「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

大丈夫だよという君の言葉が、一番大丈夫じゃない

2023年12月05日 | 日記
 今日の昼食は職場近くのラーメン屋さんに入って味噌ラーメンを食べていたのであるが、最近そのラーメン屋では90年代の楽曲がよくかかっている。店長・店員の世代的な趣味か好みかはわからないが、My Little LoverやZARDの曲が流れていて、懐かしいなと思って聴いていると、『君に逢いたくなったら・・・』が流れて来て、「大丈夫だよという君の言葉が、一番大丈夫じゃない」という歌詞が不意に耳に入って印象に残り、本当にその通りだと思い笑ってしまい、ニヤニヤとラーメンをすすっていたので、変な奴だと思われたかもしれない。僕は歌謡曲(「歌謡曲」という言葉を調べたらWikiで「昭和」の歌となっているが本当か?)を評するほど音楽に詳しくないが、歌詞の中にあるこういう部分に「真理」があると思っている。例えば、2000年代初期に宇多田ヒカルが『COLORS』の中でも「いいじゃないか」とアクセントを付けて歌う歌詞があったが、カラオケではその部分をデリダ的な「赦し」の意味に捉えて歌っていた(これは僕だけではなく、周りの友人たちもそう歌っていたと思う。恐らく時代的雰囲気だろう。)。存在してしまったものは、例えそれが不本意なものであったり、敵対的なものであったとしても、最終的には「いいじゃないか」と「赦す」しかないよなという、もちろんこれはギャグの類ではあるのだが、曲と歌詞の本来の文脈を外しながら、しかし曲の時代的ポエジーは維持しつつ、おそらく本歌取り的な「意味」の組み換えがそこに発生しており、その組み換えの亀裂から何らかの「意味」や「力」は発生していたと思う。前にも山本陽子の詩について書いた時にもいったが、やはり歌謡曲や詩というのは人に〈軽率〉な気持ちを起こさせて、「いっちょやってみるか」という気分にするものだと思う。そういう〈軽率〉さを人に起こさせるためには、やはりポエジーと言葉の組み合わせ、それは即ち言葉を曲の本来の文脈から外れさせ、別の「意味」を纏わせる〈組み換え=軽率〉さが必要だ。その〈軽率〉さをカントのいう、そしてハイデガーのいった「構想力」と言い換えてもいいだろう。要は、それは「構想力」としての〈dichten=詩作=捏造=でたらめ〉の次元による「意味」の変容というべきか。

 とにかくラーメンを食べながら、「大丈夫だよという君の言葉が、一番大丈夫じゃない」という言葉を麺と共に噛みしめ、ニヤニヤを噛み殺し、思索していた。まあノスタルジーに浸っていたといえるかもしれない。そして、最後までこの曲を聴き終わった時、この歌謡曲は何か〈枯れた〉というか、あるいはこの歌詞の〈ヘタレ〉たというか、〈ダサさ〉が押し寄せてきた。これは必ずしも否定的な意味ではない。これこそがポエジーであり、文脈の組み換え可能性を担保しているものだ。これがなければ、曲と歌詞を本来の文脈から外すことは難しいし、外したとしても〈軽率〉な感じが出ない。この〈軽率〉さこそがこの時代にポエジーとして「意味」を持つのだ。勿論、この〈軽率〉さは90年代特有のものと言っているのではなく、今の時代でも今の時代の〈軽率〉さがあるだろう。この〈軽率〉さを見出し、「いっちょやってみるか」と思わせるのはなかなか難しい。この組み換えは、理性的なものではなく、啓蒙的なものでもない意味で、〈知的〉な作業だからだ。

【読書メモ】
アンリ・ベルクソン『記憶理論の歴史――コレージュ・ド・フランス講義 1903-1904年度』( 藤田尚志、平井靖史、天野恵美理、岡嶋隆佑、木山裕登訳、書肆心水)
フィリップ・ラクー=ラバルト、ジャン=リュック・ナンシー『文学的絶対: ドイツ・ロマン主義の文学理論』(柿並良佑、大久保歩、加藤健司訳、法政大学出版局)

あと忘れてはいません、読んでいないわけではありません、『失われた時を求めて』は第四巻が読み終わる所です。そして『In Stahlgewittern』も読んでいます。大丈夫です。