「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

「幻の『叛軍』シリーズ一挙フィルム上映」に行って来た

2024年02月03日 | 日記
 昼過ぎまで仕事であったが、仕事後にアテネフランセ文化センターでおこなわれた、「映画一揆外伝 ~破れかぶれの映画史~ 岩佐寿弥 幻の『叛軍』シリーズ一挙フィルム上映」に行って来た。アテネフランセは学生の頃フランス語と英語を習いに行っていたので、数年通った思い出がある。フランス語は「もの」にはならなかったが、そこで出会った人からは、神田のいろいろな場所を教わった。上京して大学に通い始めてまず訪ねたのは、新宿とこのあたりである。それはそうと、岩佐寿弥監督の『叛軍』の「No.1」・「No.2」・「No.3」・「No.4」が一挙上映されるという貴重な機会を逃すまいと、久々のアテネフランセ。到着した時には、階段に行列がすでにできていた。

 さて、『叛軍』を一挙に見たのだが、「No.1~3」は発見されたフィルムが、国立フィルムセンターの修復で見られるようになったということで、今回フィルムセンターの外で上映されたようだ。「No.1~3」は、1970年当時航空自衛隊の隊員であった小西誠が、自衛隊員でありながら学生運動と呼応する形でおこなった「反戦」活動(叛軍)が、自衛隊法第64条違反(煽動罪)に抵触するということで起訴され、その裁判が新潟地方裁判所でおこなわれるところが、ドキュメンタリーとして撮影されていた。「No.1~3」で約60分という上映時間で、最初は小西の裁判をドキュメンタリーとして追い、次にはそこに演出として劇団の行進が付け加わり、映画スタッフも学生たちと共に、撮影機材と録音機材をもっての裁判所への突入を計り、職員ともめながらも議論するという展開であった。そして、「No.3」では、小西に加えて九州から「叛軍」に加わろうとする自衛隊員がやってきて、どこかの大学の講堂で、制服のままサングラスをかけて「叛軍」活動を説き、ヘルメット姿の学生たちも声を上げて賛同する、という話の流れであった。僕は、その九州から来たという自衛官がやたらキャラ立ちしており、サングラスで突如現れた謎の自衛官という感じで、胡散臭さも感じたのだが、まあこの時代胡散臭い時代だろうということで自分を納得させた。ただ、映画上映後の高橋洋(脚本家・映画監督)、千浦僚(映画文筆)のトークでも、あの九州からのいわくありげな自衛官は、「本物」でしょうか、という議論があり、『叛軍』の撮影時期的に「東大全共闘」と「三島由紀夫」の討論の直後ということもあり、岩佐監督が、全共闘と三島の討論に触発されて入れた演出の可能性はぬぐい切れない、という話をしていた。

 なぜこのようなフィクションや演出の話になるのか、僕は映画をほとんど見ないから、ある意味『叛軍』の予備知識が全くない状態で見たので幸運だといえそうなのだが、ここにこだわる理由は、「No.4」が「フェイクドキュメンタリー」であるという所にある。「No.4」は100分ほどの上映時間で、この「No.4」がこれまで一般的に知られてきた『叛軍』という作品である。見始めると、これまたキャラ立ちしたメガネの40男が、とある大学の大講堂で、ヘルメット姿の学生を前に、旧軍時代の「叛軍」経験を語るというもので、朴訥な語り口で、50分以上語り続ける。最初その男は山田二等兵といい、1944年恋人のために戦争で生き残るためには、戦闘行為をしなくてもいいように、「きちがい」と思われる行動をしなければならないと決意し、軍隊内で反戦を主張し、共産主義者を自称し、天皇は寄生虫なので廃絶しなければならないというビラをまき、それが握りつぶされそうになると、公然とそれを声高に叫んだという。そのせいで山田二等兵は憲兵に逮捕され、治安維持法違反と不敬罪に問われるのだが、この事実をよしとはしない体制(軍)は、その「きちがい」の行動を「きちがい」とはせず、窃盗罪で逮捕し、普通刑務所に懲役に行かせる形で何事もなかったかのように軍隊から排除する、という行動に出た。それによって結果的に山田二等兵は戦闘行為からは免除されて敗戦を迎え生き残るわけだが、そこから26年間、山田二等兵は「叛軍」とは何だったのか、自分のとった行動は一体何だったのかを考え続けることで生きてきたと告白し、「叛軍」を考えること自体が人生であったと講堂で話す。山田二等兵の演説で印象に残ったのは、自分の「叛軍」の経験が、時間の経過とともに自分の創り出したフィクションによって浸食されて変質してしまうという問題を語りながら、同時に「事実」もまた「叛軍」経験を侵食し変質させてしまうというものだ。「事実」もまた「叛軍」の経験の真理を覆い隠してしまうという意識である。「フィクション」と「事実」の不分明地滞がここには現れる。

 「No.4」の前半はそういう形なのだが、後半は場面が変わり、その山田二等兵が実は俳優の和田周の役柄であって、実在の人物ではないということが種明かしされる。なーんだやはり、講演の台詞が朴訥としていながらもしっかりしすぎており、また先ほどの九州からやってきたサングラスの自衛官と同じように、その「山田二等兵」もサングラスをかけてやたらキャラ立ちしていたので、俳優の演技だったのは納得はできたが、先ほども言ったように僕は『叛軍』シリーズ自体を知ったのが今回が初めてだったので、実は結構びっくりしたわけである。そして「山田二等兵」こと和田周と最首悟が酒を飲みながら「叛軍」とは何かを、かなり激しく議論するという展開になる。最首が「叛軍」を語る時、自分は「反戦」から出発し、しかし連合赤軍にまで行くことは肯定するという。反戦のために連合赤軍に行きつくことを肯定しながらも、銃を持った瞬間やはり厭戦として銃を捨てる。そしてまた「反戦」は連合赤軍に行きつき、武器を手にしたとたんそれを行使するのではなく、武器を捨てるという「反戦」に逆戻りするという永劫回帰が最首のいう「叛軍」だという。少し酔っていた最首が自分の「叛軍」観を披歴した後、酒を飲まない素面の和田周に、多少酔っぱらいながら結構ウザがらみ的に「叛軍」とは何かを追求していく。

 和田周は答えあぐねながら「逃げる」ことだという。「叛軍」とは「逃げる」ことであると。和田は自分の俳優論と重ねながら、俳優とは何かのキャラクターを演じてはいるが、ではそのキャラクターを演じている「私」は実体かというと、そうではなく、「私」を演じる「私」である。しかし、その「私」の演じる「私」も廃棄されて、そこには実体は何も残らない。そういう状況を「逃げる」と呼び、それこそが「叛軍」の原動力であるという。最首は納得していなかったが(ただ「逃げる」こと自体は肯定していた)、論法的にはわかる。68年的な現代思想とつなげて考えても、シニフィアンの連鎖や代補、逃走線など、和田の言っていることはむしろよく理解できると思うが、そういう現代からのメタ視点でなくとも、和田のいうある種の浪曼主義的?な「逃げる」ことの「叛軍」は、時代をよく反映していると思った。映画の最後で、和田は画面を向きながら、ずっと「私」を演じる「私」も実体ではなく、それ自体が廃棄されて「私」はなくなるという言葉をつぶやき続けて映画は終わるのであるが(後から知ったのだが、この呟き自体は和田のものではなく、「S」という実際に「叛軍」を旧軍でおこなった実在の人物のものらしい。確かに皇居を背景に和田こと山田二等兵が雨の中傘を差して立っているところのナレーションは「朝鮮人」という言葉も入っており、山田二等兵のプロフィールともずれていて、おかしいなと疑問に感じていたのも、こういうわけであったのだ)、やはり自称・桐島聡、「うーやん」の「逃走」を思い出さざるを得なかった。桐島のあの微笑を湛えた写真と「うーやん」の間の亀裂は、まさに和田の言っていることだろう。彼の逃走は、「叛軍」といえるのではないか。

 「No.1~4」を通しで見ることで作品全体の構造的には、「1~3」までのドキュメンタリーには演出が入っており、上記のようにすでにキャラ立ちした自衛官というフィクションが入っている可能性が高いとはいうものの、しかしながら小西誠の「叛軍」裁判というドキュメンタリー作品にはなっており、反対に「4」が山田二等兵の「叛軍」という「フェイクドキュメンタリー」という虚構の構造になっているのがわかる。つまり「1~3」がドキュメンタリーというパレルゴン(「額縁」)を構成しており、「4」のフィクションを囲っているということだ。ジャック・デリダが『絵画における真理』で示したように、「1~3」が「額縁」の働きをして、「4」を作品たらしめたといえると思う。ただ、ここでデリダの分析を思い出さなくてはいけないは、その「額縁」である所のパレルゴンは、作品の「外」ともいえるし「内」ともいえる存在だ。パレルゴンは作品を囲う境界という意味では外部だが、作品を構成しているという意味では作品の構成要素としての内部といえる。ということは「1~3」は「額縁」という「4」の外部で、「4」の作品の成立条件でありながら、ドキュメンタリーとしての「1~3」の作品は、作品の内部として「4」のメタフィクションから、フィクションの汚染を被ってもいるということだろう。そういう意味では、「1~3」の作品も純粋なドキュメンタリーとは決して言えない。こういう関係性が理解できるのも、初めてこの作品を知った僕が、「1~4」を通してみられたのは幸運だったのだろう。

 それはそうと、「叛軍」による軍隊への抵抗運動という設定は、上映後のトークでも、大西巨人の『神聖喜劇』と野間宏の『真空地帯』がモデルの候補として挙げられていた。ただ、僕も上映中、山田二等兵と東堂太郎二等兵を比べないわけではなかったが、抵抗の仕方は「違う」と思った。