「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

『ゲバルトの杜』を観てきた

2024年06月17日 | 日記と読書
 映画『ゲバルトの杜』(代島治彦監督)を観てきた。以下雑駁な感想を無秩序に書いてみよう。

 川口大三郎の「鎮魂」という仄めかしが、出演者の口から数度出てくるのだが、仮に「鎮魂」がこの映画の何らかのテーマだとしたら、それは駄目だろうと思う。「鎮魂」はどれだけ慎重になろうとも、ノスタルジーを招き寄せるし、事件のご都合主義化を許してしまうからだ。「喪」はやはり失敗するものであり、その「失敗」こそ映画に現れなければならないはずだからである。しかし気になったのは、映画の中で川口が拉致され、激しいリンチでショック死するまでが、ある意味生々しく?上映されるのだが、それを見ていると、革マルの執拗なリンチに自然と素朴な「憎悪」が湧いてきてしまう。しかし、この僕の感じた「憎悪」こそが、「鎮魂」にも繋がっており、結局はこの事件をご都合主義化するのではないかと思った。この「憎悪」は逆説的に、リンチを理解可能なものとしてしまい、後に出演者たちが言う、「非暴力」の運動への正当化にも繋がっていく。

 原作?者でもある樋田毅は映画の中のインタビューで、当時は大学の中だけがセクト主義で無意味な暴力の応酬が繰り広げられ、大学の外は平和な日常があるのだから、大学内の運動もそれに準じて非暴力的であるべきだと、当時考えていたと話していた。大学内の運動の急進化と武装化が「一般学生」を離れさせたということになっているが、果たして大学の外が平和な日常だったのか。むしろ大学内の革マルと大学当局による生政治的共闘こそが、その後、管理コントロール社会のモデルとなっていたのであり、構造的には、大学の内も外も地続きだったはずである。川口のリンチへの〈鎮魂=憎悪〉と「非暴力」の運動という観念が、ここでこの生政治的支配の資本主義の構造を見えなくさせてしまっているように思う。樋田は、革マルが全国政権だったならば、機関銃でもバズーカでも持ち出して戦ったというが、革マルと大学の共闘的生政治は全国政権どころか、当時すでに資本主義的支配構造としてグローバルだったはずである。

 川口の一年後輩の吉岡由美子は、革マルが円の密集陣形になって、そこから竹竿を槍のように出して、外に向かって、恐らくウニやハリネズミのように外を威嚇してたことに「感動」しており、磁石で集まった人が「虫」のように、「万華鏡」のように見えたという。ファランクスの密集陣形のようなものだと思うが、ある意味では「戦争機械」のことでもあるだろう。吉岡はその革マルの統率力に「一般学生」は「かなわない」と思ったというが、この「戦争機械」の問題こそ、ドゥルーズ=ガタリと生政治の問題であり、革マルと大学当局の暴力と支配の問題であったと思う。この「戦争機械」の問題は掘り下げるべきだったのではないか。吉岡の抱いた「感動」の問題こそ、「鎮魂」では解釈できない「運動」の問題であろう。そういう意味では、今回の映画は、同じく早稲田の学館闘争を記録している、井土紀州監督の『LEFT ALONE』と比較すべきだとも思う。『レフト・アローン』には「非暴力」ではない、『Love マシーン』に乗って学生と踊りまくる絓秀実が映っていたはずである。そこには『Love マシーン』の「享楽」の端緒が映っていたように見える。樋田のいう「非暴力」でもない「鎮魂」でもない、運動の「享楽」の問題がある。「戦争機械」としての革マルの密集陣形とも違う「運動」の問題がそこにはあるのではないか。

 あと気になったのは、池上彰や鴻上尚史の語りが、少し「昔」を誇らしげに話していたことだ。そして学生役の俳優たちへの接し方が、かなり啓蒙的だったことだろう。俺たちが昔経験したことは、お前たちが考えている以上のことだ、というメッセージが暗に伝わって来て、これも何かを見えなくさせていると感じた。また、学生役の俳優が池上に、学生運動が現代に残している痕跡は何かと質問した時、教室の机と椅子が固定された、とバリケード防止のための措置を「軽口」というか、俳優の質問をはぐらかしをしたというべきだろうが、その池上の答えの瞬間、例えばテレビのバラエティ番組でスタッフが笑うことがあるが、あれと同じような年配の男性の声で、嘲笑とも賑やかしともいえるような笑いが一瞬入るのだが、嫌な気分になった。恐らくは、学生運動の痕跡などその程度のものだ、という意味での笑いだったのだろうが、そのような過小評価でよいのだろうか。先ほどの『レフト・アローン』との比較でいえば、西部邁が自分がトロツキストの党派にいるにもかかわらず、大学祭に来た学生の親から、トロツキーとはどういう人なのか聞かれた時、「悪魔のようなやつらしい」と応えて、友人からお前はトロツキストだぞ、とたしなめられたという話があったが、運動ってそういう「啓蒙」とは程遠い、勘違いの中で始まるものではないのだろうか。

 そういえば、映画の中で川口はリンチされている間、革マルから早稲田祭に反対しているだろうという非難をされていたが、それを見ると、前の記事でも書いた友人が、早稲田祭が中止になった時、革マルと大学当局の「共闘」で板挟みになっていたことが、思い起こされた。

 新左翼各派のヘルメットが染められている手ぬぐいを買った。つまりこういうことなのだ。

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