古書肆雨柳堂

小説の感想。芥川龍之介、泉鏡花、中島敦、江戸川乱歩、京極夏彦、石田衣良、ブラッドベリ、アシモフ、ディック

森博嗣『冷たい博士と密室』

2005-12-04 11:29:31 | ミステリ

1章:概要

 今回の舞台は犀川が勤務するN大学内です。犀川の親友である喜多助教授の所属する土木建築学科の冷凍実験室で殺人が起こります。
 一般常識から乖離している犀川にとって喜多は数少ない友人であり、その性格は犀川とは反対で明るく社交的です。

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2章:殺人―この非生産的な所為

 大学が殺人の舞台であるだけでなく、その動機も研究者ならではの特殊なものでした。それに関して教員同士で大学とは何か?という会話がなされます。

『「犀川先生なら、どう答えられますか?学生が数学が何の役に立つのか、と聞いてきたら」「何故、役に立たなくちゃあいけないのかって、きき返す。だいたい、役に立たないものの方が楽しいじゃないか。音楽だって、芸術だって、何の役にも立たない。最も役に立たないということが、数学が一番人間的で純粋な学問である証拠です。人間だけが役に立たないことを考えるんですからね。」』p.399<o:p></o:p>

 ここで犀川の信条である、「無駄なことが面白い!」というテーゼが登場します。何かを生産するからその人が価値があるわけでない。これはサルトルの実存主義と関連があるように考えます。ナイフは作られたときから、ものを切るという目的があって作られます。すなわち目的が存在することより先にあります。しかし人間はそうではありません。「あんたは○○をするための人間だよ。」といわれて生まれるわけではありません。まず誕生し、自分の人生の目的は自分で獲得するのです。これを「実存は本質に先立つ」という言葉で表しました。

 すると「人間はこうあるべきである」という強制はできないのではないか。それは実存に先立って型に嵌めることになるからである。勿論ただ生存するために生きるわけではない。ところで殺人について次のような考察がなされます。

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「世に起こる殺人事件のほとんどは、結局、顕在する動機に集約される、といって良い。他人の生命を奪うという強烈な欲求を、他の誰にも気がつかれないようにするということは、それ自体、殺人の行為よりも困難であろう。したがって、殺人犯の捜査は、必然的に、この道しるべを逆にたどる手順となる。一部の無差別殺人や通り魔殺人の場合、この道しるべが不鮮明になるものの、逆に動機の特異さが犯人の人物像を顕にする。

捜査が最も困難なタイプは、人間の最低限の『生』からはほど遠い、非常に高次元の冷静な欲求が動機となって生じる犯罪だ。そこには論理的な思考があり、それゆえ、その異常さが際立つことを差し引いても、である。

今回の事件がこのようなタイプのものである、という判断は今はできない、と犀川は考える。しかし、被害者たちの周辺には、少なくとも目に見える低俗な諍い、たとえば、貧困と富の衝突、愛情と憎悪の葛藤、社会的な危機に対する自己防衛、あるいは過去から受け継がれた執念、といった徴候は発見できない。

もちろん、観察できないということと、存在しないということの間には科学的に大きな隔たりがあるが、人間社会の一般的相互関係に関していえば、通常、この差異は極めて曖昧となる。観察できずに存在する例外が、極めて少ないといって良いからだ。

人間だけが、太古から『生』に関わらない欲望を持つ。

(しかし、高等動物の人間だけが殺し合うではないか・・・)

犀川は自問する。

(それは、人間だけが、生命に直接関係ない行為に価値を見出すからだ)p.212-213

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 結局殺人の動機が金銭・愛憎ではありませんでした。これが推理を難しくし作品を面白くしています。殺人は最も非生産的な行為である。まさに人間が「生存するためだけに生きるわけではない」存在ゆえに行う行為であるといえる。実存に価値を置く犀川ですが、それは同時に「人は殺人を犯すべきものではない」と決めつけことはしないことでもあります。人間の素晴らしさを信じるがゆえに、同時に殺人を犯してしまう人間というものにディレンマを感じていることでしょう。

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3章:犀川創平
 解決編で明らかになる犀川の思索方法は、非常に無機質です。従来の作品がアリバイや凶器などから犯行が可能な人間を絞るという行為をしても、結局決め手となるのは動機、つまりその犯行を心情的にしうる人間を探りあてるという方法論をとります。それに対して、犀川は動機をまったく考えません。物理的にその場所にいることができた人間という観点から事件を再構築していくのです。

「xは、実験室のドアから出て、そとから鍵をかけたのです。これ以外に可能性はありません。つまり、これが真実であり・・・、まず、この事実を認めることから、すべての仮説を構築する必要があります。これが最も重要な境界条件なのです。」p.359

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『すべてがFになる』で真賀田四季が犀川の人格の構造を、複数の人格が拮抗して存在していると分析しましたがこの解決方法からそれが表れています。

「犀川の思考回路は、喜多や萌絵のような無機的な論理では作動しなかった。犀川は、自分が犯人ならば、とまず考えてしまう。完璧な理系人間は、主観の中に絶対的な客観性を持っている。一方、犀川は、その逆だった。切り替えが可能な複数の主観によってものを見ることが、犀川の客観性なのである。(一部抜粋)」p.214


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