「知識」とは元来、仏教用語では友人・知人を意味する言葉です。知識のなかでも正しく仏道に導いてくれる人や、仏道修行を励ましてくれる同志を「善知識」といい、その逆に、仏道修行を妨げ、人を迷わして悪道に導く者を「悪知識」といいます。
凡夫の心は揺れ動きやすいものであり、仏道修行の途上においても、ともすれば自身の弱さに負けて修行を怠ったり、正しい仏の教えを見失ったりしがちです。そこで、常に正しい仏道に導き、信心を触発してくれる善知識が必要なのです。
それ故に日蓮大聖人は「されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり」(御書1468ページ)と、教えられています。
逆に仏道修行を妨げる悪知識については、涅槃経にこのように説かれています。
「たとえ凶暴な悪象に殺されたとしても、それは何ら恐れることではない。なぜならば、たとえ自身の肉体が破壊されることがあっても、自身の心は破壊されていないのだから、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちることは決してない。しかし、悪知識によって心が破壊されたら、必ず三悪道に堕ちる因を作ったことになる」
したがって、善知識に親近するとともに、悪知識を遠ざけることが大事になります。
また大聖人は、もう一歩進んで、仏道修行を妨げようとする悪知識をも成仏への機縁としていく強盛な信心に立つべきことを示されています。その時は悪知識も善知識ととらえられるのです。
すなわち「種々御振舞御書」に「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(同917ページ)と説かれ、「富木殿御返事」には「諸の悪人は又善知識なり」(同962ページ)と述べられています。
凡夫の心は揺れ動きやすいものであり、仏道修行の途上においても、ともすれば自身の弱さに負けて修行を怠ったり、正しい仏の教えを見失ったりしがちです。そこで、常に正しい仏道に導き、信心を触発してくれる善知識が必要なのです。
それ故に日蓮大聖人は「されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり」(御書1468ページ)と、教えられています。
逆に仏道修行を妨げる悪知識については、涅槃経にこのように説かれています。
「たとえ凶暴な悪象に殺されたとしても、それは何ら恐れることではない。なぜならば、たとえ自身の肉体が破壊されることがあっても、自身の心は破壊されていないのだから、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちることは決してない。しかし、悪知識によって心が破壊されたら、必ず三悪道に堕ちる因を作ったことになる」
したがって、善知識に親近するとともに、悪知識を遠ざけることが大事になります。
また大聖人は、もう一歩進んで、仏道修行を妨げようとする悪知識をも成仏への機縁としていく強盛な信心に立つべきことを示されています。その時は悪知識も善知識ととらえられるのです。
すなわち「種々御振舞御書」に「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(同917ページ)と説かれ、「富木殿御返事」には「諸の悪人は又善知識なり」(同962ページ)と述べられています。