KIND OF BLUE

「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」

善知識と悪知識

2010-06-30 | 仏法の実践
「知識」とは元来、仏教用語では友人・知人を意味する言葉です。知識のなかでも正しく仏道に導いてくれる人や、仏道修行を励ましてくれる同志を「善知識」といい、その逆に、仏道修行を妨げ、人を迷わして悪道に導く者を「悪知識」といいます。
凡夫の心は揺れ動きやすいものであり、仏道修行の途上においても、ともすれば自身の弱さに負けて修行を怠ったり、正しい仏の教えを見失ったりしがちです。そこで、常に正しい仏道に導き、信心を触発してくれる善知識が必要なのです。
それ故に日蓮大聖人は「されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり」(御書1468ページ)と、教えられています。
逆に仏道修行を妨げる悪知識については、涅槃経にこのように説かれています。
「たとえ凶暴な悪象に殺されたとしても、それは何ら恐れることではない。なぜならば、たとえ自身の肉体が破壊されることがあっても、自身の心は破壊されていないのだから、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちることは決してない。しかし、悪知識によって心が破壊されたら、必ず三悪道に堕ちる因を作ったことになる」
したがって、善知識に親近するとともに、悪知識を遠ざけることが大事になります。
また大聖人は、もう一歩進んで、仏道修行を妨げようとする悪知識をも成仏への機縁としていく強盛な信心に立つべきことを示されています。その時は悪知識も善知識ととらえられるのです。
すなわち「種々御振舞御書」に「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり」(同917ページ)と説かれ、「富木殿御返事」には「諸の悪人は又善知識なり」(同962ページ)と述べられています。

変毒為薬

2010-06-28 | 仏法の実践
変毒為薬とは、インドの大乗論師である竜樹の『大智度論』に出てくる言葉です。
「毒を変じて薬と為す」と読み、優れた薬師(=医師)は、もともと毒であるものをも正しく調合することで、病を治す薬として作用させることができるということです。これをもって竜樹は、成仏できないとされてきた二乗や悪人を成仏させる妙法の力を譬えているのです。
日蓮大聖人は、『大智度論』の文について「竜樹菩薩・妙法の妙の一字を釈して譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し等云々、毒と云うは何物ぞ我等が煩悩・業・苦の三道なり薬とは何物ぞ法身・般若・解脱なり、能く毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ」(御書984ページ)と仰せられています。
すなわち「毒」とは凡夫の煩悩・業・苦の三道、「薬」とは法身(真理)・般若(一切の事物・事象の道理を明らかに覚知する智慧)・解脱(生死の苦海から脱却すること)の三徳を指し、「変毒為薬」とは三道を三徳へと転じていく妙法の功力をいうのです。凡夫の眼から見れば正反対のものへと転じていくので「妙」(不可思議)なのです。
私たちの生活に約していえば、「毒」とは人生の途上で出合うさまざまな苦悩、困難に当たります。その苦悩を避けずに正面から受けとめ、信心根本に挑戦していくところに、その苦悩がむしろ人生を開く契機になっていくのです。その意味で、苦難、困難の時こそ、変毒為薬して福運を無量に積みゆく機会です。したがって、どこまでも大切なのは信心となるのです。

煩悩即菩提

2010-06-27 | 仏法の実践
即身成仏の法理を別な角度から表わしたのが「煩悩即菩提」「生死即涅槃」です。
小乗教の考え方では、凡夫は煩悩(貪・瞋・癡など、心身を悩ませる心の働き)を断じて初めて悟り(菩提)を得て成仏するとされています。しかし、煩悩はあくまでも生命そのものに、もともと具わっている働きであり、煩悩を断じ尽くすということは現実の生命活動を消滅させることにほかなりません。
また、権大乗教では、一応、煩悩即菩提を説きますが、九界を離れて初めて仏になると説くので、実質的には小乗教と同じ悟りの考え方になってしまいます。いずれにしても、小乗も権大乗も、仏とは現実世界の存在とは異なる何かであるということになってしまいます。
これに対して法華経では、凡夫のもっている煩悩を断ずることなく、直ちに仏の菩提(=悟り)が得られることが明かされました。
もちろん、この煩悩即菩提とは悩みや迷いがそのまま悟り(=菩提)に等しいということではありません。
「御義口伝」に「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり」(御書710ページ)とあるように、悩みを避け、逃げるのではなく、信心を根本に煩悩に真っ向から取り組んでいくとき、煩悩を縁として悟りの智慧が現れて、煩悩をコントロールしていけるのです。
また、生死即涅槃とは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えていけば、生死によってもたらされる苦しみの境涯にある生命に、悟りによって得られる安穏な境涯(涅槃)を開き現していかれることを示しており、煩悩即菩提とともに即身成仏を表す法理です。
この「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の法理に立脚するとき、あらゆる苦悩を自身の成長と幸福の因に転じていく積極的な生き方が可能になるのです。

諸天善神

2010-06-26 | 仏法の実践
「諸天善神」とは、梵天、帝釈、日天、月天、明星天、天照太神、八幡大菩薩など、正法を受持する人とその国土を守護する一切の天、神をいいます。
諸天とは天界の衆生をいい、善神は人々の幸せを守る働きをするものをいいます。
もちろん諸天善神といっても一定の実体を持つものではなく、正法を行ずる人を守護する種々の働きをいうのです。
この諸天善神は私たちの生命と別に、それ自体の意思をもって存在しているものではありません。
私たちの生命の力、一念の働きが社会や環境などの依報のうえに反映し、それがさまざまな働きとして顕れてくるのです。
このことについて日蓮大聖人は「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(997ページ)と仰せになっています。
すなわち私たちの生命に具わる根本の悟りの生命(=元品の法性)が、諸天善神の守護の働きとして顕れ、逆に根本の迷いの生命(=元品の無明)が第六天の魔王の働きとして顕れるのです。
「神を護ると申すも人の心つよきによるとみえて候」(御書1186ページ)と仰せのように、信心の強弱によって諸天の守護が強くも弱くもなるのです。sokanet

三障四魔

2010-06-23 | 仏法の実践
三障四魔とは、正法を信じ行ずるときに、これを阻もうとして起こる三つの障りと四つの魔のことです。摩訶止観の第五巻には“修行が進み、仏法の理解が深まってくると、三障四魔が紛らわしく入り乱れて競い起こってくる”と述べられています。
三障の「障」とは、障り、妨げということで、信心修行の実践を、その途上に立ちはだかって妨げる働きをいい、煩悩障、業障、報障の三つがあります。
煩悩障とは、貪り、瞋り、癡などの自身の煩悩が信心修行の妨げとなることをいいます。
業障とは、悪業(悪い行い。仏法では五逆罪や十悪業などが挙げられる)によって生ずる信仰や仏道修行への妨げです。
報障とは、過去世の悪業の報いとして現世に受けた悪い境涯が仏道修行の障りとなることをいいます。
次に四魔の「魔」とは、能奪命者、殺者、破壊などと訳されるように、信心修行者の生命の内側から、生命の輝きを奪う働きをいい、陰魔、煩悩魔、死魔、天子魔の四つがあります。
陰魔とは、信心修行者の五陰(肉体や心の働き)の活動の不調和が信心修行の妨げとなることです。 煩悩魔とは貪り、瞋り、癡などの煩悩が起こって信心を破壊することです。
死魔とは、修行者の生命を断つことによって修行を妨げようとする魔です。また、他の修行者等の死によって信心に疑いを生ずることも死魔に負けた姿といえます。
天子魔とは、他化自在天子魔の略で、他化自在天王(第六天の魔王)による働きです。この魔は、生命の根本的な迷いから起こるものであり、権力者等の身に入るなど、いろいろな形をとり、あらゆる力をもって修行者に迫害を加えてきます。
以上のように、私たちの仏道修行の途上においては、さまざまな障害や苦難が競い起こってきます。 しかし、日蓮大聖人は「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(御書1091ページ)と仰せられています。
三障四魔が出現した時こそ、成仏への大きな前進の時と確信して、むしろこれを喜ぶ賢者の信心で、乗り越えていくことが大切なのです。

弘教

2010-06-20 | 仏法の実践
「弘教」について、日蓮大聖人は、諸法実相抄で「我もいたし人をも教化候へ……力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」(御書1361ページ)と仰せられています。また寂日房御書では「かかる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり(同903ページ)と言われています。
勤行をして自分自身だけが境涯を変革するのではなく、自他共の幸福を目指して、一文一句でも仏法のことを友に語っていくことが大切です。それによって、自らの信心を更に深めることができるとともに、万人の成仏のために戦う仏や菩薩の境涯を自身の命に呼び起こし、大聖人の真の弟子となっていくことができます。勤行とともに、弘教の実践が、自身の生命変革への大きな力となっていくのです。
また、法華経には「能く竊かに一人の為めにも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」とあります。この文を踏まえて、大聖人は「法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり」(御書1121ページ)と仰せです。
すなわち、私たちの化他行は、仏の使い(如来の使)として、仏の振る舞い(如来の事)を実践する行為なのです。

勤行

2010-06-15 | 仏法の実践
「勤行」とは、御本尊に向かって読経・唱題することをいいます。これが生命変革の具体的な実践の一つです。
日蓮大聖人は、勤行を曇った鏡を磨くことに譬えて次のように仰せです。
「譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」(御書384ページ)。
この譬えで示されているように、鏡自体は磨く前も磨いた後も同じ鏡であり、別のものに変わるわけではありませんが、働きは全く違ってきます。同じように、私たち自身も、勤行することによって決して別の人間になるわけではありませんが、生命が浄化され、その働きが大きく違ってくるのです。
日寛上人は、「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」と述べています。すなわち、勤行の実践によって、私たち自身の生命に一念三千の御本尊が顕現し、末法の御本仏・日蓮大聖人と同じ智慧と力が顕れるのです。sokanet

立正安国

2010-06-13 | 仏法の実践
日蓮大聖人の仏法は、各人の生命境涯を変革し、今世のうちに絶対的幸福境涯を開くことを可能にする教えです。それとともに、各人の生命境涯の変革を通して社会全体の平和を達成することを目指しています。大聖人は、平和実現のための原理を立正安国論のなかで示されました。
「立正安国」とは「正を立て国を安んずる」と読みます。
「立正」とは人々が人生のよりどころとして正法を信受することであり、また、仏法の生命尊厳の理念が、社会を動かす基本の原理として確立されることです。「安国」とは社会の平和・繁栄と人々の生活の安穏を実現することです。
立正安国論における「国」とは、権力を中心にした統治機構という面とともに、より一歩深く、民衆の生活の基盤としてとらえられています。その意味で、人間が形成している社会体制だけでなく自然環境の国土も含まれます。
大聖人が民衆を中心に国をとらえられていたことは立正安国論の御真筆において、国を意味する漢字を書かれる多くの場合に「国構えに民」の字を用いられていることにもうかがうことができます。
立正安国論は、直接的には当時の日本の安国の実現のために著された書ですが、その根底となっている精神は、民衆の安穏の実現にあり、したがって、未来永遠にわたる全世界の平和と人々の幸せを実現することにあります。
また、大聖人が当時の人々の苦悩を解決するため、立正安国論を著し、権力者を諫められたこと自体、仏法を行ずる者はただ自身の成仏を祈って信仰していればよいのではなく、仏法の理念・精神を根本にして、積極的に社会の課題に関わっていくべきことを身をもって示されたものと拝察できます。
創価学会が、今日、仏法の理念を根本に、平和・文化・教育・人権などの分野で、地球的課題の解決に取り組んでいるのも「立正安国」の法理と精神に基づく実践にほかなりません。sokanet

三類の強敵

2010-06-11 | 仏法の実践
法華経勧持品第十三の二十行の偈(詩の形の経文)のなかには、末法に法華経を弘通する者に3種類の強い迫害者、すなわち三類の強敵が出現することが示されています。
その強敵のそれぞれは、第1に俗衆増上慢、第2に道門増上慢、第3に僭聖増上慢(僣聖増上慢とも書く)、と名づけられています。増上慢とは、いまだ悟っていないのに悟りを得た等の種々の慢心を起こし、自分は他の人よりも勝れていると思う人をいいます。
第1の俗衆増上慢は、法華経の行者を迫害する、仏法に無智な衆生をいいます。法華経の行者に対して、悪口罵詈等を浴びせ、刀杖で危害を加えることもあると説かれています。
第2の道門増上慢は、法華経の行者を迫害する比丘(僧侶)を指します。邪智で心が曲がっているために、真実の仏法を究めていないのに、自分の考えに執着し、自身が優れていると思い、正法を持った人を迫害してくるのです。
第3の僭聖増上慢は、人々から聖者のように仰がれている高僧で、ふだんは世間から離れたところに住み、自分の利益のみを貪り、悪心を抱いて、法華経の行者を陥れようとします。その手口は、国王や大臣等に向かって、法華経の行者を邪見の者であるなどと讒言し、権力者を動かして弾圧を加えるように仕向けるのです。
悪鬼が身に入ったこれらの迫害者たちによって、末法に法華経を持つ人は、何回も所を追われたりすると説かれています。
このうち、第1と第2は堪え忍ぶことができても、第3の僭聖増上慢は最も悪質であるといわれています。なぜなら、僭聖増上慢の正体はなかなか見破り難いからです。
この三類の強敵は、末法に法華経を弘通する時、必ず現われてくるものです。
日蓮大聖人は、現実にこの三類の強敵を引き起こしたことをもって、御自身が末法の法華経の行者であることの証明とされたのです。sokanet

六難九易

2010-06-10 | 仏法の実践
法華経見宝塔品第十一では、六難九易を説いて、滅後に法華経を受持し、弘めることが困難であることを強調し、菩薩たちに、釈尊滅後に法華経を弘通する誓いを立てるように勧めています。
「六難」とは、滅後に法華経を(1)説き、(2)書き、(3)読み、(4)一人のために説き、(5)意義を問い、(6)受持することが困難であること。
「九易」とは、例えば、「須弥山を他の無数の仏土に投げ置くこと」「大地を足の甲に置いて梵天まで登ること」「乾いた草を背負って大火の中に入っても焼けないこと」「ガンジス河の砂の数ほどの経典を説くこと」などの九つです。
ここで九易として挙げられている九つの事例は、いずれも、普通ではとても為しえないことですが、滅後悪世に法華経を弘める六つの難事に比べれば、まだ易しいことであると説かれているのです。
このように説いて、至難中の至難事である滅後悪世の法華経弘通を勧める仏意を強く示しているのです。