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姫路城英語ガイドのひとりごと

姫路城英語ボランティアガイドでの出来事や姫路城のあれこれを綴ります。

姫路城に家紋の謎

2011年09月19日 | 家紋
本日、地元神戸新聞に"姫路城に家紋の謎 「平成の大修理」で発見"というタイトルの姫路城ファンにとって大変興味深い記事が載っていました。全文を引用したいと思います。

http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/0004480195.shtml

「平成の大修理」で工事用建屋(素屋根)に覆われた姫路城大天守で、最上層北側の軒下にある家紋が、研究者の議論を呼んでいる。南側の家紋は城主・酒井家の常紋だが、この紋が何なのか分からないからだ。これまで望遠鏡でも使わないと観察できなかった場所が間近に見られるようになり、姫路城の新たな謎が見つかり始めた。(坂本 勝)

 半世紀ぶりの大修理で、鉄骨の足場から観察できるようになった。家紋は最上層北側の軒唐破風の下にある「蟇股」という場所にある。「昭和の大修理」(1956~64年)前の写真記録にも残っていたが、何の紋かは分かっていない。

 姫路市立城郭研究室の工藤茂博学芸員は、酒井家の別紋「沢瀉」ではないかと推測する。江戸時代の同家の記録「姫陽秘鑑」に、常紋の「剣酸漿草」とともに記されており、「古来は常紋とも申し伝え候」などのただし書きもあった。

 工藤学芸員によると、安永年間の1770年代後半、落雷のため大天守を修理したとの記録があり、酒井家時代のこの時期に、常紋と別紋が飾られた可能性があるという。

 大天守東側にある県立歴史博物館の堀田浩之学芸員は「紋の形からすると、雪をかたどった巌敷き雪の方が似ている」と指摘する。「日本家紋総鑑」(角川書店)に載っている巌敷き雪は北側の紋にそっくり。だが、姫路城に使われる理由は分からないという。

 堀田学芸員は「望遠鏡か、すす払いの際に見るしかなかった紋が、間近で見られるようになった。工事が進むにつれ、姫路城についての謎が、まだまだ現れるのでは」と話している。



大天守北側の紋



池田家の別紋「沢瀉」



巌敷き雪



大天守南側の剣酸漿草

少し解説をしたいと思います。
大天守南側の剣酸漿草というのは矢印の部分です。



この個所にはその当時の城主の家紋が付けられていたと言われています。姫路城最後の城主は
酒井家だから当然酒井家の剣酸漿(けんかたばみ)の紋が型どられています。さて問題は北側です。



当然南側と同じ剣酸漿(けんかたばみ)だと思っていましたが、姫山原生林のため望遠レンズを使っても確認するのは容易ではありませんでした。けれど、今回の修理用建屋のおかげで間近で見る事ができたのです。そして、判ったのは不思議な紋。といっても三左衛門が見たわけではありません。神戸新聞の記者が写真を撮ったのですが
そのおかげでまたまた宿題ができました。

さて、最後におまけです。
大天守南側、2重目の唐破風の蟇股にも丸い意匠があります。



ここにはどんな紋があるかご存じですか?
実はここには紋がありません。
なんと丸いままでなんの紋もありません。不思議です。

コメント (4)
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酒井家玉垣

2011年07月03日 | 家紋
先日、鳥取県にある三徳山三佛寺投入堂に行って来ました。標高470メートルの集塊岩と溶岩との境に生じた、洞窟の中に建っているのですが、よくあんな所に建てたなと思いました。



その後、下りる途中で本堂の横でこんな石碑を見つけました。





読めるでしょうか?「金百圓 侯爵 池田家」とあります。
池田家は光政の時に姫路から鳥取に移っています。侯爵ですからもちろん明治以降のものでしょうが、本堂横にちゃんと残っています。かたや姫路城最後の城主酒井家の玉垣が意外なところにわびしく建っています。見つけたのは姫路城近くにある播磨国総社 射楯兵主神社の境内です。



姫路御城鎮護の文字が見えます。もともと姫山にあった刑部(長壁)神社を総社に移したのですから、そう名乗ってもいいでしょう。もっとも以前はこんな木札はありませんでしたが・・





これは本殿に向かう参道ですが、酒井家の玉垣は矢印の方向にあります。



矢印の玉垣が酒井家のものです。





「一金壹封 酒井伯爵家」の文字が読めます。実は、この並びの少し離れた所に同じ玉垣があります。
けれど、鳥取池田家と比べてこの酒井家の扱いはひどいと思いませんか?姫路御城鎮護を豪語する神社とはとても思えません。何かの都合でこうなってしまったのかもしれませんが、あまりにもひどすぎます。三左衛門は偶然この玉垣を見つけたのですが、すぐ隣に建っている総社御門の立派な玉垣と見比べて哀れに思ってしまいました。
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姫路城家紋瓦

2011年04月10日 | 家紋
前回の続きです。
姫路市立城郭研究室の別の学芸員の方がこうおっしゃいました。
「瓦は消耗品です。だから、築城以来頻繁に取り替えられている。その結果、昭和の大修理以前は天守にもいろんな家紋瓦があった。もちろん手元にあった古い家紋の瓦も利用していたはず。それを昭和の大修理の時、揚羽と桐紋に整理したのです。」



その時、思わず小膝を叩いてしまいました。
実は以前、西の丸の揚羽でこんな記事を書いたことがあります。
http://blog.goo.ne.jp/sanzaemon01/e/75e3f3d817c667b5a23dad946f307676

西の丸長局に本来ならばありえない揚羽の家紋瓦があったという記事です。



でも、瓦は消耗品で、古い瓦も使ったとすれば西の丸に揚羽があったとしてもなんら不思議ではないです。今回大天守で立ち葵を見つけたと学芸員の方も言われていました。

>昭和の大修理もええ加減なところがあるもんです。
大変失礼な事を書いてしまいました。お詫び申し上げます
コメント (2)
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姫路城天守の桐紋

2011年04月03日 | 家紋
 さて、前回のつづきです。
なぜ、池田氏の家紋、揚羽に混じって羽柴秀吉の五三の桐、木下家定の五七の桐紋の瓦が姫路城天守にあるのでしょうか?天空の白鷺から撮った写真を持ってさっそく姫路市立城郭研究室へ行ってきました。学芸員の方曰く、
「その桐紋は池田氏の家紋ですよ。一部木下氏のものがあるかもしれませんが、姫路城の桐紋は五三、五七にかかわらずほとんどが池田氏のものです。」
えっ--!!!???
「五三の桐は羽柴氏で、池田氏は七三の桐ではないのですか?」
「秀吉の桐紋は豊臣になってからで、羽柴時代は使っていないですよ。」
えっ--!!??

ヒントは以外なところにありました。
3/26から特別公開している「りの一渡櫓」にこんな瓦が展示してありました。



池田氏の官位を表す家紋として五七の桐紋が公開されているのです。
プレオープンの時は時間の都合で見なかったのですが、今回行って発見しました。



これは水の門にある家紋の瓦です。これは七三の桐紋。だから池田氏の桐紋は七三だと思い込んでいました。例の幻の瓦も七三ですし・・
http://www.maru-hei.com/20040601vis-tile.html

ところが、城郭研究室のホームページには
>黒田慶一「池田氏の桐紋瓦の再検討」(『淡路洲本城』城郭談話会、1995)では、桐紋瓦は池田家が使用したものと主張しています。いずれにせよ羽柴秀吉が桐紋の軒丸瓦を使った可能性は低そうです。
http://www.city.himeji.lg.jp/jyokakuken/info/michishirube/guide04.html

羽柴の家紋をさらに詳しく調べてみるとこんな事が判りました。
>織田信長の死後、天下を制した羽柴秀吉は、誇れるほどの氏を持たなかったことから、皇室に奏上して「豊臣」の姓を賜った。このとき、桐紋の使用も許された。http://www.harimaya.com/kamon/column/kiri.html
理にかなった説明です。

ではなぜ私達ボランティアガイドが勘違いしていたのでしょうか?
塩櫓の斜め前に城主家紋一覧の説明文があります。



毎回毎回外国人に説明しているうちに何の疑問も持たなくなっていました。
天守の展示物にもこんなものがあります。



以前このブログで変な説明文があると指摘したのに、三左衛門自身が騙されていました。

http://blog.goo.ne.jp/sanzaemon01/e/958f18153d454a4e01accea30b33c388
http://blog.goo.ne.jp/sanzaemon01/e/9f9dae2ed64be450cc403ea0dad69c47
http://blog.goo.ne.jp/sanzaemon01/e/00c076cb3d7cadfcac0ba9243b5197b6

ところで、日本の総理が公式記者会見をする時の演台についているプレートをご存じですか?
そう、五七の桐紋です。なぜ?



桐紋は古くから「菊の御紋」に次ぐ高貴な紋章とされました。また中世以降は天下人たる武家が望んだ家紋としても有名で、豊臣秀吉だけでなく、足利尊氏などもこれを天皇から賜っています。このため五七の桐は「政権担当者の紋章」という認識が定着することになりました。
近代以降も五七の桐は「日本国政府の紋章」として大礼服や勲章の意匠に取り入れられたり、菊花紋に準じる国章としてビサやパスポートなどの書類の装飾に使われたり、「内閣総理大臣の紋章」として官邸の備品等に使われています。だから、総理の演台に取付けられるプレートにも五七の桐紋が使われています。

さて、学芸員の方に家紋の瓦の事を教えてもらっている時、三左衛門は持った湯飲みをばったと落とし、小膝たたいてにっこり笑ってしまいました。この話は次回で。


コメント (2)
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