KIND OF BLUE

「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」

勤行とは

2010-08-30 | 勤行について
「勤行」は、日々の生活のリズムの根幹であり、幸福への源泉です。
それでは、「勤行」とはどういうことをするのか―それは朝晩、御本尊に向かい、法華経の方便品と寿量品の自我偈を読み、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることです。
日寛上人は勤行の功徳について、「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(この御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えていくならば、私たち自身の生命に一念三千の御本尊があらわれ、御本仏・日蓮大聖人と同じ智慧と力があらわれる)「観心本尊抄文段」と、述べています。
御本尊は、宇宙の根源の妙法である南無妙法蓮華経を体得された御本仏・日蓮大聖人の御生命をあらわされたものです。その御本尊を信じ、読経し、題目を唱えていくとき、御本尊に共鳴して、自身の生命に南無妙法蓮華経の当体があらわれ、本来、私たちのなかに内在している最高の仏界という生命が湧きあらわれてくるのです。
例えて言えば、音楽を聴いたり、絵画を見たりすることによって、それらに共鳴して、自身の心に豊かな感動の世界が広がっていきます。これは、外界の音楽や絵画に縁することによって自身の内なる感動の心が出てきたのです。
同じように、勤行は御本尊と深く縁していくことによって、幸福の源泉である自身の胸中の仏の生命と働きを現し出していく修行なのです。

南条時光と南条家

2010-08-29 | 代表的な門下
南条時光は駿河国(静岡県)富士郡上方荘上野郷の地頭で、若くして日蓮大聖人に信伏し、第二祖日興上人を師兄と仰いで純真な信心に励みました。時光と大聖人との法縁はわずか9年に過ぎませんでしたが、時光が大聖人から賜った御書は、現存するものだけでも30数通に及び、信徒中で最多です。時光がいかに純真な信心を貫いたかを示すものといえるでしょう。
時光の父、兵衛七郎は鎌倉幕府の御家人で、はじめ伊豆国(静岡県)南条郷の地頭から、上野郷の地頭に転任しました。鎌倉在勤のころに大聖人に帰依したといわれています。
文永元年(1264年)12月、大聖人は南条兵衛七郎御書(慰労書)を与えられ、病床の兵衛七郎を励まされています。翌文永2年(1265年)3月8日に亡くなりますが、大聖人はその死を惜しまれて、鎌倉から上野郷まで墓参に行かれています。時光が初めて日蓮大聖人にお会いしたのは、この折と考えられますが、時光は7歳でした。
文永11年(1274年)、16歳となった時光は、身延に入られた日蓮大聖人のもとへ参詣して御供養を奉りました。大聖人は時光の成長をお喜びになり、父の故兵衛七郎と変わらぬ信心の志をほめられて、御慈愛のこもった御書を送られています。
文永12年(1275年)1月、日蓮大聖人の御名代として、日興上人が故兵衛七郎入道行増の墓に代参され、時光は日興上人の教化によって、いよいよ信心弘法の念を燃えあがらせました。この時から日興上人を中心として富士上野郷・熱原地方の折伏が進められ、時光の親類にあたる松野家、興津家等が続いて入信し、出家では滝泉寺の下野房、越後房、三河房等が改宗して帰依しました。更に神四郎、弥五郎等をはじめ多くの農民が入信したのです。
熱原法難に際しては、時光は外護のために活躍します。大聖人は時光の不自惜身命の信心を称嘆されて、上野殿御返事に「上野賢人殿」(1561ページ)としたためられました。
法難の後、幕府は時光に対して不当な重税を課して、経済的圧迫を加えてきました。これは数年にわたって続き、南条家は極度の耐乏生活を強いられ、一時は時光自身の乗る馬もなく、妻子の着る物にもこと欠くありさまでしたが、その間にも日蓮大聖人への御供養を決して忘れることはありませんでした。
弘安5年(1282年)10月、日蓮大聖人の葬儀に際しては、四条金吾、富木常忍、池上、大田等の先輩同信の人とともに散華の大役を務めました。
正慶元年(1332年)5月1日、時光は74歳をもって静かにその生涯を閉じました。 時光は夫人・乙鶴との間に九男四女をもうけましたが、みな両親の感化を受けて信心に励み、南条家は広宣流布の歴史に大きな足跡を残しました。

阿仏房と千日尼

2010-08-26 | 代表的な門下
阿仏房は日蓮大聖人の佐渡御流罪中に、塚原三昧堂において大聖人を論詰しようとしてかえって破折され、念仏への信仰を捨てて妻、千日尼とともに大聖人に帰依したとされ、以来、文永11年(1274年)に大聖人が流罪赦免となって鎌倉に帰られるまで、監視の目を盗んで大聖人のもとに御供養に通うなど給仕に努めました。
大聖人が身延に入られてからも、大聖人を慕って、老齢の身にもかかわらず、3回も御供養の品々を携えて身延へお訪ねしています。弘安元年(1278年)7月、三度身延の大聖人のもとに参詣した阿仏房に託した手紙の中で、千日尼は“女人の罪障は深いので成仏はできるであろうかと思っていましたが、大聖人の御法門に法華経は女人成仏を第一とすると説かれていますので、すべてはそれを頼みとしています”と述べています。これ対して大聖人は経文を引かれながら、「一代聖教の中には法華経第一・法華経の中には女人成仏第一」(御書1311ページ)と教えられています。
翌年の弘安2年3月21日、阿仏房はその生涯を閉じました。大聖人は千日尼に、法華経の明鏡に照らして見れば、あなたの夫は(成仏して)霊鷲山の多宝塔の中に、東向きにいらっしゃいますよ、と激励されています。
阿仏房・千日尼の子息、藤九郎守綱は父母の志を継いで佐渡・北陸方面の弘教に励みました。さらに曾孫の如寂日満は年少より富士に上って日興上人に仕え、北陸における仏法の中心者を命じられています。
千日尼は、子や孫に囲まれながら、正安4年(1302年)に亡くなりました。

四条金吾と日眼女

2010-08-21 | 代表的な門下
四条金吾の本名は、四条中務三郎左衛門尉頼基です。左衛門尉は官位の名称で、唐(中国)ではこれを金吾校尉と称していたので、四条頼基は四条金吾と通称されました。
金吾は、日蓮大聖人の在家門下の中で、富木常忍とともに中心的な存在として活躍しました。大聖人からいただいた御書も、分かっているだけで30数通の多きにのぼっています。
北条氏の一族、江間(名越)家に仕え、武術に優れ、医術にも通達していました。妻は日眼女、子に月満御前、経王御前がいると伝えられます。
池上宗仲・宗長兄弟や工藤吉隆らと前後して康元元年(1256年)、27歳のころに日蓮大聖人に帰依し、とくに鎌倉における信徒の中心となっていきました。 文永8年(1271年)9月12日の竜の口の法難の際には、大聖人が処刑されたなら、その場で腹を切る覚悟で、大聖人の馬の口をとってお供をしました。文永9年(1272年)2月には佐渡流罪中の大聖人から人本尊開顕の書である開目抄を与えられました。金吾はたびたび大聖人のもとへ御供養の品々をお送り申し上げ、また同年5月ごろには、佐渡まで大聖人をお訪ねしています。
大聖人が佐渡から帰られて身延へ入られた後の文永11年(1274年)9月に、金吾は主君の江間氏を折伏します。頼基の主君、江間氏は浄土宗の信者であると同時に、極楽寺良観の信者でもあり、そのため主君の不興を買い、同僚達からも迫害を受けます。
建治3年(1277年)6月、大聖人の弟子、三位房が竜象房を破折した鎌倉の桑ヶ谷問答に立ち会った金吾は、徒党を組んで乱入し、法座を乱したと讒言されました。江間氏は、法華経の信仰を捨てなければ所領を没収すると命じますが、金吾はたとえ所領は没収されても信仰を捨てないとの決意を、身延の大聖人に申し上げるとともに御指導を仰いだのです。大聖人は直ちに頼基に代わって、主君に対する陳状(頼基陳状)をしたためました。その中では、頼基父子の江間家への忠誠と竜象房の非道、謗法を指摘され、主君の謗法を諌めて、主君を正法に導くのが家臣としての道であることなどが述べられています。
その後、主君が悪疫にかかり、金吾を召し出して治療を受けることになり、金吾も主君の治療に力を尽くしたため病気は快方に向かいます。そして、主君は讒言による誤解を解き、建治4年(1278年)1月には主君の出仕の列に加わり、9月には没収されていた領地を返され、新たに三倍の領地を加増されたのです。
弘安元年(一二七八年)10月にはお体をこわされていた身延の大聖人をお見舞いし、看護申し上げています。その結果、大聖人の御病気は平癒し、四条金吾殿御返事に「今度の命たすかり候は偏に釈迦仏の貴辺の身に入り替らせ給いて御たすけ候か」(御書1185ページ)とのおほめをいただいています。
弘安5年(1282年)10月の日蓮大聖人の御入滅の際は最後まで看病にあたり、御葬送の列にも連なって、池上兄弟とともに幡を奉持しました。
四条金吾の夫人、日眼女は、金吾とともに日蓮大聖人に帰依して純真に信心に励んだ代表的な女性信徒の一人です。
文永9年(1272年)の4月、夫を鎌倉からはるばる佐渡の大聖人のもとへ送った日眼女に「かかる乱れたる世に此のとのを・つかはされたる心ざし大地よりも・あつし地神定めてしりぬらん・虚空よりも・たかし梵天帝釈もしらせ給いぬらん」(御書1115ページ)と称えられています。
文永10年(1273年)、子どもの経王御前が病気になった際、大聖人は早速、御手紙をしたためられ、「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」(同1124ページ)と激励されました。
夫が主君や同僚たちから様々な迫害を受けた時も、夫婦そろって信心に励み、御供養申し上げています。

池上兄弟

2010-08-19 | 代表的な門下
鎌倉幕府の作事奉行であった池上左衛門大夫康光の子で、兄は右衛門大夫宗仲、弟は兵衛志宗長といいます。兄弟の入信は、日蓮大聖人が立宗宣言されてから数年後の頃といわれ、最も早く大聖人の弟子になっていた日昭の甥に当たることから、その関係で入信したものと思われます。
父、康光は極楽寺良観の熱心な信奉者で、文永12年(1275年)と建治3年(1277年)の二回にわたって兄の宗仲は勘当されています。大聖人は、この事態に際し、長文のお手紙(兄弟抄・御書1079ページ)をしたためられ、兄弟に入魂の激励をされています。
大聖人はその中で、法華経を信仰すれば、必ず魔は信心を妨げようとする。それはまた、過去世の謗法の罪が現れて消滅しようとしているのであるから、何としてもそれを乗り越えて仏道を成就しなければならない、と御教示されています。そして、兄弟の夫人達には、もし仮に夫が信心をやめようとした時には夫人同士で結束して諌めていくよう仰せられ、兄弟・夫婦が団結していくよう教えられています。
法華経の信仰をやめれば家督相続権が自分に転がり込み、父の所領などすべてを受け継げるという大きな誘惑に弟、宗長はともすると動揺を見せましたが、兄弟が力を合わせて父を諌め、弘安元年(1278年)には反対を続けた康光も念仏を捨てて大聖人に帰依。翌弘安2年、康光は題目を唱え安らかにこの世を去りました。このとき大聖人は池上兄弟に孝子御書(御書1100ページ)を与えられました。
弘安5年(1282年)9月18日、大聖人は武蔵国(現在の東京都)千束の池上邸にお寄りになりました。人々のすすめで、常陸へと湯治に行かれることになり、9月8日に身延を発たれ、その途中に立ち寄られたのでした。池上兄弟をはじめ一族の人達は大聖人の御一行を心から喜んでお迎え申し上げ、丁重におもてなしをしました。大聖人はこの地で「立正安国論」を万代への遺誡の意を込められて講義され、10月13日、すべての化導と相承を終えられ、池上邸で御入滅あそばされたのでした。

富木常忍と富木尼

2010-08-18 | 代表的な門下
富木常忍は、下総国若宮(現在の千葉県市川市)の人。鎌倉幕府の有力な御家人の千葉氏に仕える武士でした。入信は、日蓮大聖人が立宗宣言されてから数年ぐらいの頃と、信徒の中でも最も早い時期の入信で、下総方面の信徒の中心的存在として活躍しました。
文永8年(1271年)から11年までの佐渡御流罪の当時、大聖人の門下の中から多くの退転者が出るという逆境の中でも、常忍は強盛な信心を貫き、たびたび、大聖人に銭・衣類などを真心から御供養申しあげています。
常忍は、観心本尊抄をはじめ法華取要抄、四信五品抄、法華行者逢難事、聖人知三世事、始聞仏乗義、四菩薩造立抄、佐渡御書、常忍抄、治病大小権実違目等、数十編にのぼる御書を賜っており、重要な法門を漢文でしたためた御書を多くいただいていることから、信心も強盛で、学識も豊かな人であったと推察されます。
大聖人が文永11年(1274年)5月に身延に御入山になった後も、常忍は御供養を絶やすことなく、建治2年(1276年)2月に常忍の母が亡くなると、自ら亡き母の遺骨を抱いて身延を訪ねます。これに対して大聖人は、妻の尼御前に宛ててお手紙(富木尼御前御返事・御書975ページ)をしたためられ、夫の常忍を身延に送り出した内助の功をたたえるとともに、尼御前が姑に尽くしたことに対して常忍が深く感謝している旨もお書きになり、夫妻の愛情が更に深まるよう配慮しつつ激励されています。

報恩抄

2010-08-14 | 代表的な御書
建治2年(1276年)7月21日、日蓮大聖人が55歳の時、身延において御述作になり、安房国(千葉県)清澄寺の故郷、道善房の供養のため浄顕房、義浄房のもとへ送られた書で、五大部、十大部の一つです。日蓮大聖人が清澄寺で12歳の時より修学に励まれた時の師匠が道善房で、浄顕房、義浄房の二人は兄弟子でありました。民部日向が使者として本抄を持って清澄寺に行き、蒿が森の頂きと故道善房の墓前で本抄を拝読しました。
内容は、最初に通じて四恩を報じ、別して故師道善房の恩を報ずべきことを明かされ、そのためには出家して一代聖教を学ばなくてはならないとされています。しかし一代聖教を学ぶ明鏡となるべき十宗がそれぞれ自宗の正当性を主張しているために、いずれが仏の本意か分からない。そこでインド、中国、日本の各宗の教義を挙げて破折され、一代聖教の中では法華経が最勝であり、法華経の肝心は題目にあることを示され、さらに末法の法即人の本尊と、戒壇、題目の三大秘法を整足して明かされています。
特に真言(密教)を破折され、天台座主でありながら真言に転落した慈覚、智証については厳しく破されています。最後に三大秘法を流布し、一切衆生を救済することが師の大恩を報ずる道であることを明かされています。
なお「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(御書329ページ)の御文は日蓮大聖人の三徳を明かされています。

撰時抄

2010-08-09 | 代表的な御書
建治元年(1275年)日蓮大聖人が54歳の時、身延においてお認めになり、駿河国(静岡県)西山の由井某に与えられた書で、五大部、十大部の一つです。由井氏は芝川と富士川に合流する河合に住んでいた日興上人の外戚にあたります。
佐渡から鎌倉に帰られた日蓮大聖人は、文永11年(1274年)5月、身延に入られました。そして翌建治元年(1275年)に本抄をお認めになります。撰時抄とは「時を撰ぶ抄」の意となります。
本抄は、まず「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」と説き起こされ、以下、正像末の三時にわたり、インド・中国・日本の三国にわたって、それぞれの時代、それぞれの国における機感相応の正法を明かしています。
すなわち、インドにおいては正法の初めの五百年に、迦葉、阿難等が小乗教を流布し、次いで正法の後半の五百年には、竜樹、天親等が出現して権大乗教を弘めます。次いで仏滅後千十五年に、仏教は中国へ伝来し、像法の中期には、天台大師が中国において法華経の迹門を広宣流布し、同じく像法の終わりには伝教大師が日本において比叡山に円頓の戒壇を建立します。
仏の予言によれば、仏滅後二千年を過ぎると末法となり、白法隠没の時代となります。この時に、上行菩薩が世に出現して三大秘法を広宣流布し、末法の一切衆生を救うことを示され、大聖人の御出現は、仏滅後二千二百余年にあたり、当時の世相は仏の予言通りであることを述べられています。そして特に真言の邪法を徹底的に破折されながら、末法に寿量品文底秘沈の三大秘法が広宣流布することを明かされているのです。

観心本尊抄

2010-08-08 | 代表的な御書
文永10年(1273年)4月25日、日蓮大聖人が52歳の時、佐渡流罪中に、一谷で御述作になり、下総国(千葉県)葛飾郡八幡荘の富木常忍に与えられた書で、観心本尊抄、本尊抄ともいいます。五大部、十大部の一つです。開目抄が人本尊開顕の書であるのに対し、観心本尊抄は法本尊開顕の書であり、教行証に配すると観心本尊抄は受持即観心の義を明らかにしているので行の重に配されます。
観心本尊抄の内容は、大きく四段に分けられます。第一段で一念三千の出処として、初めに摩訶止観巻五上の一念三千の出処を正しく示され、次に一念三千が情非情にわたることを明かされています。 第二段では観心の本尊の観心の義について述べられ、観心とは衆生の観心であり、末法においては本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることに尽きるとして、受持即観心の義を明かされています。
第三段では末法に建立される本尊を明かされ、五重三段の教相を論じ、釈尊の教相・寿量文上脱益の本尊を破って、寿量文底下種の本尊を示され、末法の観心の本尊を結せられています。
最後に久遠元初自受用身である御本仏、日蓮大聖人が大慈悲を起こされ、南無妙法蓮華経の大御本尊を御図顕されて、末法の一切衆生に信受せしめることを明かされています。
このように観心本尊抄には、五重三段、受持即観心、末法下種の法本尊の開顕など、日蓮大聖人御建立の三大秘法の御本尊が末法の独一本門であることが詳しく説かれていのです。