「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

「文フリ」なのか「文学フリマ」なのか

2024年05月23日 | 日記
 「文学フリマ東京38」に同人仲間と参加してきた。出店者としては8回目になる。前にも書いた気がするが、文フリには第一回目に立ち寄っており、第二回目も行ったと記憶している。青山ブックセンターの文フリに行こうとしていたのか、たまたま青山ブックセンターを通りかかったのかは記憶が曖昧だが、佐藤友哉がいるところは人が集まっており、あとは文化祭の展示的な雰囲気で、作品が並べてあったと記憶する。ともかく、文化祭的な空間だと僕は思って周った。それから、人生山あり谷ありで、僕は文学などにかまっていられない生活が始まってからは、文フリには行く気にならず、「ゼロアカ」等はホームページで眺めている程度で知ってはいたが、文フリを秋葉原などの会場でやっていた頃は全く知らない。そこから考えると15年近く経過してから、出店者の一人となって、東京流通センターの会場を知ることになった。そういう意味では僕の中の文フリは、東京流通センターが象徴的な場所になっている。

 wikiで来場者数を眺めて見ると、僕が初めていった頃は1000人程度で、8年前に出店した時も3500人程度だったようだ。もう少しいた気がするが、そのくらいだったのだろう。そして今年の「文学フリマ東京38」は12000人以上が来場しているようで、8年前と比べると三倍以上の来場者となっている。東京以外の開催地を見ると、大阪や京都といった大都市圏では微増しているが、そうでないところは、増えているわけではない。東京に集中しているといっていいだろう。そして今年の東京での大きな変化は、これまで無料だった入場料を1000円にしたことと、2024年の秋の「文学フリマ東京」は東京ビッグサイトでおこなうようで、より大規模化していることだ。また「文学界」のブースが出たりと、個人的あるいは小規模の出版社だけではなく、大手の出版社も文フリに参入してきているのである。このような文フリの「市場化」に対して、市場から離れて文フリに作品を出品し、同人活動にプライドを持ってやってきた人は、違和感を感じている人が少なくなく、ツイッター上でも議論が交わされているのを見ることができる。

 文フリの、しかしながら東京や大都市圏に限定されるこの「盛況」さは、他のツイッターの呟きでもあったように、これ自体が文学や大手出版社の「衰退」の兆候である、というのは、僕もそのように理解する。特に大手出版社は、ある種の「市場化」から逃れようとした同人活動の「再領土(再市場)化」をおこなおうとしているのであり、コミケでの作家の青田買いのようなことを、以前からもやっていたのであろうが、文フリでもそれに本腰を入れてきたともいえるだろう。そういう意味では、「市場」の外部の内部化という、「再領土化」が文フリで起こり始めているということになる。しかもwikiで確認する範囲、新型コロナウィルス感染症の影響で中止になったり、来場者が減った後の、急激な来場者の増加と、この「再領土化」が軌を一にしていることからも、おそらく文学や出版に限らず「コロナ禍」は公共的なインフラの解体と、資本による「再領土化」の契機になっているはずで、文学も同様にある種のインフラが壊れ、それは出版社も書店も壊されてしまい、それを「再領土化」するために、文フリに集まる人々を新たな市場と見做し始めたということなのだろう。その証拠に、大都市圏以外の文フリは東京のようにはなっていない。むしろ大都市圏以外の「地方」は書店などの文化的な施設が、解体され続けているのが現状だろう。東京への一極集中が進んでいるのである。

 僕の場合、第一回、第二回の個人的に感じた「文化祭的」な文フリを称揚するほどの思い入れや、そのイメージを確証するような十分な同人活動経験を有しているともいえず、青山ブックセンター後は文フリにはほぼ関わらず、また8年前からの東京流通センターでの文フリしか知らないわけで、「市場化」を大局的に批判するような立ち位置を取ることができない。僕自身仲間と一緒に文フリに関わったのは、まだ10年もたっていないため、文フリの歴史を語るような、あるいは文学と資本主義の問題を語ることはできないし、現時点ではするつもりもないが、ただ今年は少し気になることがあった。それは、ツイッターでの「文学フリマ事務局」の公式アカウントの呟きである。去年もあったのかどうか検証はしていないが、「「文フリ」よりも「文学フリマ」表記のほうがわかりやすく、イベントの内容がイメージしやすくなります。」というように、ハッシュタグを「文フリ」ではなく、「文学フリマ」に誘導していたことである。僕は「文フリ」という略称は好きで、いい略称だと思うのだが、公式アカウントが「公式」を指定してきたわけである。これを読んだ時、真っ先に思い出したのは、新日本プロレスがツイッター上での「プロレス芸」という発言に抗議したことである。かいつまんで言うと、「プロレス(芸)」というのは、筋書きのある戦いであったり、真剣勝負ではない、という揶揄の意味でつかわれることもあり、その揶揄に対して、新日本プロレス側が、ファンや選手を代表して、その発言に抗議したものであった。僕自身は「プロレス」という言葉は、そういう「いかがわしさ」や「芸」を含んだ意味での「芸=art=技」でもあるので、むしろ誇りであるべきだと思うのだが、昨今の企業コンプライアンスや「イメージ」の問題で看過できなかったのだと予想される。

 プロレスから「いかがわしさ」や「ストーリー」をのぞいたら一体何が残るのかと思うが、企業イメージという資本が、それをクレンジングしようとするわけである。同じように「文フリ」を公式アカウントが「文学フリマ」に誘導するのもそういう企業的なイメージ戦略と資本や市場化によるクレンジングにはならないのだろうか。僕は個人的には「文フリ」という言葉は「学」が抜けており好きで、とってつけたようなものだが「フリ」は「振り」や「フリー」、「無料」のようないかがわしさや爽快さもあり、勿論それは「フリー」を「無料」や「自由」に読みかえてしまうといういかがわしさも含めて、「文フリ」という略称が好きである。しかし、「文フリ」ではイメージが湧きづらいので「文学フリマ」にするというこのイメージの浄化は、「公式」という企業コンプライアンスとガバナンスの強化ということなのだろうか。これは文フリが「企業」になるということの端緒なのではないか。

 文フリの市場化や大規模化は、資本主義社会では起こり得ることだし実際起こっているわけだが、そこでも特に僕は、「文フリ」を「文学フリマ」と言わせたい「公式」の欲望に、資本主義の市場によるイメージや表象の管理コントロールの問題を見てしまうのである。