80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

誰の為に生きる・・・?

2014年03月22日 09時07分50秒 | 考える
ちがうところからみてみよう
 がむしゃらに戦っていたり
 ふんばっていると
 自分ではそれが正しいと信じこんでいるもの
 ほんとに それでいいの? と
 ちがうところから自分をみる夜もあっていい
(「1日の終わりの言葉」 海原純子 PHP研究所 より)


このところ、頭痛が続いている。
ひょっとして認知症の前触れなのではなかろうか? 
最近、そんな不安が頭に浮かんで、それが決定だとでもいうように、こびりついて離れない。
実際、どうなんだろうか?
       (情報過多・・・とはいうものの。)

日経に寄れば、「つまり65歳以上の男女について、実に3割近くもの割合で、判断能力に何らかの問題を抱えた方が存在しているわけです。」だとか。

さらに、川原田慶太先生(司法書士)のコラムには
平成版「隠居制度」、 具体的には「家族信託」と呼ばれる形態を用いた方法です。

この方法を使えば、親の生前に信託契約をしておくことで、親の判断能力が弱まっても様々な対策を講じる可能性が広がります。

「家の財産」について所定の権限を、引き継ぐ予定になっている特定の子どもに託すことで、自分が認知症になった後も信託契約の内容にしたがって対策を行うことが視野に入ります。

 私の経験上でも本人が認知症となったことによる「財産凍結状態」で、負担増が分かっていても何も手を打つことができず、結果的に痛い目をみる家庭を少なからず見てきました。

死亡対策としての「遺言」はかなり注目されてきたように思いますが、認知症対策としての「家族信託」は「平成の隠居制度」にあたるものとして、もっと周知されてよいのではないかと思います。

    平成の「隠居制度」 認知症による財産凍結を防ぐ秘策 ・・・から
<相続トラブル百科 実践編第93回公開日時(4/4ページ) 2014/3/21 7:00記事保存>
   とのこと。

「隠居」か・・・、 なるほど。  

働く人間が、いつまでも歓迎されると思ってはいけない。
すでに退職している、つまりは、ほとんど、自分たちの現在の仕事とは、関係ない人間、そう、私はすでに別世界の住人なのだ。

顔を見たい、会いたいなどと思っているのは、こちらの都合でしかない。
せめて、有用な情報でも持って行ければ、それなりの効用はあるだろうが、そういう情報に触れることの出来る立場でもない。


こんな私にまだ何か可能性はあるのだろうか?
生きていく価値はあるのか? (どうして、そっちに行くかな? まぁ、いいか。)
これから私がひとりで完成出来る仕事というのはあるのだろうか?

結局は、いつも同じ問いに行き着く。
ただ、今、取りあえず出来るからという理由で、簡単に、物事を始めてはならないと思っている。


何か、少しでも役に立つことを、・・・でも、誰の役に?
私のやりたいこととは何だろうか・・・?
つまるところ、自己満足でしかない。    


人は、やりたい気持ちだけでは、何一つ達成できない。 


何かを達成するためには、計画の段階を通り越して、スタートを切らねばならないだろう。
と、いつも同じ言葉の繰り返し、反省の繰り返し、そして最後は、いつも実行の保留。
あした考えてみる。
こんな足踏み状態では何一つ進展しない。

ちょっとした、ごく簡単な事を一つだけ完成させる。
欲張ってはいけない。
それが、たとえ、自分にとって、いかにつまらないものであっても、とにかく完成させることで、達成感を味わう。


「達成感」、それが大切な要素だろう。
静かな夜更け、保留した実行達のうめき声が聞こえてくる。  


いつも思うことだが、成功とは何だろう?
逆をいえば、私にとって、本当の失敗とは何なのだろうか?
何度失敗しても懲りず、というより、当たり前、年中行事のように同じ失敗を繰り返す。


私が売るべきもの、売れるものは何だろう?
私が今、やるべき事、やらねばならぬ事・・・。

そもそも、学んでばかりいて何になるというのだ?
もう、先が見えてきている。
生きていくなら、学びを卒業して、実践に進まねばならない。

人生の前半戦には、何も見つけられなかった、何も見えなかった。
だったら、今から、この後半戦。
今、ここからしかないだろうと考えると、何か期待してしまうではないか。


情報(例えは方法論)を得ることによって、私の生き方はどう変わるのだろうか? 

また未練がましくそんなことを考える。
しかし、所詮、67の・・・67?・・・、あと4ヶ月足らずで68になろうという(良かった、70まで、後2年4ヶ月ある。)老人だ。
一体何が出来るというのだ。

堂々巡りの最中にも、時間は過ぎていく。 

なるようになれ。 焦ってみても仕方がない。

組織で生きているわけではない。 所詮、自己満足の範囲内でしかない。 
ならば、私はどこで満足するのだろうか?
考えてみれば、この40年間、同じ問いを繰り返してきた。
もう、そろそろいいのではないか?

私のいう人のためにとは、つまるところ、自己満足、人のためにこれだけやった、これだけ貢献できた、という自己満足が得たいからに過ぎない。


相手にしてみたら、ただ単にかき回されただけに過ぎないのかもしれない。
いや、おそらくそうだ。
これは迷惑以外の何物でもない。

少なくとも、私自身なら、やはり同じ事を考える。 (実際、そう書いている。)

としたら、自分に正直に生きるのが一番ということだが、そうすると・・・。


ウ~ン・・・  堂々巡りだ。


想いを断つというのは、想像以上に難しい。


思うに、これは、誰にでもいい顔を見せて生きていたいという考えの表れだろう。
言い換えれば、自分の生き方に、自信が持てない事の裏返しなのかも知れない。


【成長の根拠を視覚化する】「稼ぐ思考術」 No.342‏ 
     小谷川拳次 (kotanigawakenji@leadconsulting.jp)
■今日のコトバ:
「自己投資した具体的な記録を取り、成長を視覚化する。」
■解説:
ただやみくもに頑張っていても、なかなか自分自身の成長を実感できないこともあるかもしれない。
そんな時には、これまでの自分が投資した時間と内容の記録を眺めれば、あせることなく成長は進んでいるということを実感できる。
■実践:
毎日、自分自身に投資した内容の記録を残す。
たとえば、本を読んだらそのタイトルと感想を書く。
セミナーに参加したり、ジムで体を鍛えたりした後も、必ずその記録を取るようにしておく。
そうすることによって、Sさん(私)の成長を裏付ける何よりの根拠となり、自信が持てるようになる。

                  そういう事なのかな・・・。