【人間力を磨く】「稼ぐ思考術」 No.293
■今日のコトバ:
「いざという時に、思い出してもらえる人物になる。」
■解説:
ビジネスを伸ばしていきたいのならば、突き詰めるところ、人に好かれなければいけない。
さらに言えば、あなたが扱っているサービス・商品に関するニーズが発生した際に、真っ先にあなたの顔を思い浮かべてもらう必要がある。
そこで求められるのが、Sさん自身の「人間力」である。
「同じ商品なら、ぜひ Sさんから買いたい」、「Sさんが勧めてくれるのなら間違いないだろう」と言われる程に人間力があれば、自ずと売上は上がっていく。
■実践:
人間力を高めるためには、お客様と接する際に、常に好感度の高いコミュニケーションを目指す。
礼儀、マナー、外見を磨くことは当然だが、それ以上に大切なことは、常に相手の期待を上回ること。
相手の期待以上のサービスやサプライズを与えていくにはどうすれば良いか、この一点に集中していれば、人間力は自然と高められるようになるはずだ。
(小谷川拳次先生) より
いざという時に、他人から思い出してもらえる人物って、そうそう多くない。
ここぞという時に、「あの人が、今、ここにいたらなぁ!」とか、逆に「あの人、大丈夫だろうか?」とか、そんな風に思ってもらえる人物って、滅多に無い?
本当に、そうありたいものだと思う。
他人のブログを読んでいて思う。
文章もそうだが、写真がきれいに撮れている。
それが、とてもうらやましい。
私は写真の1枚すら、まともに撮影できない。
手ぶれは年のせいではない。
普通、多少の手ぶれはカメラ自身が補正してくれる。
ピント合わせにしたって殆どカメラがやってくれる。
シャッターが切れさえすれば、まともに撮影できない方がおかしい。
そういう時代だ。
被写体がぶれて写るくらいならまだしも、狙った相手がフレームから外れて、全く写っていなかったり、写っていても、くちばしの先だったりとか、長い鼻の下だったりする。
動くものだけならまだしも、相手が固定していても同様。
そういえば仲間と旅行に行って、思いっ切り写真を撮ってきたが、せっかくのポーズ写真、友だちが撮ってくれた分はちゃんと写っていたのだが、私の撮った分は、ほぼ全滅だった。
せっかく、大事な想い出となるはずだったのに、ン~トウ~~ッに、申し訳なかった。
その後、撮影技術向上のため、日夜努力すれども、相変わらずの腕前だ。
未練がましく、パソコンに残した過去の写真達を見るにつけ、落涙千斗、落とす涙も涸れ果てた風来居士だ。
閑話休題。
昔、こんな私でも、ひとかどの人物になろうと夢を見たことがあった。
しかし、つまるところ、何をやるべきか、何をやらねばならないのか?
迷っているうちに、旬が過ぎてしまった。
例えとしてはおかしいかも知れないが、まともな料理が出来たら良いなぁという希望は、弟に、と言うより、その機会があれば、いろんな人に、自分のうまい手料理を食べてもらいたい。
言い換えれば、大勢の人との交流を深めていきたい、そういうことなのだと思う。
しかし、自分では努力しているつもりでも、実際、出来た料理は、食うに値しないものとなった。 ・・・意に反して。
そういう事だ。
簡単に受け入れられるとは思わないが、それでもうまいものをと、努力はしている。
しかし、味覚は千差万別だ。
これは嫌い、これは食える、ぐらいはいってくれないと判断のしようが無い。
もっとも全否定されたら (その可能性大だ。) それはそれで落ち込んでしまうだろうが。
金を稼ぐことに、と言うより、何もせず生きていくことに、少なからず罪悪感を持ってしまっているのも、周囲と引き比べてのことなのかも知れない。
何もせずに他人と交流することなど出来はしないという思い込み。
何かやるためのきっかけは、結局は何でも良かったということなのだろう。
職場からするりと受け入れてもらえる若さ、とは言え、たった10年の差ではあるが、そこに私は嫉妬する。
若さはいつだって、障害を乗り越えるパワーを秘めている。
しかし、今、この私にそのパワーが無いのかと問われれば、そんなことはない、ただ「その場」が無いだけなのだと応じるだろう。
私が現役でいたいわけ。
他人から邪魔者扱いされたくないという思い。
まだ、何か70になる準備というか、心構えが出来ていないような気がする。
70の人間の存在が社会的に受け入れられるということは生中なことではない。
そもそも70の人間がいつまでも会社にしがみついていたら、その方が邪魔な存在だ。
えっ、いや、もっとその前に・・・あれっ?・・・私は一体何歳なのだ?
今年2014年、生まれが1946年、その差が・・・2006年でちょうど60か、それに加えること8年、まだ誕生日前だからして、私は67歳、7月に68歳となる・・・はずだ。
計算は合っているだろうか?
あと、多分約2年半をどう過ごすべきか、私は今、決めかねている。
そうか、まだ2年以上ある・・・。
やはり、かなり惚けてきたようだ。
昨日28日、友人に誘われて、「クリーンウォーク」に参加した。
「ハイキングがてらゴミ拾い」、でなくて「ゴミ拾いがてらハイキング」かな?
まぁ、そういう(どういう?)趣旨で歩いてみた。
それにしても、意外とゴミが多い。
特にタバコの吸い殻。
周囲にとがめる人間がいないことと、これっぽっちという気持ち、さらに持ち帰りにくいと言うことで捨ててしまうのだろうが、まさに「塵も積もれば何とやら」だ。
打ち上げに皆で乾杯。
ビールのせいでもあるまいが、問われて、自分の名前が出てこない。
さすがに本名は覚えていたが、ブログ用の名前「フウライコジ」の漢字がビールの泡に流されてしまったらしい。
「風来」までは良かったが、後半、「居士」の文字が出てこない。
パソコンであれば、黙って「こじ」と打てば「居士」と出てくる。
頭の良いやつだ。
なまじ、普段パソコン命の「風来居士」生本人だとそうはいかない。
一旦、「こじ」を「故士」などと書いてしまうと、もう、そこから抜け出すことが出来ない。
蟻地獄の穴の中だ。
あなた任せよ、パソコン樣、で過ごしてきた報いだろうか。
因果は巡る、末代までも。
参ったなぁ。
家に戻って、例しに「風来故士」でネット検索してみたが、全くヒットしない。
当然といえば当然。
因みに「風来」だけで検索しても同様。
名前の選定を誤ったのかも知れない。
と、今更公開しても、後悔先に立たず・・・とか。
「新風来記」
検索をかけても全くヒットしない。
ブログの表題を変えたとして検索をかけてみた。
「70へ・新風来記・・・ここから」
これでもやはり駄目。
これではどうしようもない。
取りあえず考えてはみたものの、いくら小細工を弄しても無駄だということらしい。
結局、風来居士がkouzouさんでも問題はない。
要は、読ませるのは、まともな内容以外の何物でもない。
有象無象・有相無相=宇宙に存在する有形無形の一切のもの。
世にいくらでもいる種々雑多なつまらない人々。
小有象無象の輩・・・有象無象にも至らぬ輩。
ko-uzoumuzou ・・・小有象無象。
大体、自分の書いているブログの表題「新風来記」が、すぐに出てこないようでは、何をか況んやだ。
小細工を弄するよりは、まともな文章を提供するのが先決だろう。
これはあまり言いたくないのだが、今日、午後から出掛けたら、大分足にきていた。
昨日、今朝と、特に何ともなかったのだが、午後になって、いざ、実際に歩いてみると、かなり腰と腿に筋肉痛がきていたらしい。
ことさら、意地を張っていたつもりはないが、やはり「年相応」と言うことだろうか。
■今日のコトバ:
「いざという時に、思い出してもらえる人物になる。」
■解説:
ビジネスを伸ばしていきたいのならば、突き詰めるところ、人に好かれなければいけない。
さらに言えば、あなたが扱っているサービス・商品に関するニーズが発生した際に、真っ先にあなたの顔を思い浮かべてもらう必要がある。
そこで求められるのが、Sさん自身の「人間力」である。
「同じ商品なら、ぜひ Sさんから買いたい」、「Sさんが勧めてくれるのなら間違いないだろう」と言われる程に人間力があれば、自ずと売上は上がっていく。
■実践:
人間力を高めるためには、お客様と接する際に、常に好感度の高いコミュニケーションを目指す。
礼儀、マナー、外見を磨くことは当然だが、それ以上に大切なことは、常に相手の期待を上回ること。
相手の期待以上のサービスやサプライズを与えていくにはどうすれば良いか、この一点に集中していれば、人間力は自然と高められるようになるはずだ。
(小谷川拳次先生) より
いざという時に、他人から思い出してもらえる人物って、そうそう多くない。
ここぞという時に、「あの人が、今、ここにいたらなぁ!」とか、逆に「あの人、大丈夫だろうか?」とか、そんな風に思ってもらえる人物って、滅多に無い?
本当に、そうありたいものだと思う。
他人のブログを読んでいて思う。
文章もそうだが、写真がきれいに撮れている。
それが、とてもうらやましい。
私は写真の1枚すら、まともに撮影できない。
手ぶれは年のせいではない。
普通、多少の手ぶれはカメラ自身が補正してくれる。
ピント合わせにしたって殆どカメラがやってくれる。
シャッターが切れさえすれば、まともに撮影できない方がおかしい。
そういう時代だ。
被写体がぶれて写るくらいならまだしも、狙った相手がフレームから外れて、全く写っていなかったり、写っていても、くちばしの先だったりとか、長い鼻の下だったりする。
動くものだけならまだしも、相手が固定していても同様。
そういえば仲間と旅行に行って、思いっ切り写真を撮ってきたが、せっかくのポーズ写真、友だちが撮ってくれた分はちゃんと写っていたのだが、私の撮った分は、ほぼ全滅だった。
せっかく、大事な想い出となるはずだったのに、ン~トウ~~ッに、申し訳なかった。
その後、撮影技術向上のため、日夜努力すれども、相変わらずの腕前だ。
未練がましく、パソコンに残した過去の写真達を見るにつけ、落涙千斗、落とす涙も涸れ果てた風来居士だ。
閑話休題。
昔、こんな私でも、ひとかどの人物になろうと夢を見たことがあった。
しかし、つまるところ、何をやるべきか、何をやらねばならないのか?
迷っているうちに、旬が過ぎてしまった。
例えとしてはおかしいかも知れないが、まともな料理が出来たら良いなぁという希望は、弟に、と言うより、その機会があれば、いろんな人に、自分のうまい手料理を食べてもらいたい。
言い換えれば、大勢の人との交流を深めていきたい、そういうことなのだと思う。
しかし、自分では努力しているつもりでも、実際、出来た料理は、食うに値しないものとなった。 ・・・意に反して。
そういう事だ。
簡単に受け入れられるとは思わないが、それでもうまいものをと、努力はしている。
しかし、味覚は千差万別だ。
これは嫌い、これは食える、ぐらいはいってくれないと判断のしようが無い。
もっとも全否定されたら (その可能性大だ。) それはそれで落ち込んでしまうだろうが。
金を稼ぐことに、と言うより、何もせず生きていくことに、少なからず罪悪感を持ってしまっているのも、周囲と引き比べてのことなのかも知れない。
何もせずに他人と交流することなど出来はしないという思い込み。
何かやるためのきっかけは、結局は何でも良かったということなのだろう。
職場からするりと受け入れてもらえる若さ、とは言え、たった10年の差ではあるが、そこに私は嫉妬する。
若さはいつだって、障害を乗り越えるパワーを秘めている。
しかし、今、この私にそのパワーが無いのかと問われれば、そんなことはない、ただ「その場」が無いだけなのだと応じるだろう。
私が現役でいたいわけ。
他人から邪魔者扱いされたくないという思い。
まだ、何か70になる準備というか、心構えが出来ていないような気がする。
70の人間の存在が社会的に受け入れられるということは生中なことではない。
そもそも70の人間がいつまでも会社にしがみついていたら、その方が邪魔な存在だ。
えっ、いや、もっとその前に・・・あれっ?・・・私は一体何歳なのだ?
今年2014年、生まれが1946年、その差が・・・2006年でちょうど60か、それに加えること8年、まだ誕生日前だからして、私は67歳、7月に68歳となる・・・はずだ。
計算は合っているだろうか?
あと、多分約2年半をどう過ごすべきか、私は今、決めかねている。
そうか、まだ2年以上ある・・・。
やはり、かなり惚けてきたようだ。
昨日28日、友人に誘われて、「クリーンウォーク」に参加した。
「ハイキングがてらゴミ拾い」、でなくて「ゴミ拾いがてらハイキング」かな?
まぁ、そういう(どういう?)趣旨で歩いてみた。
それにしても、意外とゴミが多い。
特にタバコの吸い殻。
周囲にとがめる人間がいないことと、これっぽっちという気持ち、さらに持ち帰りにくいと言うことで捨ててしまうのだろうが、まさに「塵も積もれば何とやら」だ。
打ち上げに皆で乾杯。
ビールのせいでもあるまいが、問われて、自分の名前が出てこない。
さすがに本名は覚えていたが、ブログ用の名前「フウライコジ」の漢字がビールの泡に流されてしまったらしい。
「風来」までは良かったが、後半、「居士」の文字が出てこない。
パソコンであれば、黙って「こじ」と打てば「居士」と出てくる。
頭の良いやつだ。
なまじ、普段パソコン命の「風来居士」生本人だとそうはいかない。
一旦、「こじ」を「故士」などと書いてしまうと、もう、そこから抜け出すことが出来ない。
蟻地獄の穴の中だ。
あなた任せよ、パソコン樣、で過ごしてきた報いだろうか。
因果は巡る、末代までも。
参ったなぁ。
家に戻って、例しに「風来故士」でネット検索してみたが、全くヒットしない。
当然といえば当然。
因みに「風来」だけで検索しても同様。
名前の選定を誤ったのかも知れない。
と、今更公開しても、後悔先に立たず・・・とか。
「新風来記」
検索をかけても全くヒットしない。
ブログの表題を変えたとして検索をかけてみた。
「70へ・新風来記・・・ここから」
これでもやはり駄目。
これではどうしようもない。
取りあえず考えてはみたものの、いくら小細工を弄しても無駄だということらしい。
結局、風来居士がkouzouさんでも問題はない。
要は、読ませるのは、まともな内容以外の何物でもない。
有象無象・有相無相=宇宙に存在する有形無形の一切のもの。
世にいくらでもいる種々雑多なつまらない人々。
小有象無象の輩・・・有象無象にも至らぬ輩。
ko-uzoumuzou ・・・小有象無象。
大体、自分の書いているブログの表題「新風来記」が、すぐに出てこないようでは、何をか況んやだ。
小細工を弄するよりは、まともな文章を提供するのが先決だろう。
これはあまり言いたくないのだが、今日、午後から出掛けたら、大分足にきていた。
昨日、今朝と、特に何ともなかったのだが、午後になって、いざ、実際に歩いてみると、かなり腰と腿に筋肉痛がきていたらしい。
ことさら、意地を張っていたつもりはないが、やはり「年相応」と言うことだろうか。