下野街道

栃木県の住人となり、終の棲家と決めた今は、先人の歴史と文化を追及して、古きを訪ねて奥の細道を歩きたい。

例幣使街道

2006-07-08 20:04:40 | Weblog
かつて下野三番目の宿場となった佐野市天明町付近は、中世から近世にかけて
鋳物の一大生産地域であった。観音山山頂の引地観音堂の鋳銅六角梅竹透釣灯篭は
天文14年の作で繊細な透かしの細工が見事な名品である。

足利市鶏足寺の釈迦如来像、日光市浄光寺の梵鐘など天命鋳物師の仕事は素晴らしい。『東山時代関東の天命釜をもって良となす』と日本一とされた。

天命鋳物師は『平将門の乱』の折、藤原秀郷が武器鋳造者として河内国の鋳物師5人を足利市寺岡村に土着させ、後に犬伏宿や字是閑、金屋町に移住したのである。

東山道、渡良瀬水系の要地、砂鉄の産地等の利点が加味されたものである。

豊臣時代・・『六連銭』の紋所・・真田昌幸、信之・幸村兄弟の物語がある。
慶長5年の石田三成挙兵の報せを犬伏宿で接し、家名存続のため東西両軍に分かれた。
真田昌幸・幸村は石田方へ、真田信之は家康の重臣である本多忠勝の娘を妻とした事から、例幣使街道を経由して小山城跡に本営を置く家康勢に合流した。
犬伏宿は真田親子の『人生の岐路』となったのである。!




みかも山

2006-07-07 19:03:10 | Weblog

東山道は中山道の倉賀野で分岐して、日光例弊使街道と呼ばれて玉村、五料、柴、木崎、大田、八木、梁田、天明、犬伏、富田、栃木、と経由して下野に入る。
藤姓足利氏の一族である佐野氏の城下で三鴨駅家があった。岩舟下津原か新里か
比定地は確定されていない。三鴨山、美可母山、美加茂山、美可保山とも呼ばれた。 毛氈を意味するもので、三氈とも三顔の字をあてる事もあるとか?

 石ふまぬ 安蘇のかはらにゆきくれて 美香保の峰に けふはとまらむ

 下毛野美可母の山の 小楢のす ま麗し児ろは 誰が筍か持たむ

 志もつけぬ みかもの山の こならのす まくわしころはたかけかもたむ

 駅路の ふりし昔も 忍のぶかな みかもの野辺の 鈴虫の声

 岩舟町の大慈寺は、天台宗三代座主に就任した慈覚大師、すなわち円仁が
 研鑽を積んだと言われている。岩舟町下津原字手洗窪が誕生地とされる。

飯塚宿と飯塚河岸

2006-07-06 19:26:38 | Weblog
思川と姿川の合流付近に三つの河岸が存在しました。
三拝河岸跡は古河藩領であった、半田河岸跡は三拝河岸跡より姿川を遡って半田橋の上、東岸に位置し河岸問屋や船数12艘といわれ、島田河岸跡は壬生通リ沿いにある子育て地蔵から西に向かい思川に至った取水場の所にあった。

因みに(半田)は粘土質の田を意味し、(さんぱいかわぎし)は小山庄稲葉郷と号し三拝の名称は、富士・筑波・日光の三山を観拝出来る事から名づけたと言う。
近くに日光街道西一里塚があるこの地域は、水陸両交通の重要な拠点であった。

喜沢から、日光道中の壬生通りに向かい江戸時代の飯塚宿の跡がある。
飯塚宿は飯塚新田、飯塚新町、飯塚町とも言われ小山宿と壬生宿までの距離が長すぎ、人馬の継ぎ立てが困難でその中間に壬生町の枝郷として新町が開設された。

宿場の西側を思川が南流して、宿場中央思川沿いに壬生藩の御用河岸で飯塚河岸があり、高瀬舟や上川船と船大工も居り、日光御普請の御用荷物で繁盛した。

南口には、妙典寺と七面堂、北口には台林寺や天満宮などがある。

地名由来と歴史

2006-07-05 17:52:22 | Weblog
当ブロムのメーンテーマである『下野街道』を研修するに及び下野の街道から
脇道に至る歴史と文化を調べると、初めての地名に出会う読み方から地名由来
等の興味は尽きない。先ずは、中心になる小山地区の街道と地名・歴史を!!
  
『小山』は地形的に小山の如く・・思川の低地面から見れば小山台地は12m
の高低差があり、まさに小高い小山である。

知名については、下野国は9郡から成っている。
『9郡』は足利郡、梁田郡、阿蘇郡、都賀郡、
寒川郡、河内郡、芳賀郡、塩谷郡、那須郡である。

小山地区の郷は、布多郷、高家郷、山後郷
山人郷、田後郷、生馬郷、秀文郷、高栗郷
小山郷、三嶋郷、駅家郷の11郷である。

寒川郡は、真木郷、努宣郷、池辺郷である。

我が住所の中久喜は、中茎、中久木      
小山高朝の夫人で、小山秀綱(嫡男)富岡重朝
(次男)、結城晴朝(三男)兄弟の母は
永禄4年亡くなり、松厳淳貞と号し
中久喜の菩提寺は松岸寺である。
中茎栃井城(中久喜城)の記録あり。

小山秀綱と結城晴朝の兄弟が敵として
対峙したが、後に仲直りして『和談坂』
と呼ばれ、北山の地を中久喜と改めた。

鎌倉街道

2006-07-04 17:29:31 | Weblog
妙建寺の山門前にあった小道が旧鎌倉街道と言われている。
須賀神社付近から、旧神鳥谷に入り長福寺の小字が残り、
八幡神社を更に進むと光明寺があり更に四方竹で有名な
西林寺で西側崖下は思川が流れ、船場の地名が残る
神鳥谷河岸跡がある。

西林寺は、鷲谷山高沢院といい浄土真宗の寺院である。
小山政光の弟、下河辺行義の次男行光が、親鸞下向時
帰依して仏光房と称し、寺を建立したとされている。
光明寺には、応安2年に長福寺跡から出土した
宝キョウ印塔がある。

西林寺と四方竹!

寒川尼の墓と称念寺

2006-07-03 17:46:08 | Weblog
小山朝政・宗政・朝光の母、寒川尼は宇都宮宗綱の娘で1138年京都で生まれ
幼少の源頼朝の乳母をつとめその後に小山政光の妻となった。
1187年寒川尼は大功ありと評価され、女性としてわが国でもまれな
寒川郡・網戸郡の地頭職に任命された。
『吾妻鏡』によれば安貞2年に91歳で死去とある。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/c6/59148650520b68938157e3fdbba19e74.jpg
墓は網戸十郎朝村の開祖と伝えられる称念寺境内にひっそりと建つ。
朝村は朝光の子で、網戸に住み網戸十郎と名乗った。
寒川尼の孫で傍には朝村の墓もある。

悲劇の小山3兄弟

2006-07-02 19:38:55 | Weblog
日光街道は野州路に入り、野木、間々田から巨大な宿場町の小山宿である。
藤原秀郷流の出自で、下野武士団の最高峰に君臨した小山氏の本営である。
初代・小山政光。嫡男朝政・次男長沼宗政・三男結城朝光の3兄弟と
猶子宇都宮頼綱が居る。母は源頼朝の乳母といわれる寒川尼である。
三男結城朝光の烏帽子親は頼朝が加冠(元服)の儀を執り行った。

伊豆で頼朝挙兵の報せで3兄弟は、常盤信太郡司・志田義弘が鎌倉へ
討ち入るべく下野へ攻め入る軍勢を迎え撃った。結束と反映の後・・
政光が朝光を疎んじ、膨大な所領を朝光と宗政に分け与えた事から
致命的に分裂して三つ巴の凄惨な戦いを繰り広げるに至った。

親鸞聖人

2006-07-01 19:33:59 | Weblog
津本陽著『弥陀の橋は』を読み出した。
かなり宗教の内面に入って難しい!

藤原鎌足を祖先とする日野有範の長子
範宴は承安3年伏見区日野に生まれる。

法然房源空は、慈眼房叡空の弟子で
長承2年に美作国(岡山)久米南条
福岡荘生まれ、信西入道藤原通憲の
孫である。

四苦八苦・・・四苦とは、生、老、病、死・・
八苦は『愛別離苦』あいべつりく『怨憎会苦』おんぞうえく
『求不得苦』ぐふとくく『五陰盛苦』ごおんじょうく・・・

範宴は釈親鸞となる。
越後に流され、信濃善光寺から
常陸へ一家で向かう。

川中島、戸倉から板城、 
上田から嬬恋、中之条
から高崎、倉賀野から
下野へ!!

本庄から佐貫、常盤下妻
小島郷へ転ずる。