦しみにあえいでいました。しかも、軍部政府の弾圧で、幹部の多くが退転し、組織は壊滅状態でした。第二代会長は、ただ一人、初代会長の遺志を継ぎ、広宣流布を固く心に誓ったのです。
そのために、まず学会再建に着手した第二代会長は、自分が経営する東京・西神田の会社の2階を活動の拠点としました。そして、翌年正月を期して、法華経講義を開始する一方、座談会、夏季講習会などを開催していきました。
また、この学会の新出発にあたり、教育改革だけでなく、全民衆の幸福と世界の平和を目指す学会の目的に即して、「創価教育学会」の名称を「創価学会」に改めています。
そうした中、47年(昭和22年)8月24日、池田名誉会長が創価学会に入会。そして49年(昭和24年)1月、名誉会長は第二代会長が経営していた出版社「日本正学館」に入社しました。一年を経ずして出版業は行き詰まり、第二代会長は信用組合の仕事を始めますが、これも悪化。多くの社員がやめていく中で、ただ一人、懸命に第二代会長を支えたのが名誉会長だったのです。
50年(昭和25年)8月、第二代会長は自身の事業の破綻の影響が、創価学会自体におよぶことを憂慮して、理事長職を退く意志を固め、11月に正式に辞任しました。
しかし、この窮地の中でも、名誉会長をはじめ、弟子の青年を手塩にかけて育成していきます。

戸田城聖第二代会長 獄中の悟達

2010-10-27 | 創価学会と三代会長
43年(昭和18年)7月6日、戸田第二代会長は東京・白金台町の自宅に刑事の訪問を受け、治安維持法違反、不敬罪の容疑で検挙されました。高輪署に留置されてから3日目、刑事から牧口初代会長も検挙されたことを知らされた戸田第二代会長が、何よりも心配したのは高齢の初代会長のことでした。
警視庁に移送後、初代会長の姿を目にすることができたのは一度だけでしたが、初代会長が警視庁から東京拘置所に移送される折には、ほんのわずかな時間の面会が許されました。
「先生、お丈夫で・・・・・・」
この一言が、初代会長と第二代会長の生涯最後の別れとなってしまうのです。
やがて第二代会長も、東京拘置所に移され、3畳ほどの独房での生活を強いられました。
池田名誉会長は、この当時の状況を、こう語っています。
「多くの同信退転の徒が、ネズミのごとく右往左往し、師と言っていた牧口先生を憎み、裏切っていった」
「そのなかで、ただ一人、戸田先生だけが『私は牧口先生の弟子である』と、師弟の道を貫かれた。牧口先生とともに獄に入られた戸田先生は言われている。『あなた(牧口先生)の慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れていってくださいました』と。普通なら、牢獄まで一緒に連れていった人に感謝するはずはない。悪口や文句を言って当たり前であろう」「しかし、戸田先生は、牧口先生に心から感謝されていた。ここに、学会の根本である”師弟の精神”を残されたのである」
粗末な食事による栄養失調と不自由な獄中生活にあっても、牛乳ビンのふたを集めて数珠をつくり、毎日、唱題を重ねていきました。そして44年(昭和19年)元日からは、法華経二十八品を読み進めていったのです。そうした中で、3月のある日、「仏とは生命なり」と、さらに11月中旬には「我、地涌の菩薩なり」との偉大な悟達を得たのです。
ここに、第二代会長は、日蓮大聖人の仏法への確信を不動のものとするとともに、広宣流布の指導者としての自らの使命をはっきりと自覚したのです。
一方、初代会長は、この年、奇しくも学会創立の日の11月18日、73歳で尊い殉教の生涯を終えました。第二代会長が、初代会長の獄死を知らされたのは、翌年1月8日のことでした。

人権闘争を貫き殉教

2010-10-24 | 創価学会と三代会長
国家神道を精神的支柱として戦争を遂行しようとする軍部政府は、思想を統制し、皇大神宮の神札をまつるよう勧告していました。しかし、民衆の幸福と平和を願い、日蓮大聖人の仏法を実践する初代会長、第二代会長は、神札を断固として拒否したのです。
当時、日蓮正宗宗門は、こうした国家神道を破折するどころか、臆病にも、完全に権力に屈服していました。43年(昭和18年)6月、初代会長、第二代会長を大石寺に呼び付け、神札を受けるよう申し渡すという、考えられない謗法容認の行為に出たのです。
「承服いたしかねます。神札は絶対に受けません」――初代会長は謗法厳誡の大聖人の御精神のままに歩み抜く、決然たる覚悟を示しました。
しかし、軍部政府は、仏法の正義を掲げ、生命の尊厳を説き、世界平和の実現を目指し、信教の自由を貫こうとする創価教育学会の存在を許しませんでした。
その直後の7月2日に、初代会長は伊豆・下田へ。数日前に学会幹部が検挙されるといった緊迫した状況のもと、堂々と折伏に向かったのです。
そして、7月6日朝、初代会長は宿泊先(須崎)で、治安維持法違反、不敬罪の容疑で検挙されたのです。同行の婦人と別れる際、「戸田君によろしく」と伝言を託しました。そして第二代会長も同日朝、東京で検挙。翌7日、初代会長は下田警察署から東京の警視庁へ護送されました。
この時、面会に来た家族に対して、警視庁の係官らの面前にもかかわらず初代会長は、「信心だけは、怠ってはいけないよ。心配しないでいいから」と、逆に励ましたのです。
この弾圧で、学会幹部で検挙されたのは初代会長、理事長の第二代会長を含めて21人。しかし、厳しい取り調べのなかで、最後まで仏法の正義を叫び通したのは、初代会長と第二代会長だけでした。
44年(昭和19年)11月18日、創価教育学会創立から14年後のその日、初代会長は老衰と極度の栄養失調のため、拘置所内の病監で逝去。満73歳でした。
その死は、国家神道を精神的支柱としていた軍部政府の弾圧に抗して、仏法の正義を守り抜いた殉教でした。初代会長の獄中での戦いは、信教の自由を守るための尊い人権闘争でもあったのです。

弘教・座談会の先頭に立つ

2010-10-22 | 創価学会と三代会長
初代会長は、高齢にもかかわらず、自ら活動の先頭に立ち、北は北海道から、南は鹿児島まで足を運びました。
例えば39年(昭和14年)、68歳の時には福岡の八女へ。東京駅から片道20時間以上の旅程で弘教に赴いたのです。
その翌年、翌々年にも九州へ。福島県の郡山、二本松へは71歳の時。それまでにも、茨城、北海道、新潟などへと足を運び、座談会に、弘教に、家庭指導にと、労をいとわず庶民の中に飛び込んでいきました。
また、指導を求めて自宅を訪れる会員を抱きかかえるように激励。冬の寒い夜、婦人が子どもを背負って帰ろうとすると、古新聞を半てんの間に入れ“こうすれば着物を余計に一枚着せたことになるんだよ”と温かな心配りもしました。
“民衆とともに”“人間の幸福のために”――仏法を根幹とした慈愛の行動に徹していったのです。
しかし、それに対して軍部政府は、座談会などの会合に、思想犯の摘発に当たった特高(特別高等警察)の刑事を派遣するなど、厳しい監視を始めました。当時、宗教団体法、治安維持法のもとに国内の宗教団体は、治安当局の厳しい統制下に置かれていたのです。

創価の源流

2010-10-21 | 創価学会と三代会長
初代会長は1871年(明治4年)6月6日、柏崎県刈羽郡荒浜村(現在の新潟県柏崎市内)に生まれました。14歳で北海道に渡り、苦学して北海道尋常師範学校を卒業。教育者の道に進み、上京後、32歳で名著『人生地理学』(1903年)を出版しました。その10年後から、いくつかの尋常小学校で校長を歴任します。
日蓮大聖人の仏法に帰依したのは1928年(昭和3年)。東京の白金尋常小学校の校長を務めていた時でした。愛弟子の戸田第二代会長も、初代会長に続き大聖人の仏法に帰依しました。
池田名誉会長は「人生の目的とは何か。その実現のために、何を『価値』とし、その価値を、どう『創造』していくのか――こうした根本の問いに答える大哲学こそ、日蓮大聖人の仏法であると、牧口先生は発見された」「日本が国家主義への傾斜を強める中、牧口先生は“教育に関する展望をもて!”“価値論を根本哲学として取り上げよ!”と主張された。そして、その魂である大聖人の仏法を、声高く叫び続けていかれたのである」と語っています。
2年後の30年(昭和5年)、第二代会長とともに創価教育学会を創立。初代会長59歳、第二代会長30歳の時でした。当初、創価教育学会は、初代会長の教育学説に共鳴する教育者の団体として出発しましたが、次第に大聖人の仏法の実践を活動の主軸とする団体となっていきます。
その活動は、名誉会長が「心を通わせ、ともに歩き、ともに行動する。そこに対話は生まれる。牧口先生も戦時中、権力の魔手が迫るなかで、最後の最後まで折伏の歩みを進められ、『対話』を続けられた」と述べているように、あくまでも「一対一の対話」と「座談会」が中心でした。

広宣流布の基盤を確立した三代会長

2010-10-19 | 創価学会と三代会長
一切衆生(全人類)の幸福と平和のために説かれた日蓮大聖人の仏法は、今や「世界」へと広がりました。創価学会の前進によって、仏教史上はじめて、一閻浮提(世界)広宣流布の理想が現実化したのです。
今日、「21世紀の世界宗教」として飛翔する学会の盤石な基盤を確立したのが、牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長、池田大作第三代会長です。
私たちは、この「三代会長」が築き上げた創価学会の偉大な歴史を学び、広宣流布の活動に参加できる使命と喜びを確認し合っていきたいものです。
そこで、まず初代会長の広布の足跡の一端をたどってみましょう。

大聖人の「四度の大難」

2010-10-16 | 教学の研さんについて
末法に、法華経を弘める者には、必ず迫害がある――そう法華経には説かれています。
日蓮大聖人の御生涯は、まさに迫害による難の連続でした。
大聖人は御自身が受けられた難について「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(御書200ページ)と言われています。四度の大きな難とは(1)松葉ケ谷(まつばがやつ)の法難(2)伊豆流罪(3)小松原の法難(4)竜(たつ)の口の法難・佐渡流罪の四つです。
大聖人は二度にわたる流罪をはじめ、権力の迫害によって処刑場で首を斬られるような事態になったことや、武装襲撃など、命に及ぶ数々の難を受けられました。また、あらゆる階層の人々から憎まれ、悪口されました。
法華経には、末法の法華経の行者(ぎょうじゃ)が「刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)」(刀や杖で打たれ、瓦や石を投げつけられる)、「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」(権力によって何度も追放される)、「悪口罵詈(あっくめり)」(悪口を言われ、罵〈ののし〉られる)などの難を受けると説かれています。
大聖人は「開目抄」で、御自身が受けられた大難を挙げながら「ただ日蓮一人がこれらを身で読んだのである」(御書203ページ、趣意)と仰せです。大聖人の遭われた難は、まさに、これら法華経の文と一致し、大聖人が身をもって法華経を読まれたこと(法華経の身読)が明らかになるのです。
そうした法華経の身読によって、大聖人が末法の御本仏であることが、事実と経文の一致をもって客観的に証明されました。しかし、大聖人が大難を受けられたことの意義は、法華経を身読したということだけにとどまりません。
大聖人は、法華経に説かれている通りに、数々の大難を受け、そのすべてに耐え抜き、民衆救済の振る舞いに徹し抜かれた勝利の姿をもって、一人の人間が、生命に本来そなわる仏界の偉大な力を湧現できることを、証明されたのです。
凡夫がそのまま仏になる――これこそが、法華経の核心であり、魂です。大聖人は大難の連続のなかで、この法華経の魂を身をもって示されたのです。

必ず魔が競う

2010-10-14 | 教学の研さんについて
日蓮大聖人は、仏道修行と三障四魔の関係について、「この妙法を語っていけば、必ず魔があらわれる。魔が競わなければ、正法とはいえない」(御書1087ページ、趣意)と仰せです。
さらに、『摩訶止観(まかしかん)』の「修行を重ねていけば、三障四魔が競い起こってくる。これに随(したが)ってはならない。畏(おそ)れてはならない。これに随えば悪道に向かうことになり、これを畏れれば正法の修行が妨げられる」(趣意)との一節を引かれ、「これは、日蓮一人の身に当たるだけではなく、日蓮門家の明鏡(めいきょう)であり、習い伝え、未来の糧(かて=指針)としなければならない」(同ページ、趣意)と、障魔に紛動(ふんどう)されることなく、強盛(ごうじょう)な信心を貫くよう教えられています。
このように、私たちの仏道修行の途上には、さまざまな障害や苦難が競い起こってきますが、注意しなければいけないことは、煩悩や、夫や妻、子、父母、あるいは病気や死といっても、それら自体が初めから障魔であるというのではなく、これらに引きずられる修行者の弱い生命にとって「三障四魔」としてあらわれる、ということです。
信心を妨げようとする障りや魔を打ち破るものは、どこまでも、何事にも揺り動かされない強い信心そのものなのです。
大聖人は、「海の潮の干満と、月が出た後と出る前、夏と秋と冬と春の境目には、必ずそれまでと異なることがある。私たち凡夫が仏になる時も同じである。その時には、必ず三障四魔という障りがあらわれる。これがあらわれた時に、賢者は喜び、逆に愚者はひるんで退いてしまう」(同1091ページ、趣意)と仰せです。
障魔があらわれた時こそが、宿命転換のチャンスであり、一生成仏を遂げられるかどうかの分岐点です。この時にこそ、御本尊根本に、難に負けずに、いよいよ強盛(ごうじょう)な信心を奮い起こしていくことが大切です。「賢者は喜び」の信心を確立し、難を乗り越え、何ものにも崩れない幸福境涯を築いていきましょう。

「四魔」

2010-10-13 | 教学の研さんについて
四魔とは「陰(おん)魔」「煩悩魔」「死魔」「天子(てんし)魔」の四つをいいます。
「陰魔」とは、「陰」(肉体や心の働き)の活動が不調になって、成仏へ向かおうとする命を破ることをいいます。例えば、正法を信ずる者を病気にさせる働きなどです。
2番目の「煩悩魔」は、自身の煩悩によって、信心に励む心を破壊することをいいます。
次の「死魔」とは、文字通り事故や病気などによって生命を失わせることによって修行を妨げようとする魔です。
また、同志の死によって信心に疑いを生じさせることも死魔の働きといえます。
最後の「天子魔」とは、第六天(だいろくてん)の魔王によって起こされるものです。第六天の魔王は、最も本源的な魔で、例えば権力者などの身に入って、ありとあらゆる力をもって仏道修行に励む人を迫害すると説かれています。

「三障」

2010-10-10 | 教学の研さんについて
仏道修行の途上に起こる障害のなかに、代表的なものとして「三障四魔(さんしょうしま)」があります。すなわち、三種の障(さわ)りと四つの魔です。
「障」は、障り、つまり邪魔をするという意味で、仏道修行を阻もうとする働きです。「魔」とは、仏道修行をしようとする生命をむしばみ、心を乱し、生命そのものの輝きを奪う働きです。
「三障」には、「煩悩(ぼんのう)障」「業(ごう)障」「報(ほう)障」の三つがあります。
「煩悩障」とは、貪(むさぼ)りや瞋(いか)り、癡(おろか)といった、自分自身の迷いの生命(=煩悩)が、仏道修行を妨げることです。目先の欲望に振り回されて修行に励めないとか、感情にとらわれて信心をやめてしまうなどが、その例といえます。
「業障」とは、悪い行いが仏道修行を妨げることです。大聖人は、「業障というのは、妻子などによって障りがあらわれることである」(御書1088ページ、趣意)と仰せです。これは、例えば妻子が信心に反対することなどをいいます。
最後の「報障」は、過去世の罪業による悪い果報が信心修行を妨げることをいいます。御書には「報障というのは、国主や父母などによって障りがあらわれることである」(同ページ、趣意)と仰せです。