拝啓 陸の孤島から

いいことがあってこその 笑顔じゃなくて
笑顔でいりゃいいこと あると思えたら それがいいことの 序章です

水の東西

2006年02月03日 21時34分24秒 | お仕事の話
たまにはちゃんと仕事してるんだぞ、って話を。(長いよっ!)


2年生は今日、修学旅行から帰ってきましたが、
出発する前に山崎正和の「水の東西」を扱っておりました。
このサイトに(なぜか)全文が掲載されているんですが(大丈夫か?)、

たったこれだけの文章量でさまざまなことを考えさせられるこの文章は、
やはり後世に語り継ぐべき名文であると思います。

この文章を授業で扱う場合には(かなり個人的に)補助資料がキモだと考えています。
もちろん、本文の内容も深めれば深めるほど味がでるんですけど、
「鹿おどし」からもう少し身近な部分に引っ張ってきたいなという思いもあって。


そこで、「日本人の美意識」というつながりで、
つくもは「桜」を引っ張ってくることにしています。
(もちろん、主題を矮小化する危険性は承知の上で)
この文章で語られる「流れるもの(水・時間)」「目に見えないものを求める」などは、
桜は散るからこそに美しい、という部分と相通ずると思うのです。


まず、とっかかりとして、J-POPから引用。


さくら さくら 今、咲き誇る
刹那に散りゆく運命と知って
さらば友よ 旅立ちの刻 変わらないその想いを 今

   (森山直太朗「さくら」)


めぐる木々たちだけが ふたりを見ていたの
ひとところにはとどまれないと そっと おしえながら
桜色 舞うころ 私はひとり
あなたへの想いを かみしめたまま

           (中島美嘉「桜色舞うころ」)


さくら舞い散る中に忘れた記憶と 君の声が戻ってくる
吹き止まない春の風 あの頃のままで
君が風に舞う髪かき分けた時の 淡い香り戻ってくる
二人約束した あの頃のままで

   (ケツメイシ「さくら」)


花びらのように散ってゆく事
この世界で全て受け入れてゆこう
君が僕に残したモノ
〝今〟という現実の宝物
だから僕は精一杯生きて 花になろう

        (ORANGERANGE「花」)


などを挙げて、
「これらの歌詞に共通する事柄を挙げてみ?」と振ると、
恋愛感情に拘泥した意見も見られるものの、
「散る」ことに着目した歌詞ばかりであり、
それが「別れ」や「時間の流れ」を歌っていることに気付いてくれます。


次に、少々敷居を高くして、
「徒然草」の有名な章段、「花はさかりに」をひっぱります。



徒然草(第一三七段)

 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほ哀れに情けふかし。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭など見所おほけれ。(中略)
花の散り、月の傾くを慕ふならひはさる事なれど、ことにかたくななる人ぞ、
「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などはいふめる。
 萬のことも、始終こそをかしけれ。
男女の情も、ひとへに逢ひ見るをばいふものかは。
逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契をかこち、長き夜をひとり明し、
遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとはいはめ。


(大意)
 桜の花は咲きそろったところばかりを、月はかげりもなく照り渡っているところばかりを見るものではない。
降る雨を見ながら、見えない月をなつかしみ、
すだれを垂れてひきこもっていて春が暮れて行くのも知らずにいるのも、
やはりしみじみとして情趣が深い。
今にも咲きそうな梢や、落花がしおれている庭の面こそ見所が多い。
花が散り、月が沈んでいくのを愛する気持ちはもっともなことであるが、ことに無教養な人になると、
「この枝もあの枝も花が散ってしまっているなあ。もう見どころがないや。」などという(情けないことだ)。
 全てのことは始まりと終わりが面白いのだ。
男女の恋愛も、ただいっしょになることだけを言うのではない。
会うことが途絶えてしまった苦しさを思い、無駄になってしまった約束を嘆き、長い夜をひとりで過ごして朝を迎え、
遠い空のかなたに別れて行った人を思いやり、茅の茂った荒れた家に、ともに幸福に住んだ昔の思い出にふけることにこそ、本当の恋の趣があるといえよう。


ここであまりくどくどと説明してしまうと、
「また、古文か・・・。」と、
内容よりも〝古文である〟ということにウンザリされてしまうので、
数百年前に生きた兼好法師もこんなこと言ってたんだよ、程度にとどめます。
(もちろん、クドクドと説明したい気持ちはあるんですが・・・)


そして、最後にかる~く和歌で締めます。


久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ   紀友則

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし   在原業平



古来より桜は日本人の心をそわそわさせ、
咲いた散ったで一喜一憂する特別な存在なんだよ。
そして、散ることの方に美を見いだしてるんだよ、と締めました。


そして、肝心なことだと思うんですけど、
この文章を授業するためには、
何度も何度も「日本人」という言葉を用いなければなりません。
しかし、実際には教室には外国人がいる場合もあるわけです。
(今回はいませんでしたけど)

その時に、「あ、日本人じゃない子がいるからこの文章はやめとこ。」では、
なんの進歩もないし、言葉狩りに繋がることだと思うんです。
つくもは、日本人か否かは国籍に因らないと考えています。
日本に在住することによって日本の風土・慣習を理解し、
日本人特有の美意識や思考をする者は、
国籍がアメリカだろうが韓国だろうが日本人だと考えます。
(もちろん、法的な問題等は別問題ですが)
そして、その逆も然りで、
日本国籍を有していてもこれらに反する者は日本人とは呼べないと思います。


今回は堀江くんという、絶好の「教材」が話題になっていたため、
その辺を生徒が理解するのは割と容易であったかのように思います。

生徒にとって、「日本人とは?」を考えるいい契機になったのではないでしょうか?