80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

答えは背中に書いてある。

2014年03月31日 07時31分36秒 | 考える
【状況に振り回されない生き方】「稼ぐ思考術」 No.345‏
      小谷川拳次先生
■今日のコトバ:
「状況に振り回されない心構えを持っておく。」
■解説:
周囲の状況に逐一振り回されていると、反応的な生き方となり、結果的に状況が
自分の行動を支配するという「状況の被害者」になってしまうことがある。
そこで、あらゆる行動において、自主的かつ選択的にそのアクションを取るだけ
の心構えを持つようにしよう。
■実践:
その場の状況に反応的な行動を、意識的に生活から取り除くようにしてみよう。



金儲けに対する意気込みですか?
金無くて諦めてきた諸々の事どもに、改めて挑戦し直す。
今からでは、現実的には不可能なこともあるが、できれば、それをも含めて再挑戦したい。

いまさら、それに意味があるのかどうか?
「何かやる!!」 の手始めに 『行動心理士』 のテキストを取り寄せた。
とにかく、興味を集中させて、何とか最後まで終わらせてみたいと、今はそれだけを願っている。

会社を退職後、何故か、すっかり負け犬根性のしみこんでしまった私だ。
一人では何一つ出来ない。 何一つ続かない。
しかし、一人でも何でも、何かやろうとすることなくして、一体何が出来るというのか。

とは言え、金が充分稼げるようになればそれで良いのかというと、それはちょっと違うなぁとも思う。
所詮、金は使わなければ、何の役にも立ちはしない。 
いくら預金通帳、残額の桁が増えようと、それだけではインスタントラーメンの1袋も手に入らない。

いいや、考えてみれば、やはり、「欲しい」と願えば、それなりのものは手に入る。
今回の通信教育がそれ。
金の力とはそういうものなのだろうな。

預金通帳の桁数は信用(ただし金銭的な)に結びつくかも知れない。
純粋に、金の力も認めてやらねばならないだろう。(貧乏人としては、あまり、認めたくはないが。)

何のために金を稼ぐのか?
金の有効活用とはどういうものか?

金に振り回されることなく、人生を生き抜くには。

毎朝、陽も上がらぬうちに仕事に出掛ける弟の後ろ姿を見送りながら、今日もそんなことを考えた。
もっとも、ぼぉーっと、いくら考えていたところで、一円の金も入ってくるわけでなし。 
やはり、このままでは (そぅ、このままでは) 駄目兄だ。

動けよ!!  答えは後から追いかけてくる。
                ・・・多分、背中に書いてある。
 


これからサバイバル能力は必要不可欠になる。
瞬時の判断力を養うには、選択力を身につけることだ。
朝起きてから、・・・夜眠るまで、生活は選択の連続である。
そこで、さっさと選択するクセをつけることだ。
たくさんの選択を積み重ねていくことで、判断力は養われる。
・・・。
大切なのは、自分で判断することだ。
  (「人間的魅力」のつくり方  川北義則著  三笠書房 )

年相応 ・ 分相応

2014年03月29日 21時52分48秒 | 考える
【人間力を磨く】「稼ぐ思考術」 No.293‏
■今日のコトバ:
「いざという時に、思い出してもらえる人物になる。」
■解説:
ビジネスを伸ばしていきたいのならば、突き詰めるところ、人に好かれなければいけない。
さらに言えば、あなたが扱っているサービス・商品に関するニーズが発生した際に、真っ先にあなたの顔を思い浮かべてもらう必要がある。
そこで求められるのが、Sさん自身の「人間力」である。
「同じ商品なら、ぜひ Sさんから買いたい」、「Sさんが勧めてくれるのなら間違いないだろう」と言われる程に人間力があれば、自ずと売上は上がっていく。
■実践:
人間力を高めるためには、お客様と接する際に、常に好感度の高いコミュニケーションを目指す。
礼儀、マナー、外見を磨くことは当然だが、それ以上に大切なことは、常に相手の期待を上回ること。
相手の期待以上のサービスやサプライズを与えていくにはどうすれば良いか、この一点に集中していれば、人間力は自然と高められるようになるはずだ。

                     (小谷川拳次先生) より


いざという時に、他人から思い出してもらえる人物って、そうそう多くない。
ここぞという時に、「あの人が、今、ここにいたらなぁ!」とか、逆に「あの人、大丈夫だろうか?」とか、そんな風に思ってもらえる人物って、滅多に無い?
本当に、そうありたいものだと思う。


他人のブログを読んでいて思う。
文章もそうだが、写真がきれいに撮れている。

それが、とてもうらやましい。
私は写真の1枚すら、まともに撮影できない。
手ぶれは年のせいではない。

普通、多少の手ぶれはカメラ自身が補正してくれる。
ピント合わせにしたって殆どカメラがやってくれる。
シャッターが切れさえすれば、まともに撮影できない方がおかしい。
そういう時代だ。

被写体がぶれて写るくらいならまだしも、狙った相手がフレームから外れて、全く写っていなかったり、写っていても、くちばしの先だったりとか、長い鼻の下だったりする。
動くものだけならまだしも、相手が固定していても同様。

そういえば仲間と旅行に行って、思いっ切り写真を撮ってきたが、せっかくのポーズ写真、友だちが撮ってくれた分はちゃんと写っていたのだが、私の撮った分は、ほぼ全滅だった。
せっかく、大事な想い出となるはずだったのに、ン~トウ~~ッに、申し訳なかった。
その後、撮影技術向上のため、日夜努力すれども、相変わらずの腕前だ。 

未練がましく、パソコンに残した過去の写真達を見るにつけ、落涙千斗、落とす涙も涸れ果てた風来居士だ。


閑話休題。
昔、こんな私でも、ひとかどの人物になろうと夢を見たことがあった。

しかし、つまるところ、何をやるべきか、何をやらねばならないのか? 
迷っているうちに、旬が過ぎてしまった。


例えとしてはおかしいかも知れないが、まともな料理が出来たら良いなぁという希望は、弟に、と言うより、その機会があれば、いろんな人に、自分のうまい手料理を食べてもらいたい。
言い換えれば、大勢の人との交流を深めていきたい、そういうことなのだと思う。

しかし、自分では努力しているつもりでも、実際、出来た料理は、食うに値しないものとなった。 ・・・意に反して。
そういう事だ。

簡単に受け入れられるとは思わないが、それでもうまいものをと、努力はしている。
しかし、味覚は千差万別だ。
これは嫌い、これは食える、ぐらいはいってくれないと判断のしようが無い。


もっとも全否定されたら (その可能性大だ。) それはそれで落ち込んでしまうだろうが。


金を稼ぐことに、と言うより、何もせず生きていくことに、少なからず罪悪感を持ってしまっているのも、周囲と引き比べてのことなのかも知れない。
何もせずに他人と交流することなど出来はしないという思い込み。
何かやるためのきっかけは、結局は何でも良かったということなのだろう。

職場からするりと受け入れてもらえる若さ、とは言え、たった10年の差ではあるが、そこに私は嫉妬する。
若さはいつだって、障害を乗り越えるパワーを秘めている。
しかし、今、この私にそのパワーが無いのかと問われれば、そんなことはない、ただ「その場」が無いだけなのだと応じるだろう。


私が現役でいたいわけ。
他人から邪魔者扱いされたくないという思い。

まだ、何か70になる準備というか、心構えが出来ていないような気がする。
70の人間の存在が社会的に受け入れられるということは生中なことではない。
そもそも70の人間がいつまでも会社にしがみついていたら、その方が邪魔な存在だ。

えっ、いや、もっとその前に・・・あれっ?・・・私は一体何歳なのだ?
今年2014年、生まれが1946年、その差が・・・2006年でちょうど60か、それに加えること8年、まだ誕生日前だからして、私は67歳、7月に68歳となる・・・はずだ。
計算は合っているだろうか?

あと、多分約2年半をどう過ごすべきか、私は今、決めかねている。
そうか、まだ2年以上ある・・・。


やはり、かなり惚けてきたようだ。


昨日28日、友人に誘われて、「クリーンウォーク」に参加した。
「ハイキングがてらゴミ拾い」、でなくて「ゴミ拾いがてらハイキング」かな?
まぁ、そういう(どういう?)趣旨で歩いてみた。

それにしても、意外とゴミが多い。 
特にタバコの吸い殻。 
周囲にとがめる人間がいないことと、これっぽっちという気持ち、さらに持ち帰りにくいと言うことで捨ててしまうのだろうが、まさに「塵も積もれば何とやら」だ。 


打ち上げに皆で乾杯。
ビールのせいでもあるまいが、問われて、自分の名前が出てこない。
さすがに本名は覚えていたが、ブログ用の名前「フウライコジ」の漢字がビールの泡に流されてしまったらしい。

「風来」までは良かったが、後半、「居士」の文字が出てこない。
パソコンであれば、黙って「こじ」と打てば「居士」と出てくる。
頭の良いやつだ。 

なまじ、普段パソコン命の「風来居士」生本人だとそうはいかない。


一旦、「こじ」を「故士」などと書いてしまうと、もう、そこから抜け出すことが出来ない。 
蟻地獄の穴の中だ。

あなた任せよ、パソコン樣、で過ごしてきた報いだろうか。
因果は巡る、末代までも。
参ったなぁ。


家に戻って、例しに「風来故士」でネット検索してみたが、全くヒットしない。

当然といえば当然。

因みに「風来」だけで検索しても同様。 
名前の選定を誤ったのかも知れない。
と、今更公開しても、後悔先に立たず・・・とか。

「新風来記」
検索をかけても全くヒットしない。
ブログの表題を変えたとして検索をかけてみた。

「70へ・新風来記・・・ここから」

これでもやはり駄目。 
これではどうしようもない。

取りあえず考えてはみたものの、いくら小細工を弄しても無駄だということらしい。
結局、風来居士がkouzouさんでも問題はない。
要は、読ませるのは、まともな内容以外の何物でもない。


有象無象・有相無相=宇宙に存在する有形無形の一切のもの。
世にいくらでもいる種々雑多なつまらない人々。

小有象無象の輩・・・有象無象にも至らぬ輩。
ko-uzoumuzou ・・・小有象無象。

大体、自分の書いているブログの表題「新風来記」が、すぐに出てこないようでは、何をか況んやだ。
小細工を弄するよりは、まともな文章を提供するのが先決だろう。


これはあまり言いたくないのだが、今日、午後から出掛けたら、大分足にきていた。
昨日、今朝と、特に何ともなかったのだが、午後になって、いざ、実際に歩いてみると、かなり腰と腿に筋肉痛がきていたらしい。


ことさら、意地を張っていたつもりはないが、やはり「年相応」と言うことだろうか。

時間よ

2014年03月27日 08時38分57秒 | 考える
~「稼ぐ思考術」 小谷川拳次 365日語録~ №347
■今日のコトバ:
「個人的成果だけでなく、チームを勝利に導くことに意識を向ける。」
■解説:
組織において、立場が上になればなるほどに、個人のスタンドプレーよりはチーム全体の成果を上げることが求められるようになる。
そのためには、常日頃からチームで勝つために何が必要なのかをしっかりと見極める必要がある。
リーダー的立場の人間は、チームの勢いを抑える障害を取り除き、よりメンバーが働きやすい状態を作り上げるようにしよう。
■実践:
S さんが属するチーム、あるいは組織全体が大きな成果を出すためには、何を変える必要があるのか、考えてみよう。
           (kotanigawakenji@leadconsulting.jp)



こんな私でも、昔は、ひとかどの人物になろうと夢見たことがあった。
曰く、ロケット工学博士、曰く、学校教師、又、ちょっと名の通る小説家、・・・等々。

現実はと言うと、無職、金無し、友も無し。

負け惜しみに曰く、本腰入れず、片手間に成功できる仕事は無い。 
夢を絞りきれなかっただけのこと。
そう、ただそれだけのことなのだ。

ある意味、「負け続け」というのも、実績のうちではないのだろうか。
過去の経験 = 思い込み(見えない鎖) → 未来は未知数、未来がどう変化するのかは、誰にも決定できない。


「私」のブランド化。 
そう、ここに名前が必要になる。 
「私」=「名前」。
覚えられやすい名前がいい(?)。


もう一人の「私」がものを書く。
短くとも、中途半端でも良い。 
とにかく完成させる。
何か、完成させることが次の一歩に繋がる。

物語の中に、実名で登場・・・などというのもいい。
現実と虚構とが渾然一体となって私に働きかける。


今、私は、何かしなければならないと焦っている。
ほんの小さなことでも良い。 
変わっていく、何かきっけが欲しいと思っている。

しかし、その「何か」が分からない。
大きすぎ、重たすぎるのは、やめておきたい。
結論というか、話がまとまらなくなる。


このブログも自分なりのこだわりだ。
謂わば「まとめるあげる技術」を勉強しているところとでもいえばいいだろうか。
いつも、同じ事を、何度も考える、書く。
進歩のない人間だ。


唐突だが、現在、弟と同居している。

彼は朝5時頃に出掛け、夜8時過ぎに帰宅する。
毎日、休まずに。
体力的にはかなりきついと思う。
もっとも、当人は、「承知の上」なのだろう、・・・違うかな?

私は、なすべき予定もなく、ぼーっと彼を見送り、多分、一日、何の成果もないまま、部屋にあって、ただ彼を待っている。
言うなれば、弟を働かせて部屋代を取る。
そんな・・・、そう、謂わば、「強欲な家主」のような立場だ。


私は定年退職、年金暮らし。 
一応は仕事を探してはいるが、さすがに、この年では・・・・無い!!

まぁ、それはそれで、やむを得ないところもある。
職安は若い人でいっぱいだ。
若い人たちでさえ・・・。
だから何ら恥じるところはない・・・というのはへ理屈。


分かっちゃいるけど・・・、プライド(?)が邪魔をして、少々辛いものがある。
私の価値とはこんなものなのか?

考えてみる。
仕事が欲しいと願いつつ、毎日、働きに出る弟を、指をくわえて横目で見送っている図。
何とまぁ情けないと感じてしまわないだろうか。
良い悪いの問題ではなく。


もっとも、ただ、私がそう感じているというだけの話だ。

ブログに投稿する。
 それは・・・誰か、わたしの立場、考え方を承認して欲しい、お願い・・・。
実際のところ、そういう話でしかない。


生きていくということは、互いに(弟と私)、ちょっぴり引け目を感じつつも、そういう自分と向き合い、共に仲間として、折り合いを付けて行くことかも知れない。

そんなことに弟と同居(?)してみて、初めて気がついた。
私がどうにかなる為には、弟を外しては(言い換えれば周囲の人間関係を放置していては)何も進展しない。
一人暮らしでは、なかなか気づけないのかもしれない。
それを弟が気づかせてくれた。 


また、以前は時間が自由になれば良いと思っていた。
時が自由になるのなら、ああもしよう、こうもしよう・・・と。
今は、何と自由な事だろう。
周囲は総て時間だらけだ。
どんな使い方をしようとあなた任せ、どうぞ思う存分、ご使用くださいと言う。


多少は予想していたが、これほどコントロールが難しいとは考えていなかった。

何もしない時間は、断りもなくさっさと消えてしまう。
どこにも、これっぽっちも、蓄積されることはない。
よくよく考えてみると、過去、時間は総て他人に任せっきり。
たまに自分の時間が出来ると、勝手気ままに、ひたすら浪費。 
きちんと計画して、時間を使ったことなど殆ど無い。


ひょっとして、今、私は時間に復讐されているのかも知れない。


考えるより対処を
 気分がすっきりしないのは
 うまくいかないことを考えているから
 そのことを考えて 事態が好転するなら
 考えればいい
 考えていても好転しないなら
 今できる対処のプランをたてて
 あとはあしたにまわそう
<「1日の終わりの言葉」 海原純子 PHP研究所>


誰の為に生きる・・・?

2014年03月22日 09時07分50秒 | 考える
ちがうところからみてみよう
 がむしゃらに戦っていたり
 ふんばっていると
 自分ではそれが正しいと信じこんでいるもの
 ほんとに それでいいの? と
 ちがうところから自分をみる夜もあっていい
(「1日の終わりの言葉」 海原純子 PHP研究所 より)


このところ、頭痛が続いている。
ひょっとして認知症の前触れなのではなかろうか? 
最近、そんな不安が頭に浮かんで、それが決定だとでもいうように、こびりついて離れない。
実際、どうなんだろうか?
       (情報過多・・・とはいうものの。)

日経に寄れば、「つまり65歳以上の男女について、実に3割近くもの割合で、判断能力に何らかの問題を抱えた方が存在しているわけです。」だとか。

さらに、川原田慶太先生(司法書士)のコラムには
平成版「隠居制度」、 具体的には「家族信託」と呼ばれる形態を用いた方法です。

この方法を使えば、親の生前に信託契約をしておくことで、親の判断能力が弱まっても様々な対策を講じる可能性が広がります。

「家の財産」について所定の権限を、引き継ぐ予定になっている特定の子どもに託すことで、自分が認知症になった後も信託契約の内容にしたがって対策を行うことが視野に入ります。

 私の経験上でも本人が認知症となったことによる「財産凍結状態」で、負担増が分かっていても何も手を打つことができず、結果的に痛い目をみる家庭を少なからず見てきました。

死亡対策としての「遺言」はかなり注目されてきたように思いますが、認知症対策としての「家族信託」は「平成の隠居制度」にあたるものとして、もっと周知されてよいのではないかと思います。

    平成の「隠居制度」 認知症による財産凍結を防ぐ秘策 ・・・から
<相続トラブル百科 実践編第93回公開日時(4/4ページ) 2014/3/21 7:00記事保存>
   とのこと。

「隠居」か・・・、 なるほど。  

働く人間が、いつまでも歓迎されると思ってはいけない。
すでに退職している、つまりは、ほとんど、自分たちの現在の仕事とは、関係ない人間、そう、私はすでに別世界の住人なのだ。

顔を見たい、会いたいなどと思っているのは、こちらの都合でしかない。
せめて、有用な情報でも持って行ければ、それなりの効用はあるだろうが、そういう情報に触れることの出来る立場でもない。


こんな私にまだ何か可能性はあるのだろうか?
生きていく価値はあるのか? (どうして、そっちに行くかな? まぁ、いいか。)
これから私がひとりで完成出来る仕事というのはあるのだろうか?

結局は、いつも同じ問いに行き着く。
ただ、今、取りあえず出来るからという理由で、簡単に、物事を始めてはならないと思っている。


何か、少しでも役に立つことを、・・・でも、誰の役に?
私のやりたいこととは何だろうか・・・?
つまるところ、自己満足でしかない。    


人は、やりたい気持ちだけでは、何一つ達成できない。 


何かを達成するためには、計画の段階を通り越して、スタートを切らねばならないだろう。
と、いつも同じ言葉の繰り返し、反省の繰り返し、そして最後は、いつも実行の保留。
あした考えてみる。
こんな足踏み状態では何一つ進展しない。

ちょっとした、ごく簡単な事を一つだけ完成させる。
欲張ってはいけない。
それが、たとえ、自分にとって、いかにつまらないものであっても、とにかく完成させることで、達成感を味わう。


「達成感」、それが大切な要素だろう。
静かな夜更け、保留した実行達のうめき声が聞こえてくる。  


いつも思うことだが、成功とは何だろう?
逆をいえば、私にとって、本当の失敗とは何なのだろうか?
何度失敗しても懲りず、というより、当たり前、年中行事のように同じ失敗を繰り返す。


私が売るべきもの、売れるものは何だろう?
私が今、やるべき事、やらねばならぬ事・・・。

そもそも、学んでばかりいて何になるというのだ?
もう、先が見えてきている。
生きていくなら、学びを卒業して、実践に進まねばならない。

人生の前半戦には、何も見つけられなかった、何も見えなかった。
だったら、今から、この後半戦。
今、ここからしかないだろうと考えると、何か期待してしまうではないか。


情報(例えは方法論)を得ることによって、私の生き方はどう変わるのだろうか? 

また未練がましくそんなことを考える。
しかし、所詮、67の・・・67?・・・、あと4ヶ月足らずで68になろうという(良かった、70まで、後2年4ヶ月ある。)老人だ。
一体何が出来るというのだ。

堂々巡りの最中にも、時間は過ぎていく。 

なるようになれ。 焦ってみても仕方がない。

組織で生きているわけではない。 所詮、自己満足の範囲内でしかない。 
ならば、私はどこで満足するのだろうか?
考えてみれば、この40年間、同じ問いを繰り返してきた。
もう、そろそろいいのではないか?

私のいう人のためにとは、つまるところ、自己満足、人のためにこれだけやった、これだけ貢献できた、という自己満足が得たいからに過ぎない。


相手にしてみたら、ただ単にかき回されただけに過ぎないのかもしれない。
いや、おそらくそうだ。
これは迷惑以外の何物でもない。

少なくとも、私自身なら、やはり同じ事を考える。 (実際、そう書いている。)

としたら、自分に正直に生きるのが一番ということだが、そうすると・・・。


ウ~ン・・・  堂々巡りだ。


想いを断つというのは、想像以上に難しい。


思うに、これは、誰にでもいい顔を見せて生きていたいという考えの表れだろう。
言い換えれば、自分の生き方に、自信が持てない事の裏返しなのかも知れない。


【成長の根拠を視覚化する】「稼ぐ思考術」 No.342‏ 
     小谷川拳次 (kotanigawakenji@leadconsulting.jp)
■今日のコトバ:
「自己投資した具体的な記録を取り、成長を視覚化する。」
■解説:
ただやみくもに頑張っていても、なかなか自分自身の成長を実感できないこともあるかもしれない。
そんな時には、これまでの自分が投資した時間と内容の記録を眺めれば、あせることなく成長は進んでいるということを実感できる。
■実践:
毎日、自分自身に投資した内容の記録を残す。
たとえば、本を読んだらそのタイトルと感想を書く。
セミナーに参加したり、ジムで体を鍛えたりした後も、必ずその記録を取るようにしておく。
そうすることによって、Sさん(私)の成長を裏付ける何よりの根拠となり、自信が持てるようになる。

                  そういう事なのかな・・・。

酔言夢想(10)  もう一度

2014年03月13日 15時22分16秒 | 考える
ある時 師 (船井幸雄先生) 曰く
「幸福とは自分が幸せと思うこと。 成功とは自他ともに、あの人は幸せだなと思われること。 不幸とは自分が不幸だと思うこと。 失敗とは自他ともに不幸だと思うこと。 他人が成功と思ってくれるには、やっぱり世のため、人のために何かを残す。 死ぬときに世のため、人のためにだいぶしたな、と思えたら成功と言えるのではないだろうか。」
     (「船井論語<成功篇>」中島孝志著 ダイヤモンド社より)


こんなはずではなかった。  

まぁ、一応は健康。 ・・・少々、筋肉の衰え、記憶力の衰えは感じてきたものの、逆に、健康をもてあまし気味・・・と言ったら、図々しいだろうか。

経済的には、・・・?
年金待ちと言うか、2ヶ月まとめて支給というのが、どうも・・・。
計画性がないというか、宵越しの金は持たねぇ・・・という気性(?)でもある。

男女関係・・・これは・・・縁がない・・・と、いうか、まったく・・・。
しかし、どうにもならない、こればかりは・・・先様の選択なので。

仕事・・・、自分としては、取りあえず、納得のいくように、精一杯やったつもりだが、正直、自分の期待通りの展開にはならずじまいだった。
定年退職時、会社に、あるいは社会に対して、胸を張って誇れる業績を残したわけでもない。

ずうっと、「夢」を持ち続けながら、日々の生活の中から、もう一歩踏みだし、手を伸ばして、せめて「夢実現への準備作業」を積み重ねていく事すらやらなかった。

今、振り返ってみると、こうしたイライラした気持ちが積み重なって、ぼぉ~っと、一人、ここに立っているという感じだ。

思えば、曲がりなりに、教育者だった父親の背中を見て育ち、その影を追いかけようとし、事実、そのつもりでいたはずだったが、いつの間にか、自分の実力と「夢」の隙間が拡がって、そこに落ち込んで右往左往している間に定年というのが現実だった。

本当にこれで良かったのか、・・・ あぁ、結論はすでに出ている。

良かれ悪しかれ、現実が証明している。
もっと早い時期に、進路を変え、方向転換すべきではなかったのか?
もっとも、今更、過去を言っても、結論が出ている以上、結果的にはここに来るしかなかったのだと思う。

「人生は第二幕が面白い。」
 NHKラジオ深夜便・隠居大学のコピーだが、二幕目が面白いのは、つまらなかろうと、面白かろうと第一幕目があったからこそ言えること。
私の場合は、第一幕目の幕が上がる前に、自ら、舞台を降りてしまったということだろう。

しかし、裏を返せば、実力を発揮する前にリタイアしてしまったのだから、再度と言うより、初挑戦するということになる。

これに、何の問題があろうか・・・とも、言えるはずだ。


「死ぬときに世のため、人のためにだいぶしたな、と思えたら成功と言えるのではないだろうか。」
船井先生、私には、まだまだ、そんなことは、これっぽっちも言えません。 私は、何もやってはおりません。 まだまだ、これからです。 ですので、死ぬのは、まだまだ、ずうっ・・・と先のことになりそうです。
  


「稼ぐ思考術」 №307
leadconsulting.jp/mail365
■今日のコトバ:(2014/3/12)
「一つの物事を掘り下げて考える習慣をつける。」
■解説:
自分が関わる物事については、一つ一つを掘り下げて考える習慣を身に付けておこう。
物事を掘り下げて考える習慣を持つと、皮相的な現象に惑わされることなく、事の本質を瞬間的に理解することができるようになる。
■実践:
自分が関心を持てるビジネスジャンルがあれば、そのトピックを様々な角度から深堀してみよう。
洞察力を磨くことができれば、新しいビジネスチャンスを発見することができる。
        (小谷川拳次先生) より