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茅舎復活(その五)

2010-05-16 15:11:12 | 川端茅舎周辺
茅舎復活(その五)


「昭和十六年・二水夫人土筆摘図」

   日天子寒のつくしのかなしさに
   寒のつくしたづねて九十九谷かな
   寒の野のつくしをかほどつまれたり
   寒の野につくしつみますえんすがた
   蜂の子の如くに寒のつくづくし
   約束の寒の土筆を煮てください
   寒のつくし法悦は舌頭に乗り
   寒のつくしたうべて風雅菩薩かな

 「二水夫人土筆摘図」の「二水夫人」とは、茅舎が俳句の指導をしていた「あおきり句会」(第一生命相互保険会社)の会長をしていた藤原二水の夫人を指している。二水夫人と茅舎の異母兄の川端竜子の夏子夫人とは親しい関係にあり、「茅舎略年譜」には、次のとおりの記述が見られる。

[ 昭和九年(一九三四) 三七歳。五月、竜子の妻夏子の紹介で、第一生命相互保険会社の「あおきり句会」の指導を始める。十月、処女句集『川端茅舎句集』を玉藻社より刊行。]

 茅舎と異母兄の日本画家として著名な竜子(龍子)との当時の関係は、森谷香取さんの「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族」に詳しい(現在は下記のアドレスでその一部分しか目にすることはできないが、竜子関係のネット記事などでもその一端が紹介されているものが多い)。

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_04.html

そして、これらを見ていくと、茅舎と竜子の実父(寿山堂)とその長兄にあたる竜子との葛藤(竜子の実父に対する嫌悪感など)は深刻なものがあり、そういう葛藤の中で、晩年の茅舎と寿山堂とは、竜子の完全な庇護下にあって、病床にある茅舎にとって、その兄嫁(夏子)や甥(清)、そして、この二水夫人などが、真の理解者であったのであろう。
 この掲出の八句の中で、特に、六句目の、「約束の寒の土筆を煮て下さい」は、茅舎の傑作句の一つとして、今に詠み継がれている。この句についての、山本健吉の評(『現代俳句』)は次のとおりである。

[ 「二水夫人土筆摘図」と前書した「寒の野につくしつみますおんすがた」と続き、さらにもう一句「寒のつくしたうべて風雅菩薩かな」が続いている。「食事は野菜が好き」という茅舎は、ほんの小鳥の餌(え)ほどの少量で足りたらしい。とは言え美食家でなかったわけではない。寒の土筆とは贅沢な注文だ。お弟子の二水夫人の約束が忘れられなかったのであろう。食べ得ては「風雅菩薩」と打ち興じている。童心である。ただ注文の「寒の土筆」だけが、凝りに凝っている。このような食物をねだる茅舎の身体は玲瓏たる透明体のような気がする。彼は九州旅行中原鶴温泉で珍しい川茸を食べ「それを食うと身体が八面玲瓏と、透明になるような感じのするものであった」と言っている。この句棒のように一本調子だが、「約束の、寒の土筆を、煮て下さい」と呼吸切(いきぎ)れしながら、微(かす)かな声になって行くようで、読みながら思わず惹き込まれて行くような気持ちになる。いっさいの俳句らしい技巧を捨てて、病者の小さな、だが切ない執念だけが玲瓏と一句に凝ったという感じがする。 ]

(追記一) 川端茅舎と龍子

「二水夫人土筆摘図」という題名については、日本画の題名のようでもある。川端茅舎は、家族の希望で、当初、医者の道を志していたが、受験に失敗して、画家志望となり、藤島武二絵画研究所、そして、岸田劉生に師事して、洋画家になることを目指していた。  
茅舎の異母兄の龍子は、いわずと知れた、日本画の大家である。龍子は。当初、洋画家を目指していたが、アメリカ留学中に日本画に転向した。
茅舎は最後まで、洋画家になることを夢見ていたというが、兄の龍子が日本画ならば、自分は西洋画という思いもあったのかも知れない。しかし、この「二水夫人土筆摘図」の題名に見られるように、茅舎は、表面的には、極めて、日本画的な、あるいは、仏教的なニュアンスの雰囲気を有しているのであるが、その内実は、西洋画的な、極めて、聖書的なニュアンスが強い世界に関心が強かったという思いを深くする。と同時に、この川端龍子と茅舎という兄弟は、それぞれ目指す道は異なったが、「東洋的な感性と西洋的な感性とを見事に開花させて、それぞれの世界で、それぞれに一時代を画した」というを思いを深くする。

(追記二) 川端龍子

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E9%BE%8D%E5%AD%90

川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年(明治18年)6月6日 - 1966年(昭和41年)4月10日)は、大正 - 昭和期の日本画家。激しく流れる水の流れとほとばしる波しぶきによる龍子の描いた水は、巨大なエネルギーで観る者を圧倒した。昭和の動乱期、画壇を飛び出し、独自の芸術を切り開いた日本画家である。けたはずれの大画面、龍子は躍動する水の世界を描き続けた。その水は画家の心を写すかのように時代と共に色や形を変えていった。
本名は昇太郎。1885年(明治18年)和歌山県和歌山市に生まれ。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたいとこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。10歳の頃に家族とともに東京へ移転した。弟は俳人の川端茅舎(ぼうしゃ)であり、龍子自身も「ホトトギス」同人の俳人でもあった。
画家としての龍子は、当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描いていた。1913年(大正2年)に渡米し、西洋画を学び、それで身を立てようと思っていた。しかし、憧れの地アメリカで待っていたのは厳しい現実であった。日本人が描いた西洋画など誰も見向きもしない。西洋画への道に行き詰まりを感じていた。失意の中、立ち寄ったボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことが、日本画転向のきっかけで帰国後、日本画に転向した。1915年(大正4年)、平福百穂(ひゃくすい)らと「珊瑚会」を結成。同年、院展(再興日本美術院展)に初入選し、独学で日本画を習得した龍子は、4年という早さで1917年(大正6年)に近代日本画の巨匠横山大観率いる日本美術院同人となる。そして1921年(大正10年)に発表された作品『火生』は日本神話の英雄「ヤマトタケル」を描いた。赤い体を包むのは黄金の炎、命を宿したかのような動き、若き画家の野望がみなぎる、激しさに満ちた作品である。しかし、この絵が物議をかもした。当時の日本画壇では、故人が小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流であった。繊細で優美な作品が持てはやされていた。龍子の激しい色使いと筆致は、粗暴で鑑賞に耐えないといわれた。
その後、1928年(昭和3年)には院展同人を辞し、翌1929年(昭和4年)には、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して「青龍社」を旗揚げして独自の道を歩んだ。壮大な水の世界で、縦 2 メートル、横 8 メートルの大画面、鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト、激しくぶつかり合う水と水、波しぶきの動きの『鳴門』を描き、当時の常識をくつがえす型破りな作品であった。その後も大作主義を標榜し、大画面の豪放な屏風画を得意とし、大正 - 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在であった。
1931年(昭和6年)朝日文化賞受賞、1935年(昭和10年)帝国美術院会員、1937年(昭和12年)帝国芸術院会員、1941年(昭和16年)会員を辞任。
(以下・略)

(追記三) 川端茅舎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E8%8C%85%E8%88%8D

川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年8月17日 - 1941年7月17日)は、東京都日本橋蛎殻町出身の日本の俳人、画家。日本画家である川端龍子とは異母兄弟。本名は川端信一(かわばた のぶかず)。別号、遊牧の民・俵屋春光。
高浜虚子に師事し、虚子に『花鳥諷詠真骨頂漢』とまで言わしめたホトトギス・写生派の俳人。仏教用語を駆使したり、凛然とし朗々たる独特な句風は、茅舎の句を『茅舎浄土』と呼ばしめる。
1897年、東京都日本橋区蛎殻町で生まれた茅舎は、腹違いの兄である龍子とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。父は「寿山堂」という雅号を自分で持つほど、俳句や日本画や写経を好むような風流人であったと、ホトトギスの中で茅舎は述べている。そのことから、茅舎と龍子の兄弟が進むべき道に大きく父親が影響したと考えられている。
6歳になった茅舎は、1903年私立有隣代用小学校へ入れられる。無事小学校を卒業した茅舎は、1909年、獨逸学協会学校(のちの獨協中学校)へ入学。叔父と母が病院に勤める関係者であったことから、周囲から(特に父から)将来は医者になることを期待されていた。その後、第一高等学校理乙を受験するも失敗。そのころには画家として独立していた兄・龍子の後を追うように、次第に茅舎自身も画家を志すようになる。藤島武二絵画研究所で絵画の勉強を始める。
また17歳頃から、自らの俳号を「茅舎」と名乗り始め、父とともに句作するようになる。俳句雑誌『キララ』(後の『雲母』)に度々投句する。(武者小路実篤の「新しき村」の第二種会員になり、白樺派の思想に触れた茅舎は次第に西洋思想に感化されていく。それが契機で、絵画の分野で明確に西洋絵画を志すようになり、その後洋画家岸田劉生に画を師事する。京都の東福寺の正覚庵に籠もり、絵や句の制作に勤しみ、同時に仏道に参じる。自身が描いた静物画が春陽会に入選するほど絵画の腕を上げる。
しかし虚子門や脊椎カリエスや結核といった肺患に身体が蝕まれていき、師と尊崇していた劉生も死去してしまったこともあり、俳諧の道へ本格的に専念するようになる。投句を続けていた『キララ』から『ホトトギス』に専念的に投句をし始め、雑詠の巻頭を飾るまでになる。その後、高浜虚子の愛弟子となり、俳句の実力が認められ、1934年に『ホトトギス』の同人となる。また後に「あをぎり句会」の選者となる
1941年、肺患の悪化により44歳の若さで死去。現在は、龍子や他の家族とともに伊豆の修善寺に埋葬されている。
西洋的な感性と東洋的な感性で紡ぎ出された写生的な句は、花鳥諷詠を唱えた虚子に「花鳥諷詠真骨頂漢」と評価されるほどであった




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