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茅舎追想(その一~その五)

2010-07-06 20:12:56 | 川端茅舎周辺
(茅舎追想その一)

芭蕉の花

 芭蕉の花というのを見たことがある。小学生の頃、洋館に住んでいた友人の家にバナナの木があり、そのバナナの木に紅い花が咲いたのである。不思議な光景で今でも鮮明に覚えている。その思い出のバナナの木が芭蕉の木と知ったのは、つい最近のことである。
 芭蕉が木なのか草なのか、また、その実は小さなバナナのようなのであるが、それが食べられるのかどうかは定かではない。とにかく、朱っぽい花が咲いたのを見たのは、遠い記憶の片隅の中にある。
 芭蕉といえば、植物の芭蕉よりも江戸時代の俳聖芭蕉の方をすぐに思い浮かべる。芭蕉さんが植物の芭蕉が好きであったのかどうか、これまた、あまり詮索するつもりはないが、ただひとつ、芭蕉さんの前号が桃青で、記憶の片隅にある芭蕉の花が桃に似ていて、そんなことから、芭蕉さんは、桃青から芭蕉に俳号を変えたのだろうかと、そんなことを思ったりしたことが、これまた、遠い記憶の片隅の中にある。
 さて、秋分の日の頃、「神田の古本市」が開かれる。何時頃から開かれるようになったのか、これまた、記憶はぼけてしまったが、大体、その古本市には顔を出して、これまた、随分と、永い年月を経てしまった。
 その神田の古本市の、裸電球の夜店で、『定本川端茅舎句集』という小冊子を買ったことがある。格別、川端茅舎という俳人が好きであったわけではない。むしろ、その異母兄にあたる、日本画家の川端龍子の方が、俳人茅舎よりも関心があった。
 ただ、川端茅舎の思い出というのは、茅舎が亡くなった、昭和十六年の、二三年後の、戦時中に、三十九歳の若さで病死した父の思い出と重なる。おそらく、年格好も、育った社会環境なども、また、その病名なども、いろいろと重なる面が多々あり、また、父の遺品の中に、子規のものと、この茅舎のものとがあったことを、祖母(父の母)から聞いた覚えがあり、そんなことが、何時も頭の片隅にあったというようなことはあるのかもしれない。
 しかし、偶然のような必然のような、「見えない糸」で結びついているよう、そんな茅舎との出会いがあった。それは、たまたま、入院・手術ということになり、病院に入るときの本を二三冊探していて、この『定本川端茅舎句集』が目に飛び込んできたのである。
 その入院中に、病院にある図書とあわせ、その句集を、閑にあかせて見るのを日課にしていた。
無事、手術も終わり、重湯から三分粥、七分粥と段々と食欲も増してきた頃、俄に、夕立模様となり、空は真っ暗闇となり、病院の裏庭の黄緑の芭蕉の葉に、雹のような大粒の雨が襲いかかってきた。そのときの雨風に揺れる芭蕉の葉とざわめきが、ベッドの側にあった、『定本川端茅舎句集』の裏表紙と見事に重ね合わさった。
 不思議なこともあるものだと、その茅舎句集を手に取りながら、その表の表紙と、目次の末尾に記載されている「装幀・川端龍子」を見て、これは、茅舎の令兄・龍子の、異母弟・茅舎へ捧げる鎮魂の「芭蕉の花」だったのかと、そのとき、はっきりと悟ったのである。
 川端家の長子の龍子にとって、龍子とその母とを見捨てた、その実父と茅舎の母らに対する憎しみにも似たさまざまな思いは、この『定本川端茅舎句集』の裏表紙の、雄渾な墨一色で描かれた芭蕉の大きな葉に要約されていると同時に、その表表紙の、薄墨色の上にたらした薄桃色の、桃のような、「芭蕉の花」には、亡き、薄倖な生涯を閉じた異母弟・茅舎への、名状し難き、鎮魂の調べを有しているのだ。
 龍子は一言もそのようなことを語らない。しかし、龍子がその発刊を発意して、それを結実させたところの、この戦後、間もない、昭和二十一年に刊行された、一冊の小冊子の、その『定本川端茅舎句集』の、その装幀に、龍子の万感の思いが込められている。


(茅舎追想その二)庭の花(その一)

 『定本川端茅舎句集』は、後に、「ホトトギス」同人会長となった深川正一郎が編集している。その「あとがき」を見ると、「茅舎句集の発刊は一つに令兄川端龍子氏の発意によることで、私に遺稿の集輯を託された」とあり、その刊行は偏に、茅舎の異母兄の龍子によってなされたのであろう。
龍子自身、「ホトトギス」の同人であり、茅舎が「ホトトギス」で活躍する以前から、その表紙絵・挿絵などを担当していて、「ホトトギス」やその主宰者の高浜虚子との関係は、茅舎よりも遙かに深いものがあったといえるであろう。
 この「ホトトギス」の表紙絵・挿絵などは、錚々たる画人が担当しており、龍子が最初に登場するのは、明治四十四年(一九一一)の頃で、その八月号(第一四巻・第一二号)の目次を見ると、「銀座の裏(川端龍子挿絵)・銀座の角(川端龍子挿絵)」などと、その名を見ることができる。
 そもそも、その頃の「ホトトギス」は、単に俳句関係だけではなく、広く「小説・評論・俳句・美術」などの総合誌的な体裁で、号によっては、相当な部分を美術関係に当てていて、明治時代の龍子も渡米する以前の洋画家として、この「ホトトギス」に登場し、後に、大正・昭和時代の渡米後の日本画家として再登場している。
 その「ホトトギス」に関係する画人は、中村不折・下村為山・浅井忠・小川芋銭・石井柏亭・平福百穂・岡本月村・池部鈞・森田恒友・小出楢重・岸田劉生・近藤浩一路・・小林古径・横山大観等々と、まさに、目白押しという感じである。
 龍子が、その表紙絵を担当するのは、昭和六年(一九三一)の頃で、その年の十二月号(第三十五巻第三号)で、茅舎は「金剛の露ひとつぶや石の上」など四句が、その巻頭を飾ることとなる(この号の「ホトトギス・目次」を下記に掲載をして置きたい)。
さて、茅舎の令兄・川端龍子が発意して刊行した、この『定本川端茅舎句集』には、その「序」として、茅舎の第二句集『華厳』での高浜虚子の「序」の「花鳥諷詠真骨頂漢」とあわせ、虚子の「庭の花」という一文が掲載されている(この「庭の花」は「ホトトギス・・・茅舎追悼・昭和十六年九月号」に掲載されたものを再掲している)。
 その虚子の「庭の花」の一節に、「芭蕉の花が軸と共に挘ぎ取られてそれが龍子君の手に渡された。龍子君はそれを左脇(註・棺の亡き茅舎の左脇)の方に入れた。そこは詰め物ががさばつてをつたが芭蕉の花が重かったのでごぼと沈んだ」と、虚子は記している。
 この棺の、亡き令弟・茅舎の左脇に置いたところの、令兄・龍子の「芭蕉の花」は、それは、まぎれもなく、その五年後の、日本がどん底にあった、戦後の、昭和二十一年に刊行した、『定本川端茅舎句集』の、その川端龍子が装幀した、その表紙絵の、その「芭蕉の花」に連なるものなのであろう。


(茅舎追想その三)庭の花(その二)


[  庭の花    虚子

深川正一郎君と私の二人は門口に立つた。石炭酸の臭ひがする。消毒をしたのだなと思ふ。台所の方にマスクを掛けた女の人が二人許り見えた。私達は玄関を上つてそこに外套と帽子とを脱ぎ棄てて茅舎君の病室であつたところに行かうとすると、龍子君と廊下で逢つた。暫く座敷に坐つて改まつて挨拶をし、又棺のほとりに行つて見ると、一人の人が、庭に咲いてゐた白百合と鬼百合とを手折つて龍子君に手渡した。龍子君はそれを私に渡した。私は其一本を正一郎君に渡した。手に残つたのを見るとそれは白百合であつた。それをどのへんに入れようかと思つたが、茅舎君の右の脇に置いた。正一郎君も同じく右の脇に置いた。それは別に意味があつたわけではなかつたが、詰め物の加減でそこが少し落窪んでゐて、そこに置くのが最も自然であつたやうに思ふ。又芭蕉の花が軸と共に挘ぎ取られてそれが龍子君の手に渡された。龍子君はそれを左脇の方に入れた。そこは詰め物ががさばつてをつたが芭蕉の花が重かったのでごぼと沈んだ。私は別れを叙したいと思つて顔にかぶさつてゐる切れを取つていただきたいと言つた。一人の人がその切れを取つて呉れた。茅舎君の顔は少しむくみが来て居ると思はれたが、併しふだんの顔とあまり違つて居るとも思はれなかつた。少し頸を右にかしげてゐたが、これもふだんでもさうであつたやうに思ふ。私達は拝をした。切れは再び顔の上に覆はれた。 ]

 『定本川端茅舎句集』に掲載されている高浜虚子の「庭の花」の全文である。虚子が提唱して、実践していた「写生文」の一典型を見る思いがする。虚子は「写生俳句」とともに「写生文」を、当時の「ホトトギス」に掲載し続けた。その小説の類も「写生小説」と理解しても差し支えなかろう。
 虚子は、俳句の実作・鑑賞・研究の全ての分野で、際だった存在であるが、それ以上に、小説家・散文家という自負を常に持ち続けていた。ちなみに、虚子全集(「毎日新聞社」刊)は、巻一から巻四が「俳句集」、巻五から巻七が「小説集」、巻八から巻九が「写生文集」、巻十から巻十二が「俳論・俳話集」、巻十三が「自伝・回想集」、巻十四が「紀行・日記集」、巻十五が「書簡・資料集」、巻十六が「虚子研究年表」で編纂されている。
 この「写生文」は、そもそもは、虚子が兄事した正岡子規の、「俳句革新」・「短歌革新」・「文章革新」の、その「文章革新」の「事実を細叙したる文」を志向してのものということになろう。
この「事実を細叙する」という虚子の「コピー機」のような正確無比な冷徹な眼というのは、掲出の「庭の花」だけを見ても察知することができよう。それにしても、「芭蕉の花が軸と共に挘ぎ取られてそれが龍子君の手に渡された。龍子君はそれを左脇の方に入れた。そこは詰め物ががさばつてをつたが芭蕉の花が重かったのでごぼと沈んだ」の、この「ごぼと沈んだ」という箇所などは、まさに、虚子ならではという思いを深くする。
 そして、「芭蕉の花」を、異母兄の龍子が異母弟の茅舎へ手向けたというのは、画家として大成した龍子が、俳人として夭逝した茅舎を慮って、「俳聖芭蕉に因んでの芭蕉の花」を手向けたのかと、そんな思いをも深くしたのであった。
 しかし、世の中というのは広いもので、同じようなことに興味を持っていて、そして、同じようなことを「あれかこれか」している、謂わば、「似た者同士」が、偶然に、その「関心を一にする」ことについて情報交換するような場に遭遇することがある。
こういうことを「一期一会」とでも言うのであろうか、何かの集まりで、何かの拍子に、たまたま、虚子の「庭の花」の「芭蕉の花」が話題になり、何と、その「芭蕉の花」は、当時の青露庵(茅舎が住んでいた大田区の「馬込文士村」の一角)の庭に芭蕉があって、その「芭蕉の花」だと言うのである。
 さらに、何回が目にしている「新訂俳句シリーズ人と作品」の『川端茅舎(石原八束著)』(「桜楓社」刊)に、その芭蕉の写真が掲載されているというのである。誠に、「コロンブスの卵」で、その写真を見て、何のことはない、事実は、「写生文の神様・高浜虚子」の、その写生文の「庭の花」の通りであって、「庭に咲いてゐた白百合・鬼百合・芭蕉の花」の「芭蕉の花」というのが、正解なのであろう(今は、茅舎が住んで居た「青露庵」には句碑があるだけで、その旧宅もその庭も、そして、その「芭蕉の花」も見ることはできない)。


(茅舎追想その四)虚子の「厭な顔」

 『定本川端茅舎句集』に掲載されている虚子の「庭の花」が「写生文」とするならば、水原秋桜子をモデルとした「厭な顔」の短編は「写生小説」と位置づけられるであろう。
 この短編小説は、『高浜虚子全集第七巻』(小説集三)では三頁程度のもので、その最終部分の会話調のところを記すと次のとおりである。

[ 扱て信長の前に引かれた左近は打ちしほれて面を垂れてゐたが、信長はやさしく、
 「左近、暫くであつたな。何故お前は己に背いて門徒の一揆に加はつたのか。」
 と聞いた。
 左近は矢張り面をふせてゐた。
 「いつかお前が己にささやいたことは、お前の親切からであつたらうといふことは己も想像してゐるが、其の時格別気にもとめて聞かなかつた。併し其の時己がお前の言つたことを耳にとめなかつたのでお前が大変厭な顔をしたことは覚えて居る。」
 左近は矢張り面を伏せて何ともいはなかつた。
 「大方其の為め急に己に背くやうになつたのであらうが、格別背くにも及ばぬことではなかつたか。」
 左近は少しく口をもぐくさせてゐる様子であつたが、其の顔は信長には見えなかつた。
 「己も折角のお前の言葉に耳を傾けなかつたのは悪かつたが、お前も其の為めに厭な額をしてすぐ逐電したのは愚かなことではなかつたか。」
 信長は又左近の其の時の厭な顔を思ひ出してふき出して笑つた。左近は一層首を垂れた。
 「左近を斬つてしまへ。」
 と信長は命令した。       ]

 ここに登場してくる左近(栗田左近)が、「ホトトギス」を離脱して、それに対抗する「馬酔木」という俳誌と俳句集団を創設していくところの水原秋桜子で、信長(織田信長)が、「ホトトギス」の主宰者、且つ、日本俳壇の大御所の高浜虚子なのである。
 この「厭な顔」は、昭和六年十二月の「ホトトギス」誌上に掲載されたものなのであるが、これが掲載されると、翌七年一月の「馬酔木」の別冊で、秋桜子は、「生きてゐる左近」の名で「織田信長公へ」との反駁文を掲載し、両者は険悪な状態になっていく。その秋桜子の反駁文は次のとおりである。

[謹白、陣中御多事の折柄御執筆相成候大衆文芸つぶさに拝読仕り候。いつもながら結構布置の妙を極め、御運筆も神に入りて、何も洩れ聞こえざる遠国の武士は、全然架空の御着想とは知る由もなく、これこそ彼の事件の史実よと早呑み仕るべく、又、浜口遠州高野常州などのへつらい武士は、額をたたいて天晴れ御名作と感嘆仕るべく候。さりながら、如何に大衆文芸なりと申せ、全然空想の作物は近頃流行仕らず、ここは矢張り写生的に御取材遊ばさるる方、拙者退身の史実も明らかとなりてよろしからんかと、一応愚見開陳仕り候。御作御発表の上、又何かと御糊塗なされ候点を指摘仕るべく候。何はしかあれ、日頃の御寛仁にも似ず、身づから馬を陣頭に進め給ひしこと、弓矢とる身の面目これにすぎたることはなく、厚く御礼申上候。恐惶謹言。 生きている左近
  織田右府どの     ]

 この秋桜子の反駁文に出てくる高野常州とは、高野素十のことで、虚子、秋桜子、そして、素十の、この三人の、この「厭な顔」のモデルとなっている、その背景は、何ともおぞましいような、実に、陰惨な形相すら帯びている。
 そして、川端茅舎は、虚子から、「花鳥諷詠真骨頂漢」として、秋桜子の去った後の「ホトトギス」の中心俳人として嘱望され、また、秋桜子とは、秋桜子が関係する昭和医専付属病院の入院その他で私事万端の世話になっており、素十とも、素十の関係する新潟大学付属病院に後に入院するなどの昵懇関係にあり、これらの「厭な顔」のモデルとなっている背景のことなどとは、一定の距離は置いているが、好むと好まざるとに関わらず、陰に陽に、その影響を受けることとなる。
 ここで、「年譜」(『川端茅舎(石原八束著)』)の「昭和六年」の事項を掲載して置きたい。この年譜に出てくる「浜口今夜」は、上記の秋桜子の反駁文に出てくる「浜口遠州」である。

[ 昭和六年(一九三一) 三四歳

一月号 「ホトトギス」巻頭雑詠

十月号 「ホトトギス」に浜口今夜の「最近俳壇漫評」に「たかし氏と茅舎氏」の一文が載り、四S後、今俳壇は両氏の時代であること、最近十一ヶ月間のホトトギス雑詠に四十句以上の入選者はたかし、茅舎、立子等六名。三十句以上の入選者は秋桜子、青畝、草田男、誓子、風生等十三名であると報告された。

同月及び十一月号「馬酔木」に水原秋桜子の「自然の真と文芸上の真」が発表され、秋桜子は「ホトトギス」を離脱。十一月「脊椎カリエス」のため、茅舎は昭和医専付属病院に入院。同校教授水原秋桜子の斡旋による。入院中も度々秋桜子の慰問を受ける。

十二月「ホトトギス」雑詠欄巻頭(四度目)「金剛の露」登場。作家的声望いよいよ高まる。この年星野立子主宰の「玉藻」に随想「枯芭蕉」、日記「二十一日間」(四月号)他の文章を執筆した。   ]



(茅舎追想その五)龍子の「愛染」

 島根県安来市に「足立美術館」がある。その美術館のホームページに、「創立者足立全康」について紹介されている。

http://www.adachi-museum.or.jp/ja/index.html

[足立全康は明治32年(1899)2月8日、能義郡飯梨村字古川(現、安来市古川町―美術館所在地)に生まれました。小学校卒業後すぐに、生家の農業を手伝いますが、身を粉にして働いても報われない両親を見るにつけ、商売の道に進もうと決意します。14才の時、今の美術館より、3kmほど奥の広瀬町から安来の港までの15kmを大八車で木炭を運搬する仕事につきました。運搬をしながら思いついたのが炭の小売りで、余分に仕入れた炭を安来まで運ぶ途中、近在の家々に売り歩き、運賃かせぎの倍の収入を得たことがいわば最初に手掛けた商いといえます。その後紆余曲折、様々の事業を興し、戦後は大阪で繊維問屋、不動産関係などの事業のかたわら、幼少の頃より興味をもっていた日本画を収集して、いつしか美術品のコレクターとして知られるようになっていました。
また若い頃から何よりも好きであったという庭造りへの関心も次第に大きくなっていったのです。そしてついに昭和45年、71才の時、郷土への恩返しと島根県の文化発展の一助になればという思いで、財団法人足立美術館を創設しました。]

 この「足立美術館」は「名園と横山大観コレクション」として名高い美術館で、ここに、川端龍子の傑作画「愛染」(昭和九年作)がある。この「愛染」について、次のように紹介されている。

[「愛染」とは愛欲や煩悩といった意味がありますが、ここではこまやかな夫婦の愛情を表現しています。群青の池と深紅の紅葉、その中でつがいのおしどりが見つめあう一瞬。
装飾性と写実性がみごとに調和した名作です。]

 この龍子の「愛染」は、茅舎が生存中の昭和九年の作で、龍子の太平洋戦争前の傑作画の一つである。「現代日本の美術」の『川端龍子(村瀬雅夫解説)』(集英社刊行)で、次のように解説されている。

[第二回の春の青龍展の出品作。太平洋連作の雄大な構想を展開していた秋の展覧会と異なり春は習作的実験的作品の発表を恒例としていた。したがって春の出品作に間奏曲のような珠玉の名品が多い。夏が好きだという南和歌山生まれの龍子は、夏の画題が多い。秋の紅葉、日本画の伝統的なテーマは、龍子の作品には意外に少ない。その紅葉とオシドリの古典的なテーマに挑んで観客をあっと驚かせる新鮮意外な日本の美に目を見開かせたのがこの作品である。モミジの紅に染まる池面に鴛鴦の愛の契りの軌跡がくっきりと浮かび上がる。青く住んだ高い空、錦繍の秋に織りなす愛のドラマの余韻が鮮明華麗に漂うこの作品は、絵の楽しさに酔わせる。池に散るモミジの葉は真上から見た正面性の形で描く象徴の手法を活用、装飾感と写実味が見事に一体化している。最近切手になって再びその新鮮さが見直されている。]

 この解説(村瀬雅夫稿)が、最もポピュラーなものなのであろうが、これが制作された、昭和九年(一九三四)、龍子が四十九歳のときには、その前年の八年に、龍子の母(勢以)と龍子らを見捨てたような父(信吉)が他界し、その父との凄まじい葛藤にあった母(勢以)は、昭和四年(龍子、四十四歳)に他界しているのである。
 すなわち、龍子の傑作画「愛染」の二羽の鴛鴦は、決して、「モミジの紅に染まる池面に鴛鴦の愛の契りの軌跡がくっきりと浮かび上がる」というような、そんな生易しいものではなく、「壮絶にして異常な限りなく凄絶な愛憎の契りの軌跡、されど、それぞれの、一人の男としての、また、一人の女としての生き様、そのものの、存在と実存との軌跡が、モミジの紅に染まる池面に、くっきりと浮かび上がる」ような、そのような、いわゆる、密教の「愛染明王」を背景にしたようなものに思えてならないのである。
 そして、同時に、この二羽の鴛鴦は、両親(信吉・勢以)を亡くした龍子と、十二歳年下の異母弟・茅舎もまた、その両親(真吉・ゆき)を亡くしており、それぞれの肉親を亡くした、異母兄弟の二人の、これまた、その「存在と実存」との「壮絶にして異常な限りなく凄絶な愛憎の契りの軌跡」と捉えることも、これまた、十分に可能であろう。
 この龍子の「愛染」を見ていると、異母兄弟同士の、画家・龍子と俳人・茅舎の二人と、そして、それぞれの、その肉親などが、走馬燈のように駆け回るのを覚えるのである。

(追記)愛染明王

http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/aizennZ.htm

愛染という名前のとおり、愛情・情欲をつかさどり、愛欲貪染をそのまま浄菩提心(悟りの心)にかえる力をもち、煩悩即菩提を象徴した明王です。すなれち、人間にはさまざまな欲望がありますが、この欲望は人間には滅亡へとかりたてる力を持つとともに、時には生きて行くうえでの活力源となり、より多くのものを可能にし、高める力を持っています。この両刃の剣である力強い欲望の工ネルギーを、悟りを求め自らを高めようとする積極的なエネルギーに浄化しようというのが愛染明王の教えです。




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