茅舎復活(その四)
「昭和十六年・心身脱落抄」
寒夜喀血みちたる玉壺大切に
寒夜喀血あふれし玉壺あやまたじ
咳かすかすか喀血とくとくと
そと咳くも且つ脱落す身の組織
冬晴を我が肺は早吸ひ兼ねつ
冬晴をまじまじ呼吸困難子
冬晴を肩身にかけてすひをりしか
冬晴をすひたきかなや精一杯
「昭和十六年」の「心身脱落抄」所収の八句である。茅舎の数多い傑作句と比すると見劣りする感じで無くもない。しかし、当時の茅舎の置かれた状況を理解するには、まことに、印象強烈な句ではある。
茅舎略年譜(『川端茅舎(蝸牛俳句文庫)』)によると、「昭和四年(一九二三九) 三二歳。春頃から特に病弱となる。十二月二十日、岸田劉生が満州旅行の帰途、山口県徳山で急死。三十八歳」とある。森谷香取さんの「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族」には、次とおり記されている。
http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_04.html
[ 45歳を待たずして没した茅舎はその晩年の15年近くをありとあらゆる病魔との闘いに明け暮れた。龍子が言うには茅舎の病歴たるや所謂病気の問屋といった状態で、彼を永く治療にあたられた病院長は「茅舎君のかからないのは産婦人科だけだ」と苦笑されたのだそうだ。]
これらのことは、掲出のこの八句を見ただけでも、その茅舎の病魔との闘いは凄まじいものであったことは容易に想像することができる。しかし、この八句の題名となっている「心身脱落抄」の「心身脱落」とは、道元の『正法眼蔵』に出てくる禅語でもある。
この「心身脱落」について、「今日の禅語」(下記アドレス)で、次のように説かれている。
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/06.htm
[ ここで言う脱落は生存競争から落後するとか抜け落ちるという一般的解釈ではなく、解脱と同じ意味で、一切のしがらみから脱して心身共にさっぱりした境地を言う。一切を放下し、何の執着もない自由無碍の精神状態である。
この語は道元禅師が留学僧として宋の天童山・如浄禅師のもとでの修行していたとき、道元自らの悟りの機縁となった言葉である。師の如浄禅師はもともと「心塵脱落」として説かれていたものを道元禅師は自らの悟りの境地から「身心脱落」とされたものらしい。心塵脱落は煩悩(心塵)からの解脱であったが、道元は単に心の煩悩だけでなく身体の煩悩共に解脱しなければならないとした。
心塵が是か、身心が是かは定かではないが道元が自ら著わした「正法眼蔵」に如浄禅師は
「参禅は心身脱落なり 焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん・・懺悔の法を修して身心を清浄にする)、看経(かんぎん・・お経を唱える)を用いず、只管(しかん・・ひたすら)に打座するのみ」と示し、さらに「身心脱落とは坐禅なり。只管に坐禅するとき五欲煩悩が除かれる」
と説かれたと記している。つまり禅の修行は焼香も礼拝も念仏も懺悔(さんげ)も読経も不用である。只ひたすら座禅することが身心の脱落に通じることなのだ。焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん)、看経(かんぎん)を用いずといわれたからといって、参禅修行においてそれらの行為をすべて排除するということではもちろんない。
それらは悟りにおいての直接的手段とするものではないからである。だが、不用であっても不要では決してない。禅者は日常生活、すなわち行住座臥著衣喫飯そのものが、仏作仏行であり、座禅であり、仏法そのものであると言われていることからでもわかる。
即ち「身心脱落」とは身も心も一切の執着を離れて、自由で清々しい境地への解脱である。道元は「仏道をならうことは自己をならうなり、自己をならうとは自己を忘れることなりと云い、自己への執着を離れ萬法に証せられることだといっている。つまり自己の身心とか、他人の身心とかの相対的執着を離れたところに身心の脱落があるとしたのである。
ここに道元の悟りの風光は「ただわが身も心もはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたより行はれて、これにしたがいゆくとき、ちからもいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ仏となる」と云う言葉が端的に物語っている。さらに悟りの境地にとどまることはまた禅の本旨ではない。即ち身心脱落のところに安住せず、その悟りの境地を広く一般大衆へ、いわゆる衆生済度へ向けての利他の行が求められる。それは身心脱落の悟りから、さらにそれをも脱落をさせたところが「脱落身心」でなければならないのである。]
茅舎の第三句集『白痴』の「昭和十六年・心身脱落抄」の「心身脱落」は、この道元の「心身脱落」の世界と同じくするものと解して差し支えないであろう。すなわち、長い病魔との闘いを経て、この八句を得た最晩年においては、「身も心も一切の執着を離れて、自由で清々しい境地への解脱」した、道元の唱えた「心身脱落」の境地に至ったということなのではなかろうか。
そして、この句集の題名にもなっている「白痴」ということも、道元の「仏道をならうことは自己をならうなり、自己をならうとは自己を忘れることなり」の「自己を忘れる」と、これまた、同一の世界なのではなかろうか。
ここまでくると、この句集の最後の一句の、「皆懺悔鶯団子たひらげて」の、この「懺悔」も、聖書における「懺悔」というよりも、道元の「参禅は心身脱落なり 焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん・・懺悔の法を修して身心を清浄にする)、看経(かんぎん・・お経を唱える)を用いず、只管(しかん・・ひたすら)に打座するのみ」の「懺悔の法」などにより近いものなのではなかろうか。
茅舎は、その略年譜によると、「明治四十二年(一九〇九) 十二歳。三月、有隣代用小学校を卒業。四月、小石川区の私立独逸協会中学に入学。聖書に親しむ」のとおり、若いときから、聖書の世界に親しんでいたが、その洗礼を受けたわけでもなく、それらの聖書以外の世界を排斥するということではなく、この道元の禅の世界や広く宗教全般についての探究心とその帰依が厚かったという思いを深くする。
いずれにしろ、「白痴茅舎」こと、川端茅舎は、道元の「心身脱落」の悟りから、さらには、その悟りをも脱落した「脱落心身」の境地に至り、今に語り伝えられている「茅舎浄土」の世界へと飛び立っていたことは間違いないであろう。