チャールズ・ダーウィンが、幼い息子ウィリアムのよちよち歩きの様子を観察し、
次のようなことを「子どもの観察」ノートに記している。
自分の顔をたたこうとしたためほほは赤くなり、悲鳴をあげて頭を振った。
たたくと痛くなることを学んだわけである。ちょうど、卵からかえったばか
りのワニの子どもが、柔らかいあごでぴしゃりとやることを学ぶようなもの
だ。つまりこれは、本能なのだ。
成長とは、“今、ここ”にいる自己との差異の確認作業である。
様々な試行や他者との対照等を通して、そこに感じる無意識の違和感を意識化す
ることで、変革した自己を確認する。
その確認は、身体性を伴うほどより強化されるのである。
その成長のシステムは、今の一斉授業と相容れない部分もある。
実際、授業における意思決定、時間的空間的制約がすべて教師に委ねられている
からである。
教室での学びは、発問―応答―教師によるフィードバックという基本的なサイク
ルの連続が支配する。
そのサイクルを構成する部分それぞれがすべて教師の制御を伴うがゆえに、その
対象である生徒は、経済合理性を求めるものはそこから逃走し、またサイクルを
通してメタ認知ができない生徒は脱落をしていく…。
今の自分の成長と学びに必要なもの…それは、ダーウィンが、アナバネゴミムシ
を採集し、それが権威ある図鑑で報告されたことを書いた自伝の次の箇所に凝縮
されているのではないだろうか。
スティーブンスの『英国昆虫図鑑』に“C・ダーウィン氏採集”という魔法の
文字を見たとき、私は自作の詩が初めて出版された詩人でも味わえないほど
の歓びを味わった。
そこに感じる無意識の違和感を意識化することで、
変革した自己を確認する。』
…その運動の中に、生きていることの躍動が感じられる…
のでしょうか?
今朝のクオリア日記のお話とも相通ずる…ような気がしました。
コロンさまの言葉にハッと目が覚める思いがいたします。
ありがとうございます!!
(いい意味で)変わりゆく自分を自覚できるときってほんとに心から躍動するときだと思いませんか?
それは蝶が変態によって自分の成長を刻むのを見たときの感動にも通じるような気がします。
今回エントリーした最後のダーウィンの言葉は、自己の強化学習だけでなく、それを見守る側がいかにその過程と結果を評価できるか…など、それぞれの立場を相対化したときに、さらに深みのある言葉として迫ってくると思うのです。
私自身は、学びの感動を伝える心の叫びに勝る説明的言葉を持ち得ないので引用させてもらいました。
それだけ人間の成長と学びは深いものと思っています。