浅田彰の『構造と力 記号論を越えて』(中公文庫)を買った。これはネットで話題になっており、しかも従来文庫化されることはないのではないか、と考えられていたようで、せっかく文庫化したのだから買ってみようということになった。恥ずかしながら浅田の著書を買ったのは初めてである。勿論雑誌掲載の論文やエッセイなどにはいくつか目を通したこともあるし、座談会なども読んだことはあった。しかしながら、浅田の「著書」という意味では全く読んだこともなかったし、ほとんど書店の立ち読みでも開いた記憶もない。かなり昔、Twitterで「浅田彰を全く読んだことがない」とつぶやいたところ、複数の既知のアカウントから、意外だといわれ、恐らくそれくらいは読んでおけよという意味も含まれていただろうが、そして、今(その当時)読んでみての感想を教えてほしいというコメントを頂いたのであるが、結局その時も読まず、今日に至るまで十年以上の時間を経てしまっている。
別に何か意地になって読まなかったわけではなく、たまたま読まないままであったのだ。だが「ポストモダン」という言葉には多少の反発はあったように思う。僕の学生の時は自分の学部ではほとんど哲学や文学に関わる講義がなく、一般教養でも、中世の哲学しかなかった。そのため、他学部にモグリで聴きに行ったのだが、その頃は「ポストモダン」を哲学とか「(フランス)現代思想」という形ではなく、記号論とかテクスト論とか、文学研究に近い形で話されているのを聞くこととなった。これは僕の主観的な判断であるが、それらのモグリに行った講義において記号論などを聴く中で、その教師たちの「語り口」に反発を感じていたのは事実かもしれない。教師が、今でも覚えているのだが、「アンパンのように、言葉の中心部に意味があるわけではない。言葉には表面や内部というものはない」という、今思えば苦労して教師は例えてくれていたのだろうが、その頃プラトンの著作にはまって、イデアを信奉していた僕は、「真の意味」がないとはなんと軽薄な教えだ、と講義を聴きながら憤慨していた。しかも何を偉そうに「真の意味」などないといっているのだ。あるいは、「作家」と「作品」には必然的な繋がりはなく、「作品」とは〈テクスト=意味を生み出すコードの織物〉だと聞いて、その頃夏目漱石と、江藤淳の『漱石とその時代』を生半可に齧って、しかも漱石と江藤の批評(あくまで『漱石とその時代』のみ)を信奉していた僕は、作家と作品に関連がないとはなんという不遜極まりない態度だろう。お前に漱石の苦しみがわかるはずがない、という反発心を持っていたことも、事実である。
ただ、幸運?というべきかどういうべきかはわからないが、僕は学生時代に一般化され始めていたインターネットで、「ポストモダン」を含め哲学書(特にフランス現代思想)を読む集まりに参加しており、そこでデリダや、ドゥルーズ=ガタリ、クリステヴァ、ラカンの著作に触れる機会があった。そのサイトにはおそらく、確認したことはないが、今では専門家になって教鞭をとっている人もいるのではないか、と思うくらいレベルが高かったように思う。そこに参加して、僕は管を巻いていたという方がいいかもしれないが、理屈だけは話していた。そのサイトでよく出会う人から著作を勧められて、『グラマトロジーについて』とロラン・バルトの一連の著作を読むようになった。そこにはバルトとデリダの研究者の卵が来ており、僕らに「指導」してくれていたのだ。その方々の名前も、今何をしているかもわからないが、「恩師」ということになろう。その影響もあって、『グラマトロジーについて』やバルトの一連の著作を読む中で、どうもモグリで聴いた、あの主観的には高圧的でエリート主義的に聞こえた教員の語る「ポストモダン」の内容に対して、デリダやバルトの著作をそのまま読むと、「話が違う」という印象が拭い去れなくなってきたのである。そこで、モグリで聴いた「ポストモダン」的な、「原因は結果から遡行されて構築される」(錯時性)などの高圧的、エリート主義的啓蒙に対する反発心がメラメラと燃え上がり始め、デリダやバルトの方が明らかにそのような啓蒙よりも「複雑」でアイロニカルな内容を含んでいるし、面白い。そこで昨今(当時)言われている「ポストモダン」なる軽薄極まりない高圧的な啓蒙は嘘であろうという信念のもと、漱石と江藤の批評に心酔し、プラトンのイデア主義者として、「真のポストモダン」のイデアを考えるべきだという、倒錯かつ不合理(見当違いともいう)な方向に進み始めた。
おそらくそのような学生時代の「見当違い」の中で『構造と力』を忌避したのではないかと思う。確かに『構造と力』を読んだかという偉そうな先輩たちに反発したのも、そういう啓蒙の欺瞞をそこに嗅ぎ取っていたのかもしれない。とりあえず、「序に代えて」と「Ⅰ」章を読んだだけなので、まだ何かを言える段階ではないが、浅田は僕が嫌悪していた「啓蒙」に対する批判をしているのはわかった。そういう意味では「ポストモダン」批判だったのだな、と今は思う。僕の学生当時周りの人が〈浅田=ポストモダン〉であり、偉そうに講釈を垂れてきたのに反発する前に、読んでおいた方がよかったのかもしれない。ただ、確かに僕のいう意味での単純な啓蒙性はないが、2020年代に読んでしまうと、啓蒙批判という啓蒙性は脱していないのではないか、などとは考えてしまう。「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という全く読んだことのない僕でも知っている、人口に膾炙した「セリフ」も、〈何か〉を回避して忌避している「賢さ」を感じてしまう。例えそれがアイロニカルな形で、そのような「賢さ」を馬鹿にしている書物だとしても、である。外山恒一が、浅田や東浩紀や宮台真司のいう「全共闘以後」の認識がおかしい、と批判することとも少し関係している気がする。
さて、とはいうものの、わずかこれだけ読んだだけでも、昨今Twitterで語られている啓蒙主義的批評論や、批評を2020年代において「整理」しようというツイート、確かにTwitterで判断しては駄目だといわれそうだが、それでもそこで書かれている批評に対する呟きは、既に浅田がスマートにやってしまっているのだから、もうやらなくていいのではないか、という気持ちにさせられた。「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という言葉の変奏だけが、ずっと批評では語り続けられているように思う。まあそれも時代の文脈の変化によって変奏させる意味はあるのかもしれないが、結局浅田の二番煎じであり、もっと言うとそれを悪くした害悪になりかねない。単純に批評的な講釈を高圧的に語り、エリート的な居直りを再生産することになりかねないからだ。何でも知っている浅田なら許されるだろうし、『構造と力』くらい啓蒙を商品として、そして商品を笑った本ならば、そのアイロニーはわかるが、このアイロニーなき時代の批評への俯瞰的位置取りというのは、単純に「知っている」というそれ自体が無知な居直りだけだろう。そういうことを気づかせてくれたという意味では、『構造と力』を文庫化して読んだのは良かったのかもしれない。読み終わったら『逃走論』も読んでみたいと思う。ともかく「なーんだ」と思わされた次第だが、僕がこれまで面白いなと思った批評家は、この浅田的啓蒙を不可避なものと見つつも、きちんとここから距離をとった人なんだろうなと思う。その距離の取り方は、たぶん、無様でも仕方ないので、ちゃんと小説やテクストを読もう、とした人なんだと思う。
読書記録もつけておこう。『ディルタイ全集2』が読み終わった。「草稿」であるので完結はしていないが、ディルタイの思考の痕跡は辿れた。やはり、「心理」(=意識)の「論理学」の追及で、自然科学と精神科学の差異をそこから考えていくのが面白い。そして注目すべきは、この「心理」の「論理学」は「歴史」の「論理学」でもあるという点だ。「心理」に歴史性を、そして解釈学的「論理性」を付与したものとして、後にハイデガーの〈存在=歴史〉の「論理学」に繋がっていくであろう一端を垣間見ることができる。そして興味深いのは、ディルタイは「心理」に注目するので、この「心理」は超越論的地平や存在におけるフッサールやハイデガーと違って、自然科学との結びつきが表面に現れて来るのである。今で言うなら「脳科学」的なものとの接合になるのだろうが、このせいで今の視点で見てしまうと、疑似科学的というか胡散臭いなという所が感じられなくもない。勿論、「心理」と「歴史」の「論理学」は、カントのいう主観性(=心理)の構造でもあるので、この主観性と自然科学との関係を考えれば、繋がらないわけではないので、ディルタイは慎重かつ大胆に考えてはいると思う。
『失われた時を求めて』は第五巻を進行中。外山の本も『最低ですか!』を読み終わり、『さよなら、ブルーハーツ』を読み進めている。「涼宮ハルヒシリーズ」も読んでいる。
別に何か意地になって読まなかったわけではなく、たまたま読まないままであったのだ。だが「ポストモダン」という言葉には多少の反発はあったように思う。僕の学生の時は自分の学部ではほとんど哲学や文学に関わる講義がなく、一般教養でも、中世の哲学しかなかった。そのため、他学部にモグリで聴きに行ったのだが、その頃は「ポストモダン」を哲学とか「(フランス)現代思想」という形ではなく、記号論とかテクスト論とか、文学研究に近い形で話されているのを聞くこととなった。これは僕の主観的な判断であるが、それらのモグリに行った講義において記号論などを聴く中で、その教師たちの「語り口」に反発を感じていたのは事実かもしれない。教師が、今でも覚えているのだが、「アンパンのように、言葉の中心部に意味があるわけではない。言葉には表面や内部というものはない」という、今思えば苦労して教師は例えてくれていたのだろうが、その頃プラトンの著作にはまって、イデアを信奉していた僕は、「真の意味」がないとはなんと軽薄な教えだ、と講義を聴きながら憤慨していた。しかも何を偉そうに「真の意味」などないといっているのだ。あるいは、「作家」と「作品」には必然的な繋がりはなく、「作品」とは〈テクスト=意味を生み出すコードの織物〉だと聞いて、その頃夏目漱石と、江藤淳の『漱石とその時代』を生半可に齧って、しかも漱石と江藤の批評(あくまで『漱石とその時代』のみ)を信奉していた僕は、作家と作品に関連がないとはなんという不遜極まりない態度だろう。お前に漱石の苦しみがわかるはずがない、という反発心を持っていたことも、事実である。
ただ、幸運?というべきかどういうべきかはわからないが、僕は学生時代に一般化され始めていたインターネットで、「ポストモダン」を含め哲学書(特にフランス現代思想)を読む集まりに参加しており、そこでデリダや、ドゥルーズ=ガタリ、クリステヴァ、ラカンの著作に触れる機会があった。そのサイトにはおそらく、確認したことはないが、今では専門家になって教鞭をとっている人もいるのではないか、と思うくらいレベルが高かったように思う。そこに参加して、僕は管を巻いていたという方がいいかもしれないが、理屈だけは話していた。そのサイトでよく出会う人から著作を勧められて、『グラマトロジーについて』とロラン・バルトの一連の著作を読むようになった。そこにはバルトとデリダの研究者の卵が来ており、僕らに「指導」してくれていたのだ。その方々の名前も、今何をしているかもわからないが、「恩師」ということになろう。その影響もあって、『グラマトロジーについて』やバルトの一連の著作を読む中で、どうもモグリで聴いた、あの主観的には高圧的でエリート主義的に聞こえた教員の語る「ポストモダン」の内容に対して、デリダやバルトの著作をそのまま読むと、「話が違う」という印象が拭い去れなくなってきたのである。そこで、モグリで聴いた「ポストモダン」的な、「原因は結果から遡行されて構築される」(錯時性)などの高圧的、エリート主義的啓蒙に対する反発心がメラメラと燃え上がり始め、デリダやバルトの方が明らかにそのような啓蒙よりも「複雑」でアイロニカルな内容を含んでいるし、面白い。そこで昨今(当時)言われている「ポストモダン」なる軽薄極まりない高圧的な啓蒙は嘘であろうという信念のもと、漱石と江藤の批評に心酔し、プラトンのイデア主義者として、「真のポストモダン」のイデアを考えるべきだという、倒錯かつ不合理(見当違いともいう)な方向に進み始めた。
おそらくそのような学生時代の「見当違い」の中で『構造と力』を忌避したのではないかと思う。確かに『構造と力』を読んだかという偉そうな先輩たちに反発したのも、そういう啓蒙の欺瞞をそこに嗅ぎ取っていたのかもしれない。とりあえず、「序に代えて」と「Ⅰ」章を読んだだけなので、まだ何かを言える段階ではないが、浅田は僕が嫌悪していた「啓蒙」に対する批判をしているのはわかった。そういう意味では「ポストモダン」批判だったのだな、と今は思う。僕の学生当時周りの人が〈浅田=ポストモダン〉であり、偉そうに講釈を垂れてきたのに反発する前に、読んでおいた方がよかったのかもしれない。ただ、確かに僕のいう意味での単純な啓蒙性はないが、2020年代に読んでしまうと、啓蒙批判という啓蒙性は脱していないのではないか、などとは考えてしまう。「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という全く読んだことのない僕でも知っている、人口に膾炙した「セリフ」も、〈何か〉を回避して忌避している「賢さ」を感じてしまう。例えそれがアイロニカルな形で、そのような「賢さ」を馬鹿にしている書物だとしても、である。外山恒一が、浅田や東浩紀や宮台真司のいう「全共闘以後」の認識がおかしい、と批判することとも少し関係している気がする。
さて、とはいうものの、わずかこれだけ読んだだけでも、昨今Twitterで語られている啓蒙主義的批評論や、批評を2020年代において「整理」しようというツイート、確かにTwitterで判断しては駄目だといわれそうだが、それでもそこで書かれている批評に対する呟きは、既に浅田がスマートにやってしまっているのだから、もうやらなくていいのではないか、という気持ちにさせられた。「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という言葉の変奏だけが、ずっと批評では語り続けられているように思う。まあそれも時代の文脈の変化によって変奏させる意味はあるのかもしれないが、結局浅田の二番煎じであり、もっと言うとそれを悪くした害悪になりかねない。単純に批評的な講釈を高圧的に語り、エリート的な居直りを再生産することになりかねないからだ。何でも知っている浅田なら許されるだろうし、『構造と力』くらい啓蒙を商品として、そして商品を笑った本ならば、そのアイロニーはわかるが、このアイロニーなき時代の批評への俯瞰的位置取りというのは、単純に「知っている」というそれ自体が無知な居直りだけだろう。そういうことを気づかせてくれたという意味では、『構造と力』を文庫化して読んだのは良かったのかもしれない。読み終わったら『逃走論』も読んでみたいと思う。ともかく「なーんだ」と思わされた次第だが、僕がこれまで面白いなと思った批評家は、この浅田的啓蒙を不可避なものと見つつも、きちんとここから距離をとった人なんだろうなと思う。その距離の取り方は、たぶん、無様でも仕方ないので、ちゃんと小説やテクストを読もう、とした人なんだと思う。
読書記録もつけておこう。『ディルタイ全集2』が読み終わった。「草稿」であるので完結はしていないが、ディルタイの思考の痕跡は辿れた。やはり、「心理」(=意識)の「論理学」の追及で、自然科学と精神科学の差異をそこから考えていくのが面白い。そして注目すべきは、この「心理」の「論理学」は「歴史」の「論理学」でもあるという点だ。「心理」に歴史性を、そして解釈学的「論理性」を付与したものとして、後にハイデガーの〈存在=歴史〉の「論理学」に繋がっていくであろう一端を垣間見ることができる。そして興味深いのは、ディルタイは「心理」に注目するので、この「心理」は超越論的地平や存在におけるフッサールやハイデガーと違って、自然科学との結びつきが表面に現れて来るのである。今で言うなら「脳科学」的なものとの接合になるのだろうが、このせいで今の視点で見てしまうと、疑似科学的というか胡散臭いなという所が感じられなくもない。勿論、「心理」と「歴史」の「論理学」は、カントのいう主観性(=心理)の構造でもあるので、この主観性と自然科学との関係を考えれば、繋がらないわけではないので、ディルタイは慎重かつ大胆に考えてはいると思う。
『失われた時を求めて』は第五巻を進行中。外山の本も『最低ですか!』を読み終わり、『さよなら、ブルーハーツ』を読み進めている。「涼宮ハルヒシリーズ」も読んでいる。