「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

大雪で大西巨人のことを少し考えざるを得なかった

2024年02月05日 | 日記と読書
 今日も喫茶店で読書をして帰ろうかと思ったが、雪が強くなってきているし、お目当ての店などが雪ということで早じまいをしそうな雰囲気だったので、帰ることにした。僕の住まいは都心に近いので、東京西部よりは雪が少ない傾向にある。しかし、それでも午後六時の帰り道で、すでに道路にも積もりはじめていた。ただ、雪はシャーベット状である。東京では数度しか経験したことはないが、比較的乾いた雪で30センチくらい積もった時は、皇居を探検すると面白い。誰もいないし、真っ白な森の中を歩いていると、遭難をしたような錯覚に襲われて、だんだん怖くなってくる。本当に遭難したのではないか、と思えてくる。東京の「中心」が本当に誰もいなくて、車の音も一切聞こえてこないのは大変神秘的といえる。それだけ皇居の森が広いということなのだろう。


 僕の出身地は比較的雪が降りやすく、かつ積もりやすい場所で、白くなったり数センチの積雪は普通だが、30センチくらいの積雪が冬にはめずらしくない地域だ。山側に行けば当然一メートル以上になる。よく祖父が教えてくれたのは、牡丹雪は積もらないので安心だが、乾いた粉雪が降り出すと積もる、という話だった。子供ながらに牡丹雪の方が大きいし、派手なので積もりやすいように感じるが、つもり始めは乾いた粉雪が降るという決まりである。温度とも関係があるのだろう。積もりやすい粉雪は、気温が低く地面で雪も解けにくい環境で降る雪ということなのだろう。しかしここ数年、あまり東京の都市部では乾いた雪が降らなくなったように思う。いまもどちらかというとシャーベット状だ。手でまとめて玉にしようとしてもまとまらない乾いた雪が懐かしいが、寒い地域に行かないとお目に掛かれないのかもしれない。

 そういえば最近、ドラマになった漫画の原作者が、恐らく自殺であろうという形で亡くなったことがニュースになっていた。その中で原作者と出版社、そして制作したテレビ局の関係が注目されている。この問題は、どのような契約でドラマ化をしたのかという、法的な問題も関係しているように思う。Twitterの呟きで、テレビの取材を受けた人がことごとくいうのが、テレビ局側は取材する人を尊重しないし、取材で述べた意見を都合よく局側の制作意図に捻じ曲げていく(編集してしまう)ということである。そういうのを見ていると、テレビ局側のコミュニケーション不足や、制作側の傲慢な態度が関係してる可能性は高いのかもしれない。ともあれ、どういう契約で原作者はドラマ化を許諾したのかなどは、「外野」から見ているだけではわからないので、詮索しても仕方がないところがある。ただ、話し合いをちゃんとすべきだったのだろうとは思う。

 今回の個別的な事象についてはとやかく言っても仕方がないが、この一件を見ながら、小説家の大西巨人の話を思い出していた。大西には日本近代文学の傑作中の傑作という『神聖喜劇』という小説があるが、この小説は演劇にもなり、漫画にもなり、シナリオの脚本となり、映画化も話題に挙がるような作品であった。ただ『神聖喜劇』を読んだ人ならばわかると思うが、ある場面を二時間の映画にするならばともかく、小説全体を映像作品にするのはかなり難しいのではないかと思う。荒井晴彦の『シナリオ神聖喜劇』は、「一応」、映画のためのシナリオということになっているが、それでもまだ4分の1の分量にしなければ映画には出来ないという量になっている。 のぞゑのぶひさと岩田和博の漫画版『神聖喜劇』もとてもよくできているが、漫画にしてはセリフの量が昨今の新書と引けをとらない。そういう意味でも、小説『神聖喜劇』をドラマにしようとすれば、今のNHK大河ドラマでやるしかないと思う。そういう意味ではNHKにお願いしたのは、大河ドラマで『神聖喜劇』をぜひやってほしいということである。当然、安直なポリティカル・コレクトネスを突き破る形で。

 なぜ大西巨人の話をしたかというと、僕が生前の大西の講演会に行った時に、「大西さんの小説が映像になるということをどうお考えですか?」という対談者の質問に大西本人は、難しいとは思うが、やれるならやっていただきたい、と。そして、映画化なりドラマ化なり漫画化なりが行われる場合、もうそれはまったく小説とは別個の作品になるのだから、私からその作品に対して何か注文を付けることはない、と答えていたからだ。大西は『神聖喜劇』が「翻訳」されることで生み出される映像化やほかのメディアでの上演を、「別」のもの、全く別の形態への変化なのだから、小説の形式からとやかく言うことはないと主張しており、僕は大西が作品(『神聖喜劇』)を自分の所有物としてではなく、「構造」から唯物的に把握しているのだなと理解した。文学理論には「作者の死」や「作品からテクストへ」という形で、作品は作者に属しているのではなく、それは一つの構造でありテクスト(織物)であって、作者という存在も、その構造の一部分の「効果」に過ぎない、と言われている。大西の発言は、この立場をより実践の観点から述べたものだなとも思った。簡単に「作者の死」や「テクスト」などといっても、作品の所有欲は作者だけではなく、その読者も共有しており、その所有欲に屈することが多々ある。だが、その講演会での大西は、『神聖喜劇』の映像化があるとすればそれはもう全くの別の作品だから、自分の支配の及ぶものではないと平然と言っていたが、それを聴きながら僕は、とはいうものの大西のようにはなかなか言えるものではないだろうな、と思った。まあそして何よりも、大西は、『神聖喜劇』を何かのメディア作品に翻案できるものならしてみなさい、という自信があったのだろう。それは、そのような作品を作り得たものだけが持てる自信なのかもしれない。

 作品とその所有権(者)は、法的に結び付けられているものなので、一概には言えない部分が多いが、しかし作品の所有者は作者なのか、読者なのか、という問題は本当は錯綜しており、議論の余地があるものだと思う。そしてある時期、そういう作品の私的所有を考え直し、唯物論的にそこに切断を入れようとした思考が文学理論としてあったことも事実だ。作品の生産形態、所有形態には、作者や読者の「感情」では考えることができない理論の側面があるはずなのだが、ネットで議論するのは、難しいのだろう……