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姫路城英語ガイドのひとりごと

姫路城英語ボランティアガイドでの出来事や姫路城のあれこれを綴ります。

「東大柱と西大柱の形が違うのはなぜ?」訂正

2024年03月26日 | 作事


以前、と言ってもずいぶん前ですが、「東大柱と西大柱の形が違うのはなぜ?」←タップしてください。
という記事で、三左衛門は大胆な推理をしました。すなわち「東大柱はもともと丸いからそのままで、西大柱は取り替えたことが直ぐ分かるように四角に加工した」

ところが、先日、元姫路城シルバー観光ガイドで、現在関西城郭研究会会長の森喜一さんからこんな資料を頂き、考え直すことにしました。以下引用します。

柱形状が東大柱は〇で、西大柱は▢であるのは!
三階で東西両大柱を見比べると、東大柱は丸柱であるのに西大柱は角柱である。
なぜでしょうか。
・東大柱は一本の通し柱でほぼ素材の形状のまま使われているので丸柱に近い
形状は理解できる。
西大柱は二本継ぎで三階に接手部がある。上下柱が素材のままでは接手部で
下部材と上部材の太さが大きく異なるので、それを同一寸法に調整する必要が
ある。そのために角柱に削り出し接手部を加工したことと想定される。
・旧西大柱も同様に接手部以上を角柱に加工しているので、あるいは単に新西
大柱も旧西大柱の組手部形状に倣ったものなのか。
・姫路城の建築物の柱はすべて角柱である。それ故東大柱の円柱(素材のまま
の形状)が特異と言える。東大柱の最頂部はかなり細く、これを角柱に加工する
と最頂部の平面積が65%(真円ならば)に減少してしまう。これでは荷重に耐え
られないと考えたのでしょうか。
<参考>東大柱の最上部は約50cm×約35cmの楕円形、西大柱の最上部は56cm×44cmの長方形
以上引用終わり

なるほどと思いました。西の大柱の下部は岐阜県の国有林から切り出されたヒノキ、上部は兵庫県神崎郡市川町笠形神社のヒノキで大天守3階でつないであります。だから、「下部材と上部材の太さが大きく異なる」のは明らかであり、下部材と上部材をつなぎやすくするため角柱にして同一寸法に加工したのだと思われます。それに加えて接続のための技術的な種々の問題のために角柱にしたと推理されます。

「姫路城の建築物の柱はすべて角柱である。それ故東大柱の円柱(素材のままの形状)が特異と言える。」
うかつでした。姫路城の建物内では円柱の梁も数多くあるので柱が東大柱を除いてすべて角柱だという事に思い至りませんでした。700回も登城していて恥ずかしい限りです。ということで、前回の記事は訂正します。「菱の門の名前の由来」に引き続き、今回も森喜一さんから助言を頂きました。深く感謝申し上げます。また、他にも三左衛門の推理は無理があると指摘してくださった方もいらっしゃいます。合わせてお礼申し上げます。


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「菱の門」名前の由来の訂正

2021年09月26日 | 作事

前回、「菱の門」の名前は築城前にあった「菱川」がその由来であると書きました。ところが、前回のブログに対して姫路城シルバーガイド(日本語ガイド)OBで県立歴史博物館ボランティアガイドでもある森喜一さんからするどい指摘を受けました。以下は森さんから頂いたメールです。

・この件は『姫路城史』で著者の橋本政次氏が否定しています。『姫路城史』下巻553ページにその記述があります。

・「菱門」を「菱川」と読み間違ったということです。門と川はくずし字ではよく似ています。

・以前に読み間違った絵図を見たことがありますが、確かに菱門と書かれていると判断しました。

・全く奥行きのない谷間に川があったとは考えられませんよね!

・以上から私は橋本説が正しいと考えています。

森喜一さん、ご指摘ありがとうございました。

上の写真はVEGAの事務所にある「吉田正久文庫」です。そして、真ん中にどんとあるのが姫路城史(上中下3巻)です。三左衛門が旧約聖書と呼んでいる本です。ちなみに下の段は姫路市史第14巻。新約聖書と呼んでいます。三左衛門は姫路市史第14巻は読みましたが、恥ずかしながら姫路城史はまだ手を付けておりません。姫路城英語ボランティアガイド三左衛門はまだまだ未熟です😰

これは姫路城史に書かれている箇所です。

ということで、「菱川」がその名前の由来であることは誤りでした。謹んでお詫びして訂正いたします。

でも、菱紋がついているから菱の門になったかどうかは定かではありません。姫路城には植物に由来した門がいくつかあります。桜門、桐一門、桐二門、菊門。だから、菱の門と名前をつけてから菱紋を取り付けたのかもしれません。まあ、いずれにせよ大した問題ではありませんが…

 

 

 

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「菱の門」の名前の由来

2021年08月17日 | 作事

菱の門は三左衛門が一番好きな門です。じっくりガイドするとあっという間に1時間経ってしまいます。

菱の門その1

菱の門その2

菱の門その3-背面攻撃

3回も記事にしているのにまたまた菱の門ネタです(^^;) そのきっかけはある日本語ガイドさんの説明でした。

「柱の上にヒシの花のマークが付いているので菱の門と言われています」

えっヒシの花?三左衛門はずっとヒシの葉と説明していました。マークというのは下の木彫りの紋のことです。

下の写真は英語ガイド仲間の松山さんからお借りしました。

姫路市教育委員会発行の「世界遺産姫路城 公式ガイドブック」によると「2本の鏡柱上部の冠木に大きな木彫りの菱紋がついているのでその名がある」とあります。さらに、沼田頼輔著「日本紋章学」によると「菱紋は斜方形に象れるものにして、これを菱といふは、その形の茎葉に似たるが故に名付けられたものにして・・」「而してその発達も斜方形のものより始まりて、後に写実的の菱葉に移り、・・」だから、ヒシの花よりも葉の方が近しいと思いますがどうでしょう?

正直に言いますと、三左衛門はしっかりとした根拠もなくこの菱紋をヒシの葉と思い込んでいました。でも、英語ガイド仲間に大正15年発刊のこの本を教えてもらい再確認することが出来ました(VEGAのメンバーは博識が高い…)

ところが、菱の門の新しい案内板にはなんと「菱の門の名称は、鏡柱上部の冠木に木製の花菱が飾られていることに由来します・・」と書かれています。「花菱」は菱紋の一種で、まさしく花です。しかしながら「花菱」は菱形の文様を四分してそれを四弁の花に見立てたものであって、必ずしもヒシの花というわけではありません。花菱という文様なんですね。案内板の英文は the wooden flower emblems と書かれています。

ところで、今は亡き英語ガイドの大先輩にはこう教えてもらった事があります。「菱の門は近くにヒシがたくさん生えていたので菱の門と名付けられた。菱紋は後から付けられた紋であり、元からあったものではない」けれど、三左衛門はその話に疑問を感じていました。どこにもそんな話は書かれていないし、ヒシが生えているのならそのあたりは湿地でなければならないし・・

そこで気になり調べてみました。すると、こんな文献がありました。

「姫路城案内」(昭和9年、史蹟姫路城管理事務所)

そのなかで、「門の名は築城以前この邊に菱川があった、それから起つて居ります。」という一文を見つけました。なんと菱川という川があったようです。そこで更に調べると、この菱川を見つけました。下の古地図をご覧ください。

「姫路誌」(大正元年、姫路市役所)

下の古地図の所に菱川という文字が見えます。そう菱の門辺りですね。ということは、築城以前に菱川があり、築城後も菱川の痕跡が残っていたのでしょう。

以上、二つの文献より菱の門は「菱川」がその名前の由来であると考えられます。木彫りの菱紋もしくは花菱紋が取り付けられているからその名が付いたわけではなさそうです。でも、でも、これは三左衛門のひとりごとです。信用してはダメですよ。

それにしても、大先輩が教えてくれた「菱の門は近くにヒシがたくさん生えていたので菱の門と名付けられた。」という話は門の近くに川があったという事を考えると、当たらずとも遠からずですね。インターネットがない時代によく研究されていたと今更思い、己の不勉強さを反省するばかりです。

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城門の秘密2

2021年02月11日 | 作事

以前、「城門の秘密」で門の下にある横木(蹴放し)の事を説明しました。

 

この横木は敵兵をつまずかせるためではなく、門を閉じた時、扉の下に棒を入れられ門扉を外されないように門の下に木を渡しているのです。この説明を通常「ろの門」でするのですが、天守から降りてきて帰る途中にこんな質問をする外国人がいます。「この門には横木が無い。なぜ?」

よく見ていますね。こんな質問をされると嬉しくなります。実はこの門にも横木があったのです。

ほら外した跡があるでしょう?ではなぜ外したのでしょうか?実は車が通れるようにしてあるのです。天守から菱の門に戻る現在の観光コースは「下道」と呼ばれていますが、下道にある門はすべて横木がありません。したがって菱の門から天守まで車で行けます。緊急車両や工事車両を通すためなのでしょうね。

それでは、元々の横木はどうしたのでしょうか?

なんとこんな所に置いてありました。

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木造高層建築用スプリンクラーシステム「六葉釘隠し」

2020年03月15日 | 作事
姫路城大天守にはこの様な装飾物がたくさんあります。
 
 
そう、ご存知「六葉釘隠し」です。
城内の説明文には「長押等に出ている釘の頭部を隠す装飾。6枚の葉をデザインしていて、
葉と葉との間に猪目と呼ばれるハート型の隙間ができます。」とあります。
では、どんな釘を隠しているかご存知ですか?
 
 
 
 
これは先日まで特別公開された太鼓櫓内部の長押に打ち込まれた釘の頭部です。
 
 
 
上の写真は東小天守最上階、下は乾小天守最上階で見つけた釘頭部です。
どちらも特別公開時に撮影しました。
この様な無粋な釘頭部を隠す装飾物が六葉釘隠しです。
これらの釘頭部を見つけた時、三左衛門はまたまた首をひねってしまいました。小天守には釘隠しがない!
大天守には釘隠しがあるのに、なぜ小天守には釘隠しが無いのだろうか?
そこで、昭和の大修理で活躍された元文部技官 西村吉一さんにその理由を尋ねてみました。
すると一言。 「小天守と大天守では材が違う」
なるほど、大天守の材木は巨大でそれ故そこに使われている釘は小天守の釘よりずっと大きい。そんな大きな釘の頭部を出したままではあまりにも無粋です。だから、それを隠すための釘隠しなんでしょう。
その後、西村さんは三左衛門にこう訊きました。
「化粧櫓には釘隠しがあるか?」
「ありますよ。」
「あるやろ。それは格式が高いということや。」
なるほど!化粧櫓は小天守より格式が高いのだ。
 
 
 
これが化粧櫓の釘隠し。金色で本多家の家紋が彫り込まれています。
大天守最上階の釘隠しもこの様に金色。
 
 
緑青が出ていますが、元々は金色です。言うまでもなく、大天守最上階が1番格式が高いからです。
ではこちらはどうでしょう?これは先日特別公開された帯の櫓の内部です。
 
 
釘隠しが見えますか?黒色ですね。こんな所に格式の差がわかります。
 
六葉釘隠しといえば、姫路城外国語ガイド協会(VEGA)の英語ガイド仲間3人からこんな話を教えてもらいました。
 
 
 
 
Hさんの説明によるとハート型をしたこの部分は「猪目」と呼ばれ、猪の目を表しており「火除け」の意味が込められているそうです。調べてみると、
だから、釘隠しだけでなく、懸魚等にも使われています。詳しくは上のリンク先を参照してください。
 
また、Kさんから漢字の「水」は六角形になるので、六葉は防火の意味があると教えてもらいました。なるほど、六葉は水の字によく似ています。
 
そして、極め付けはSさんの話です。
六葉の中心部は菊の模様(菊座)がありますが、その中心部の突起物はなんと樽の栓を表しているらしいです。そう、醤油樽や酒樽に付いている栓です。
下の写真をご覧下さい。
これは西山醤油樽店さんのホームページから拝借した醤油樽の写真です。
 
 
下の栓を抜くと醤油が出てきます。
それと同じ様に釘隠しの栓を抜くとそこから水がドバッと出てくるイメージです。
 
以上、三点から「六葉釘隠し」は釘頭部を隠す装飾物であると同時に火除けの意
味が込められているのが分かります。
そこで、Sさんは六葉釘隠しをこう名付けました。
「慶長の日本人が考えた究極の木造高層建築用スプリンクラーシステム」
ちょっと大袈裟?でも、大天守内で眺めていると釘隠しの樽栓から水が勢いよく流れてくるイメージが湧いてきます。
 
 
 
 
六葉釘隠しがスプリンクラーなら、火事の時水を吐くと言われている「鯱」は差し詰め屋外消火栓でしょうか?
 
 
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天守の勝手口その3ー姫路城謎の隠し部屋ー

2019年09月24日 | 作事
先日、テレビで「姫路城の謎の隠し部屋」として乾小天守最上階が紹介されていました。2月に特別公開しているので、少々大袈裟と思いましたが、普通に考えると広々とした格子のない窓、そして、その窓の一部は火灯窓。防御性が貧弱な小天守は不思議な部屋と言えるかもしれません。







三左衛門はこう考えています。乾小天守最上階は城主、池田輝政とその家族が初期に籠城する部屋。
輝政の正妻は将軍徳川家康の次女、督姫。籠城と言えども、不粋な部屋に閉じ込めるわけにはいきません。火灯窓が付いた格式の高い乾小天守が相応しい。それに乾小天守は台所櫓と意外なほど近いのです。



これは乾小天守と東小天守を結ぶロの渡櫓にある扉で、この扉は台所櫓につながっています。だから、台所櫓で調理した食事はたやすく乾小天守へ運ぶ事が出来ます。一方、食事を大天守の最上階へ運ぶとすれば、重たい二重扉を開き地下から階段を上がっていかなければなりません。乾小天守の方がずっと便利です。
更に乾小天守は以前ご紹介した厠にも近いのです。




但し、厠へ行くには一旦外へ出なければなりません。小天守出入口と厠の位置関係は次の写真をご覧ください。



ところで、この写真はなかなか撮れません。と言うのはこの場所はいつも大変混雑しており、しかも暗くかつ広角レンズでないと撮れないからです。そこで、著名な城郭写真家の岡泰行氏にご無理を言って写真をお借りしました。岡泰行氏は有名な城郭サイト「お城めぐりFAN」の管理者で姫路城の記載も大変充実しております。姫路城天守内部の説明でこれ程詳しいのものを三左衛門は知りません。姫路城天守のサイトはこちらから。
一読をお勧めします。

さて、上の写真の右側階段が小天守の出入口、左側の扉が厠の入口です。




厠へ行くには小天守の出入口から外へ出なければならないのですが、その扉は木製の引き戸、女性でも簡単に開けられます。まるで、勝手口の様です。
以前、『漆喰土扉どころかこれではまるで「勝手口」ではありませんか!』と書きましたが、訂正します。この出入口はまさしく勝手口です。乾小天守から厠へ或いはちょっと外へ行きたい時にこの勝手口を使うつもりだったのではないでしょうか。

もちろん、敵が近づいて来ると輝政と督姫達は大天守へ移動する計画だったと思われます。そして、勝手口から誰もいなくなった小天守に進入した敵を大天守から建物ごと攻撃する作戦だった、と三左衛門は推理しています。
やっぱり考えすぎでしょうか?
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天守の勝手口その2ー天守攻防戦ー

2019年09月09日 | 作事
前回の続きです。攻城側 は「勝手口」のような簡素な扉を破壊し、そこから西小天守と乾小天守を結ぶハの渡櫓へ突入します。そして、西小天守か乾小天守へ向かうのですが、残念な事に西小天守は公開されたことがないため、その進路は見当がつきません。そこで、乾小天守に向かうと仮定します。





こんな感じで攻城側は突き進むと思われます。
その間、防城側はどうするか?当然、大天守から小天守、渡櫓へ向けて攻撃します。





正面が台所櫓でその背面が乾小天守です。左側の大天守格子窓や隠し狭間から小天守、渡櫓へ鉄砲等で攻撃します。



渡櫓から大天守を見るとこんな感じです。大天守の格子窓がこちらを向いています。ところが、大天守に向いた渡櫓や小天守の窓は貧弱な木製の格子で、銃弾で破壊されてしまいそうな防備です。



格子窓はこちらをクリックして下さい。

こちらもどうぞ

「武者窓」と表記していますが、「格子窓」が正しいですm(_ _)m

渡櫓、小天守の内側の窓は木製の格子ですが、外側に向いた窓はご覧の様に頑丈な格子窓です。



つまり、渡櫓、小天守は外側からの攻撃には強いが、大天守からの攻撃には弱いという事です。さらに、小天守入口は勝手口のような扉ですが、中へ入るといくつも頑丈な木製の扉があり、その都度そこでダムの様にせき止められ、大天守からの攻撃を受けてしまいます。

そこで、三左衛門はこう考えました。小天守へ入る勝手口のような貧弱な木製扉は「いの門」や「ろの門」の様な敵をおびき寄せる入口であり、一旦中へ入ると建物ごと攻撃してしまう作戦ではないか!
この推理を西村吉一さんに話したところ、「それは考えすぎや」と一笑に付されました。一生懸命に考えたのに・・・
と言うことで、さらなる推理を!それは次回のお楽しみ。

<おまけ>
西の丸百間廊下の格子には鉄板が貼ってありますが、天守の格子には鉄板がないそうです。「百間廊下の格子は磁石がひっつくが、天守の格子は磁石がひっつかない」と冬の特別公開で一緒に定点ガイドをした日本語ボランティアガイドの人に教えてもらいました。





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天守の勝手口

2019年08月18日 | 作事
大天守への入口は4箇所あります。それぞれの入口の扉は二重扉で外側は防火用の漆喰を塗り込めた土扉、内側はくろがね造りの堅牢な板扉となっています。







上の写真は靴脱ぎ場から大天守地下へ入る入口です。漆喰の土壁が防火シャッターの役割をはたしているのがよく分かります。








これは東小天守へつながるイの渡櫓からの入口です。
同じような漆喰土扉と鉄張りの板扉の二重扉になっています。





こちらは地下の「流し」横にある扉です。
台所櫓からの入口ですが、普段は閉じられたままなので外側の状態は見ることが出来ません。
実はこのようになっています。




萩原一義編著「城郭建築の至宝 姫路城」より


さて、問題は大天守1階から「二の渡櫓」そして西小天守へつながる入口です。




こちらも通常閉じられていますので、外側が全く分かりません。写真も捜しましたが見つかりませんでした。そこで、昭和の大修理で活躍された元文部技官 西村吉一さんにお尋ねしたところ工事報告書の写真を見せて頂きました。すると、予想通り写真の板扉には鉄板が貼ってあり、その外側は漆喰土扉でした。
この様に大天守入口は防火仕様かつ堅固な造りになっています。

ところが、不思議なことに小天守の入口は極めて貧弱な造りです。
次の図をご覧ください(大天守入口周辺は実に複雑な構造になっていますが、都合上簡略化しています)




現在の天守群出口が小天守のへの入口です。





内側から見ると




どうですか?漆喰土扉どころかこれではまるで「勝手口」ではありませんか!
ある時期天守への入口と出口が反対になったことがありました。現在の出口から天守へ入って行ったのですが、三左衛門はその時大変な違和感を感じました。なんだこの扉は?敵兵を迎え撃つという感じでは全くない。ところが、この扉に関する質問は外国人からも日本人のお城マニアからも受けたことがありません。でも、不思議だと思いませんか?
そこで、三左衛門はある推理をしてみました。その推理は次回で。













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特別公開

2019年02月17日 | 作事
姫路城冬の特別公開で英語定点ガイドをしてきました。
この特別公開は姫路城外国語ガイド協会(VEGA)も協力していて、ろノ渡櫓付近で外国人に英語で案内します。三左衛門の当番の時は残念な事に西洋人は3組6名だけでした。しかもその内2組5人はVEGAのガイド仲間が案内しており私の出番はありません。そして、残りの1人は英語ができませんでした(^^;;
外国人に対する宣伝が足りないのかな?ちなみに、説明文の英訳もVEGA が協力しています。

約10年ぶりになる今回の特別公開は乾小天守最上階から見える大天守が1番のウリだと思います。
三左衛門が初めてそこから大天守を見た時は、あまりの素晴らしさ立ちすくんだのを忘れもしません。



もう一つのウリは「ロの渡櫓」の床板でしょう。
手斧で削った400年前の板がズラリと並んでいます。



ところが、三左衛門が渡櫓で立っていて、1番印象深かった日本人の反応は
「あの釘のようなものは火縄銃の火縄や火薬、弾薬を吊るためのものだったのか!」



「これはやっぱり鉄砲や槍を置いておくものだったのか」





という多くの人の声でした。

そうこんな風に展示すれば分かりやすく、天守の中は空っぽでつまらないと言われないとあらためて実感し、大天守もこうすれ良いのにと思わざる得ませんでした。
なお、姫路城大天守の内部は城郭ホームページでは秀逸の「お城めぐりFAN」

上記のページに詳しいです。これほど詳しい資料は無いといって良いぐらいでしょう。

それにしても、年間1番の閑散期にこれ程お客さんが登城し、そして、300円の特別料金を払って小天守群に入城されるとは思ってもみませんでした。おそるべし姫路城。
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姫路城天守はカラッポ?

2018年11月23日 | 作事
トリップアドバイザーの英語版を読むと姫路城が5点満点で4.5の評価がされていました。
まあまあかなと思っていると、なんと「とても悪い」”Terrible” という評価が少なからずありました。
“退屈。中は何にも無い”
“外観はきれいだけど、中は見る物がない。”
“お金を払う価値が無い”等々厳しい意見がありました。

でも、この感想は必ずしも誤りではないと思います。三左衛門がお城に興味がまだ無い時、彦根城へ行っても天守の中は何にも無くて拍子抜けした記憶があります。けれど、今ではこれが隠し狭間か、煙出しはどこだ、石落としがないとか当時はカラッポに見えた内部も見るところが一杯あります。基本的な知識があるのと無いのでは当たり前ですが見るところが大きく違います。

天守を見る時の一番基本的なこととは何でしょうか?
そう、天守は信長以外誰も住んだことがないという事です。天守は権威の象徴でありかつ戦の時の最後の砦なんです。住むところではないので家具なんか置いていません。はっきり言ってしまえば、平和時は大きな倉庫なんです。だから、中はカラッポなのは当たり前です。三左衛門は繰り返しこの事を説明します。





ご覧のように姫路城天守の内部は巨大な梁がむき出しで、天井がはっていません。天井がはっていないのは大抵倉庫とか物置きです。このことからでも天守は居住性が低いことが分かります。では、最上階はなぜ天井がはってあるのでしょうか?よく見ると壁の仕様も全然違う。



ほら、見る所がたくさんあるでしょう?
日本人観光客が長押の上にある釘のような物をじっと見て「あれは何なんだろう」と話しているのをよく聞きます。



そんな時はあれは火縄銃の火縄や弾薬袋を釣っていた釘で竹で出来ています。だから緊急時には火縄を引っ張って竹を折り火縄を掴んだのですよと説明してあげます。



これは武具掛け。火縄銃や槍をかけていました。その上には火縄や弾薬袋を引っ掛けていたフックの様な物も見えます。姫路城は有識者の助言?命令?で飾り付けをせず、素のままを見てもらうように主眼を置いているらしいです。しかし、説明がなければ全然わからない。まして、欧州からの観光客は自国の城と重ね合わせるから家具や調度品のない城は退屈でしょう。模型の火縄銃や槍を武具掛けに飾り、火縄や火薬袋を竹釘から釣っていたら理解しやすいのにとつい愚痴が出てしまいます。元々倉庫なんだから鎧、兜を保管している状態を見せれば良いのにと思いませんか?
素のままを見せている姫路城において外国語ガイドの役目は本当に大切だと自負していますが、ガイドがいなくても日本城郭が理解出来る姫路城であって欲しいと思います。ちなみに、西の丸百間廊下には説明パネルがたくさんありますが、残念なことにそこを訪れる観光客は少ないです。

おまけ(^^)
これは大天守にある煙出しです。平時は雨や鳥が入らないように漆喰で塗り固めていますが、いざの時はそこを破って火縄銃の煙を出すようにします。





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たかが厠、されど厠その2

2018年09月09日 | 作事
随分前に「厠」について書きました。
その続きです。現存天守で厠、つまり便所があるのは姫路城だけです。では、姫路城天守群には何ヶ所の厠があるかご存知ですか?正解は3ヶ所です。それではどこにあるかご存知ですか?



ここは看板があるので大天守地下に入るとすぐ分かります。時々特別公開されます。

二つ目は1階に上がる階段の横にあります。



三つ目、これは難しい。もし、ご存知ならあなたは相当な姫路城通です。

実は大天守ではなく、ハの渡櫓の出入り口横にあります。つまり、天守見学ルートの出口横です。





石垣の所に厠の入り口が見えます。

さて、ここで問題です。西の丸百間廊下・長局はどこに厠があるのでしょうか?
実は無いのです。多分。
長局は侍女の居住空間と言われていますが、トイレ無くして生活ができるのでしょうか?
昼間は御殿の中、もしくは御殿の近くに厠がありそこを使ったのでしょう。けれど、夜は照明器具が無いし、出入り口の数も少ない百間廊下から外へ出てトイレに行くのは怖くかつ難行苦行だと思われます。本当に長局で侍女は寝起きしていたのでしょうか?それとも樋箱のようなポータブルトイレを利用していたのでしょうか?不思議でなりません。

但し、籠城戦の時、西の守りを固めるため、武士がそこで寝泊まりするのを想定していたとすれば厠が無くても合点がいきます。さてさていかがなものでしょうか?
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不思議な出格子窓の石落とし

2018年04月23日 | 作事
姫路城大天守には大きな出格子窓があります。矢印のところです。



その出格子窓には大きな石落としがあります。



ここから石を落としたり、鉄砲を打ちます。でも、上の写真をよく見てください。石落としの下には屋根があります。だから、石を落としても下の屋根に当たって攻撃側には当たりません。これっておかしいですよね(^^;;

実は仕掛けがあるのです。下の写真をみてください。



ほら屋根に穴が開いているでしょう。そこから石が落とされたり、鉄砲で攻撃されたりするのです。出格子窓の下には屋根があり、さらに左右の石落としからは遠いから、出格子窓の下は安全と思った攻撃側はひどい目にあうという仕掛けです。これって結構外国人に受けるネタです。それにしても恐るべし姫路城。
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菱の門その3 ー背面攻撃ー

2017年06月11日 | 作事
菱の門は池田時代の華麗な正門です。でも、それは平時のことであり、防城戦に於いては一見ひ弱に見えるこの門が実は重要な役目を果たします。



菱の門の大きな扉を打ち破った攻城側は次に目の前にある「いの門」を突破しようとします。しかしながら、菱の門は大きな扉を打ち破られただけで攻撃された後でも櫓門として残っている筈です。しかも、この門の2階へ入る入口は1階からではなく西の丸から入るのです。下の絵は菱の門を裏側から見たところです。



「城郭建築の至宝 姫路城」 萩原一義編著 より



従って、菱の門を突破したと思った直後、西の丸から多数の兵士が菱の門の2階に入り背面から攻城側を攻撃するのです。菱の門の裏側を見て下さい。



城内側にもかかわらず、窓の格子が漆喰を塗り籠めてあります。
白漆喰の格子はこちらをどうぞ。
窓の違いはこちらをどうぞ。

姫路城最強の「ぬの門」でさえ裏側(城内側)の窓は白漆喰ではありません。



だから、菱の門は背面攻撃を意識した門だと三左衛門は推理しています。
さらに、最初の写真で分かるように三国壕があるため、攻城側は兵を散開させることが出来なく固まって「いの門」に向かうことになります。すると、西の丸の土塀の狭間から側面攻撃(横矢)を受けることになります。そして、菱の門から背面攻撃!挟み撃ちなんです。

平時は御殿への正門。そして、戦時は背面攻撃の重要な門というのが三左衛門の考えです。
ただし、本多時代以降は「桐の一門」が御殿への正門だったと思います。






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菱の門その2

2017年05月05日 | 作事
菱の門は豪華で優雅な門ではありますが、守りの備えも抜かりがありません。



手前には高麗門はありませんが、ご覧のように通路を屈折させた枡形となっています。
門の前の石垣と土塀(この写真からは見えませんが)が効果的です。
優雅な格子窓や華頭窓も漆喰を塗られた雨戸を開くと鉄砲を撃つ窓になります。
また、頭上には塵(ちり)落としと言われる石落としがあります。
ちょっと見にくいですが、金網の部分です。鳥が入ってこないように今は金網で塞いでいるのかもしれません。



それでもなお「ぬの門」に比べると三左衛門にはひ弱に感じます。
こちらは珍しい2重の櫓門で、上からも下からも攻撃できます。さらに扉は鉄板で覆われ姫路城最強の門と言っていいでしょう。
ちなみに、現存する2重の櫓門は姫路城の「ぬの門」と「水五門」だけです。



「菱の門」はご覧のように防御が薄い様に思われますが、だったら「菱の門」の役目は何なのでしょうか?
ヒントは菱の門特別公開にありました。
今回の特別公開では外側から向かって左側の部屋(門番所)に入る事ができました。



入った正面の壁がなんと石垣です。



注目はその左側の窓です。



反対側から見ると



特別公開の看板にあるようにこの部屋は門番所です。
この窓から通行人をチェックするのです。
「菱の門」は平時にはこのように閉じられ、脇戸から通行するようになっていたと思われます。



反対側から見ると



私達お城好きは門や櫓を見ると、ついついどのような防御の仕組みになっているのかと考えてしまいますが、門本来の役目を考えると、通行人のチェックなんですね。御殿へ出入りする人を確認していたのです。もちろん城主や客人も通ったでしょう。その時は大きな扉が開かれたかもしれません。防御は薄いかもしれませんが、格式の高い「菱の門」は御殿の正門なのです。
なんと単純な結論!前回の最初に「これは姫路城の正門と言うべき……」と書いてあるではないかと言うツッコミが聞こえてきそうです(^^;
でも、今回門番がどのように登城者をチェックしていたのか推測ができて、三左衛門は大きな収穫だったと思っていますし、これからは堂々と Main Gate と説明できるようになりました。

ところが、「菱の門」はまだ他の役割があります。それは次回。Don't miss it

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菱の門その1

2017年04月23日 | 作事


これは姫路城の正門と言うべき菱の門です。三左衛門はパリの凱旋門と違ってシンメトリーではないこの門が大好きです。



正月にはこの門だけ写真のような正月飾りが付けられます。
そして、ガイドブックには必ず木製の花菱、黒漆、飾金具付きの格子窓、華頭窓、白漆喰の庇付き出格子窓の説明があり、
桃山時代の優雅で豪華な雰囲気を醸し出してあると書かれてあります。
姫路城は白漆喰総塗籠で、土蔵のような造りです。にもかかわらず、
この門の壁をよく見ると柱や貫、そして長押などの形が見てとれます。
天守や櫓の壁を見て下さい。柱の形は分からないでしょう。防火のため厚く、厚く壁を塗ってあるのです。
天守も同じです。
但し、大天守最上階だけは菱の門と同じ作りです。この写真は乾小天守最上階から撮った写真ですが、大天守最上階の壁をよく見て下さい。柱や長押の形が分かるでしょう。



ご存じのように大天守最上階は他の階と違って天井が張ってあったり、釘隠しの色が金色だったりで御殿風に作ってあります。だから、姫路城にあっては大天守が一番格式が高く、その次は菱の門だと言われています。

でも、なんかおかしいと三左衛門はずっと思っていました。菱の門は単に見せるための門なのか?
それが特別公開でその謎が解けたような気がしました。それは次回で。お楽しみに。
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