粗筋
十五歳の千手丸、十三歳の瑠璃光丸は物心つく前から比叡山に預けられ、俗世間の穢れを知らずに育った。浮世は厭なところ、幻と上人から教えられて育ち、一応納得しているが何か物足りない。特に総ての禍の源とされる女人を見たことがないことが物足りなかった。ある日千手丸は、煩悩を絶つため、女人を見に下界に下りていく・・・
煩悩
煩悩がないことは幸福なのでしょうか。煩わしさもないが、欲しいと思うものもない、したいこともない。そんな感情の起伏のないフラットな人生は・・・
女人
この作品でも大きなテーマとは「女人」です。二人は仏典から女人は恐ろしいものと教えられていますが、おぼろげな記憶にはやさしい姿があるので思い悩みます。女人を知らない二人の女人に対する推論は、そのギャップに思わず笑ってしまいます。
男性にとってやはり女性は優しいものです。「優しい」といっても道徳的な意味ではありません。千手丸の表現が的確でしょう。
「生暖かいふところに垂れていたふっくらとふくらんだ乳房の舌ざわりと、あまったるい乳の香り」
好奇心
果たして浮世に降りた千手丸は幸福になれるのか。そして瑠璃光丸は女人を見ることなく出家するのか。作者がどのように結論づけているか見ものです。
極楽(ネタバラシあり)
千手丸は偶然裕福な家に貰われ、女を囲って暮らす何不自由ない生活を送ります。瑠璃光丸に「浮世に極楽はあったのだ」と千手丸も誘う手紙をだします。
しかし我々は千手丸のいるところが極楽ではないことを知っています。快楽=極楽ではないでしょう。(羨ましいですが)作者が耽美主義なのを考えると、瑠璃光丸も悟りより浮世(快楽)を選ぶという結末ではないか、とよそうしていましたが、それを超えていました。
そう、結局瑠璃光丸は山を下りないのです。
しかし作者がモラリストに転向したわけではありません。瑠璃光丸は仏から啓示を受け、山に前世の恋人であったが業により、禽獣として転生した鳥がいると教えられ、彼女と再会します。
この結末は我々に何を示しているのでしょうか。
千手丸のくだりで、快楽のみが極楽ではないことを主張しているのは明らかです。
だからといって禁欲主義を推奨しているのではありません。瑠璃光丸は恋人を得るのですから。
あるいは本当の極楽は、このような奇跡的なことでしかありえない。つまり通常ではあるはずのないもの、というメッセージなのでしょうか。
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