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姫路城英語ガイドのひとりごと

姫路城英語ボランティアガイドでの出来事や姫路城のあれこれを綴ります。

「攻め下る」水曲輪

2025年02月02日 | 普請
姫路城天守群の入口とも言うべき「ほの門」は槍を持った兵士が1人だけ通れる狭い埋み門です。





「ほの門」を抜けると柵があり、更に案内板があるので右側に行けば良い事がすぐ分かります。でも、柵も案内板もなければ、突撃の勢いでまっすぐ行ってしまうかもしれません。「ほの門」を抜けた所はこんな感じです。天守へ向かう「水一門」は見えません。



別の角度で見ると、「水一門」が隠れているのが分かります。この辺りは「水曲輪」と呼ばれて名前の由来は諸説ありますが、その内の一つに「見ず」つまり「水」に通じることからその名が生じた説があります。



「水一門」に気付いた攻城兵士は慌ててそちらに向かい、門を破壊しようとするのですが、この門前が攻城側にとって非常に危険な所です。門を破壊するのにまごまごしていると後方の石落としからの射撃、更に側面の石落とし、窓、漆喰で塗り込められた隠し狭間から雨霰の攻撃が想定されます。



さて、運良く「水一門」を突破したとしましょう。ところが、「水一門」から「水三門」へ向かう狭い小道はなんと下り勾配になっているのです。「攻め上る」という言葉はあっても「攻め下る」という言葉はありません。敵兵は城外へ出てしまうのではないかとたじろいてしまいます。その間、頭上の石落としや窓からの攻撃で敵兵がパニックに陥ってしまうのは容易に想像できるでしょう。





「水一門」の位置から「水三門」は、2.66m 下がっています。
土塀の基礎石垣から下り勾配だということが分かります。



なんと巧妙な縄張りでしょうか。「水一門」から「水三門」へ至る道は狭く、頭上にはたくさんの石落し、窓がありその上、疑心を起こさせる下り勾配、外国人観光客に恐怖を感じさるには充分でしょう。ガイドの説明にも力が入ります。

ところが、この「水曲輪」には我々ガイドの説明を覆すような大きな疑念があります。その話は次回で。
Don’t miss it.










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姫路城の防御ー誘っている門その2ー

2024年12月01日 | 普請
前回の続きです。
「いの門」を抜けると、というより「いの門」から次の門が見えます。「ろの門」です。



前回説明しました様に、通常、城郭の門の先はどちらの方向へ行ったらよいのか判断しにくくなっているのに、次の門が見えている。
これは変ですね。「菱の門」から「いの門」が見えているのと同じパターンです。



観光客は右側には行かず、みんなぞろぞろと「ろの門」に向かっています。そう、「ろの門」は「いの門」と同じ様に敵兵を誘っている
のです。そして、観光客もみんな池田三左衛門輝政の術中にはまっているのです。ここから先は段々道が狭くなり、曲りくねって色々
な仕掛けが待ち伏せているのに…

「はの門」その1
埋めてしまう「にの門」



前姫路城を守る会理事長 中川秀昭著「姫路城を歩く」より。
P22-P23に若干の切取り及び書込みをしました。


攻め込んで来た敵兵の動きは天守群から手に取る様に見て取れます。



また、仮に敵兵が「ろの門」へ向かわず、右へ行ったとしてもその先には姫路城最強の二重櫓門「ぬの門」が控えています。
一筋縄では行かぬ姫路城。試しに「いの門」からに右側へ行ってみましょう。姫路城の別の防御システムの顔が見えてきます。




ちなみに、「ろの門」の右側の石垣が新しいのにお気付きでしょうか?
ここはかつて(1937年)映画の撮影の時、火薬の量を間違えて石垣が吹っ飛び崩れてしまったのです。そのため、復元工事が
行われた所です。



さて、「いの門」「ろの門」はともに「菱の門」や「ぬの門」などと比べて貧弱な門です。突破しやすいと思って不思議ではないでしょう。
そんな門が目の前にあるとついついそちらに向かうのではないかと三左衛門は推理しています。実際はどうかはわかりませんが、そう
考えると成程と思いませんか?お城へ行くと攻め手の気持ちになり本丸を目指しましょう。そして、守り手はどのようにして攻め手の侵入を
防ごうとしているのか考えてみましょう。
お城めぐりが一層楽しくなりますよ。






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姫路城の防御―誘っている門その1―

2024年08月28日 | 普請
姫路城は日本でいや世界で最も美しい城の一つです。でも、忘れてはいけません、城は要塞、つまり軍事施設であることを。

入城券を買って最初に通るのは正門ともいうべき「菱の門」です。その奥に見えるのが「いの門」です。右側へ向かう道もありますが、石垣のため行き止まりのように見えます。実はその先に小さな穴門、「るの門」がありこちらの方が近道なんですが、天守を目指す旅行者のほとんどが何も考えずに「いの門」に向かいます。






こちらが右側へ行く道。行き止まりの様に見えます。だから、多くの旅行者もそして敵兵も目の前にある「いの門」の方へ行きます。





けれど、これはよく考えると奇妙です。通常、城郭の門の先はどちらの方向へ行ったらよいのか判断しにくくなっています。




これは「ぬの門」です。築城当時は当然のことながら道は舗装されていませんし、柵のようなものもありません。だから、左右前方どこから攻撃されるのか判りません。一気呵成に攻めるのは恐怖を感じるでしょうし、どちらに向かって進めば良いのか判りません。



城内側から見た「ぬの門」です。両サイドの石垣に兵士が潜んでいたかもしれません。城郭の門は通常こういう仕組みになっています。

にもかかわらず、「菱の門」から「いの門」が見えるとはどういうことでしょうか?
これでは地図なんか持っていない攻城側にとって、「いの門」は「道しるべ」みたいなものでは・・・? 
そう、一見貧弱そうな、攻城側からすれば突破しやすい「いの門」は、実は攻城側を誘っているのだと三左衛門は考えています。要するに、これは攻城側を「いの門」に向かわせるトリックではないかと。三左衛門は「いの門」に向かう攻城側に対して青い矢印の様に攻撃を加える守城側の方策だと推理しています。つまり、「西の丸」土塀と三国堀土塀の狭間から鉄砲・弓矢の側面攻撃をし、と同時に菱の門2階からの背面攻撃を攻城側に加え、更に「るの門」及び「西の丸」から守城側の伏兵が出撃し(黄色の矢印)攻撃を仕掛ける作戦だと思うのですが、いかがでしょうか?


           Google Maps より



これは西の丸土塀の狭間。




三国堀土塀の狭間。


菱の門その3 ←三国堀周辺の縄張りを説明しています。

三国堀周辺は本当に綺麗で写真を撮るには絶好の場所ですが、一歩踏み出す前に周りを見渡してみませんか?そうすれば、ここが軍事施設だということに気付きますよ。

この話は次回に続きます。お楽しみに。








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石垣跡を示す鉄平石

2024年01月28日 | 普請
姫路の城下町は内堀、中堀、外堀の三重の堀によって、内曲輪、中曲輪、外曲輪と分けられていました。内曲輪は天守や御殿がある城の中心部です。中曲輪は武士が住んでいた地域です。そして、外曲輪には町人が居住していて一部寺社や武家地もありました。現在の国道2号線は中曲輪と外曲輪を分けていた中堀を埋めて建設されました。



さて、その埋められた国道2号線の歩道を歩いているとこんな鉄平石があります。



これは石垣があった事を示す「しるし」なのです。
写真の場所はちょうど中ノ門の石垣があった所です。



この中ノ門を2号線に沿って東へ行くと総社門跡がありますがそこにもこんな鉄平石が貼ってあります。





さらに総社門跡にはなんと車道にも「しるし」があります。











復元図からイメージが湧きますでしょうか?Google Maps から見るとこんな感じです。



先にあげた写真はすべて東側から西へ向かって撮ったものです。だから、右手つまり北側に土塁が見えます。ところが、国道2号線の南側の歩道を歩いていると、そこにも鉄平石が貼ってある所が見つかります。



三左衛門はこれを見つけた時、大変困惑してしまいました。
中堀は北の土塁と南の石垣に挟まれていたのだろうか???
そこで色々調べてみたところこんな資料がありました。姫路市埋蔵文化財センター「姫路城世界遺産登録30周年記念展 姫路城」



黒い線が引かれているところは石垣です。だから中堀の南側に接している所は間違いなく石垣です!でも、納得できません。堀の北側は高い土塁なのになぜ南側に高い石垣を積んだのでしょうか。
えっ、高い石垣?高い?どこにも高石垣とは書いていない!
そう、三左衛門は石垣は高いものと勝手に思い込んでいたのです。中堀南側の石垣は防衛のための高石垣ではなく護岸の石垣だったかもしれんません。



これは内堀ですが、ちょうど矢印の様な堤を守る石垣だったのしょう。早とちりでした。

皆さんも一度国道2号線をじっくり歩いてみませんか?色々発見があるものです。

中濠ツアー


<追記>
ブログを読み直しているとなんと最初に貼り付けた写真に石垣の手掛かりがありました。凡例に注目。必死で資料を探したのに・・・










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姫路城石垣から自衛官が落ちた

2022年01月30日 | 普請

昨年末、自衛隊の清掃作業中、1人の自衛官が姫路城石垣から転落し、右脚を骨折するという事故がありました。

神戸新聞から引用します、

“国宝姫路城で、清掃活動をしていた自衛隊員が「20代の男性隊員が城壁から転落した」と119番した。同市消防局によると、男性隊員は左脚を骨折する重傷とみられ、病院に搬送された........

 ......姫路城管理事務所によると、現場は大天守東側にある「帯の櫓」付近の石垣。姫路署の説明では、男性隊員は上からロープを垂らして石垣で作業をしていた際に、何らかの理由で高さ約10メートル付近から地面に転落したとみられる。“

「帯の櫓」といえば、日本で3番目に高い石垣です。いったいどの辺りから落ちたのでしょうか?三左衛門は色々調べましたが神戸新聞のみ「帯の櫓」と記載されているだけで詳細は不明でした。ところが、三左衛門は偶然その場所を知る事が出来ました。

ところで、毎年年末は「姫路城クリーン作戦」と銘打って自衛隊が姫路城を清掃してくれます。

 

姫路城クリーン作戦 - 姫路城英語ガイドのひとりごと

自衛隊による恒例の姫路城クリーン作戦が先日行われました。Before/Afterの写真をどうぞ。どうでしょう?自衛隊のおかげで姫路城は綺麗に...

姫路城クリーン作戦 - 姫路城英語ガイドのひとりごと

 

 

これらの写真はいずれも高校時代の同級生である曽我裕志君から提供してもらったものです。3枚目の写真はすごい迫力ですが、ひょっとしたらこの中に転落した自衛官がいるかもしれません。

さて、下の写真が帯の櫓です。かつては搦手の入城口であった「との四門」も見えますね。

上の写真は同じく高校時代の同級生、池田勉君に提供してもらった写真です。自衛官はどうも「帯の櫓」の石落としの下方で、「との四門」の前方に落ちた模様です。

 

これは曽我君の写真ですが、「帯の櫓」を少し下がって撮ったものです。鉄砲や弓を撃つ「狭間」にご注目。何かぶら下がっています。

 

再び池田君の写真。漆喰壁を傷つけないように布を敷きロープを垂らしてあるのが分かります。そのロープを使って登り降りするのでしょう。ところが、石落としの左側の狭間をご覧ください。布はあってもロープがありません。ということは、この狭間からのロープが何らかの理由でほどけてしまい、自衛官が落ちてしまったことが容易に推測できます。同級生2人のスクープともいうべき写真のお陰で事故の詳細が分かりました。本当に感謝です。

ところで、ヨーロッパからのお客様を案内するとしばしばこんな風に言われます。「日本の石垣はすきまが多いので登りやすい」確かにセメントを使った欧州の石垣はほぼ垂直で登りにくいでしょう。でも、重い兜をかぶり鎧を身につけ、刀を差しさらに手には鉄砲や槍を持って石垣を登る武士の姿を想像してください。そう簡単には登れません。また、石垣の上の方は武者返しと言って勾配がきつくなっていますし、仮にてっぺんまでたどり着いたとしても、その上は漆喰壁です。手を掛ける隙間なんかありません。さらに、漆喰壁は石垣の面ギリギリまで張り出してあるので、犬走りのようなスペースが無く立つことも手を掛けることも不可能です。もちろん、登る途中は狭間や石落としから雨あられの弓矢や鉄砲弾が飛んできます。恐るべし石垣!

 

 

 

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埋めてしまう「にの門」

2020年01月04日 | 普請
今年は残念ながら初日の出を撮ることが出来ませんでした。
でも、新年の夜明けが綺麗だったのでアップします。



さて「はの門」の続きです。

「はの門」を抜けると右手に天守群が見え、舗装された道が続いています。



けれど、もし道が舗装されていなければどうでしょう?道の先は行き止まりの様に見えませんか?
ウーン写真では分かりづらいかもしれません。



すると、攻め手は右側の土塀に沿って行くと思われます。



その場合、守り手は左の石垣の上にある狭間から攻撃します。その場合、狭間の死角になる石垣のそばを通られるよりもずっと攻撃しやすいのです。ところで、右側の土塀は途中で切れています。そこから敵兵を突き落とす仕掛けだという話を聞いたことがありますが、これは明らかに誤りです。なぜなら、明治15年、備前丸の建物が焼失した際にあおりで土塀の一部が崩壊したからです。

舗装された道を進むと右手に例のシャガがあります。



さらにヘアピンカーブを曲がると二つの時代の石垣が見られます。
お判りでしょうか?右側が輝政の石垣、左側が秀吉の石垣です。秀吉の石垣には梵字が刻まれた転用石もあります。



そして、ヘアピンカーブの正面が「にの門」です。曲がった途端門の2階から鉄砲や弓矢の攻撃を受けます。と同時に背面の狭間や窓からも攻撃されます(輝政の石垣の上にある狭間や窓に注目)。挟み撃ちですね。
さて、例の波の瓦は判りますでしょうか?

「はの門」から「にの門」の間は十字の瓦もあるし、本当にガイドポイントが満載です。




この「はの門」は狭いため敵兵が一度に突入すことが出来ません。また、槍を持った敵兵は門が低くく槍を立てて入れないため、水平に持ちかえます。すると、兵士と兵士の間があき一度に少数しか入れません。さらに、門の2階の床板(1階の天井)を外すことが可能なため、門の2階から下を通る敵兵を槍等で攻撃することが出来ます。



さらにさらに、この門の一番すごいのは石垣のある特定の石を引き抜くと突然石垣が崩れ門が埋もれてしまうことです。
すごい仕掛けでしょう?ところが、その石がどこにあるのかは誰も知りません。多分(^^;) 仮にこれがその石だと主張されても確かめようがありません。なぜなら、万が一その石が正しいとすれば、その石を引き抜くと重要文化財が崩れてしまうので恐ろしくてそんなことはできません。
ということで、この話は残念ながら伝承で事実かどうか分かりません。史料が残っていないのです。2階の床板が外れる話も同様で伝承です。けれども、興味をそそる話でしょう?だから、断定的口調でなければ説明してもよいと三左衛門は考えています。

三左衛門は若い頃「実証派のガイド」だと恥ずかしながら自負し、事実でないことは言わないようにと努めていました。
でも、観光客の多くは観光に来ているのであって、勉強に来ているのではないと思い始め、最近では私は姫路城観光ガイドだ、楽しんで帰って貰いたいと強く意識するようになりました。だから、伝承の話も三左衛門はすすんでします。ただし、いつお城マニアやたとえ研究者が登城してもきちんと説明できるように準備し、引き出しは多く作っているつもりです。

<お知らせ>
VEGA(姫路城外国語ガイド協会)のガイド仲間がブログを始めました。
学習塾のブログなのですが、その中で姫路城英語ガイドも多く取り上げています。
是非ご覧下さい。
学習塾 緑青舎のホームページ










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地震と城

2016年05月03日 | 普請
お城好きにとって熊本地震は本当に衝撃的な出来事でした。
熊本にもお城仲間がいます。その人自身が大変な目にあっているのに地震直後に
「祈るのみ頑張って熊本城」とfacebookへ書かれた文字を見て涙が出そうになりました。







今回の地震で三左衛門にとって意外だったのは建物の被害より石垣の被害のほうが大きかったことです。阪神大震災でのたくさんの倒れた家々を見るにつけ、天守や櫓の心配をしていたのですが、考えてみたら一般家屋や社寺には石垣はありません。城の建物は石垣の上に建っているのです。ある意味石垣のほうが重要だ。それなのに、以前こういう記事を三左衛門は書きました。

「姫路城は地震に強いのか、弱いのか」

>大地震で大破の懸念があるとされてきた世界遺産の国宝姫路城大天守は、震度6強の揺れにも耐え得ることが、姫路市教育委員会などの最近の調査で分かった。漆喰(しっくい)を塗り込めた城郭の壁が耐震に寄与。地盤も強固なためという。四百年前に築城された近世城郭建築の最高峰は、十分な耐震性も備えていることが証明された。

姫路城天守は十弁式定盤基礎という鉄筋コンクリート製の強固な基礎の上に建っています。昭和の大修理の時、地盤が弱い事が判明し岩盤まで掘り下げてコンクリートを打ったので、基礎はしかっりしているということでしょうか?



三左衛門にとって不思議でならないのは「なぜ、日本はセメントの技術が発達しなかったのか?」ということです。セメントの材料になる石灰岩もたくさんあるのに・・・

外国人に石垣を説明する時、セメントやモルタルは一切使われていないことを話すると驚かれます。そして、地震が起きても石が動くことによって崩れにくくなっていると付け加えます。けれど、熊本城の被害状況を見るとそれが正しいのかどうか判らなくなってきました。モルタルで固める方が強いのではと思ってしまいます。ただ言えるのは今回の地震は尋常ではない大地震だったということです。それにしてもこの尋常でない大地震に耐えた400年前の宇土櫓は驚異です。



ついでに付け加えると、地震の時天守の瓦が多量に落ちたのは重い瓦を落として建物を守る仕組みだという都市伝説?がネットのあちらこちらで見られますが、如何なものでしょうか?瓦が多く落ちたのはコンクリート製の復元天守で、宇土櫓の瓦はあまり落ちていないように思われます。そして、櫓そのものの被害も少ないように見えます。ちなみに、姫路城の瓦は落ちないように漆喰で塗り固めてあります。

熊本城の写真は熊本城公式facebookから引用しました。




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シャガ復活

2012年09月02日 | 普請
以前、自衛隊のクリーン作戦でシャガを抜かれてしまったことを書きました。3年前のことです。

http://blog.goo.ne.jp/sanzaemon01/e/17798753aa5767c070f2e5f2f9d8515f



そのシャガがようやく復活しました。



>お城においてはシャガは特殊な意味を持ちます。シャガの葉は大変滑りやすく、草鞋を履いた敵兵がその上を歩くと滑ってしまい、立ち上がろうとしてもその茎や葉をつかむと簡単に抜けてしまって、容易に起きられないのです。そう、これは敵兵の攻撃を阻むワナなんです。

↑のような説明も復活です
後は、天守への見学コースを早く元へ戻して欲しいだけです。今のままなら天守からの帰り道で説明しなければならないからです。

さて、新人英語ガイドが3人猛暑の中の研修を終えてデビューしました。今年は女性ばかりです。どうぞ、よろしくお願いします。
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補強石垣

2012年05月13日 | 普請
現在、姫路城は修理中のため従来のコースではなく別のルートを行くようになっています。つまり、通常は「いの門」を通ると「ろの門」に向かうのですが、右へ曲がって「ぬの門」に向かうよう指示されています。すると、普段見えない風景が見えて来ます。実際こんな質問を先日受けました。

「このへんな石垣は何か意味があるのか?」





これは背後の高石垣がメタボのようにはらみだしているのを別の石垣が補強しているのです。池田氏築城直後にはらみ出し、補強の石垣を積んだようです。3~400年間持ちこたえています。

この高石垣も通常のコースではあまり気付きません。でも、今はこの石垣を見て感心する人が多くいます。



ついでに珍しい写真を。
これは年末に自衛隊が姫路城クリーン作戦の一環として、この石垣にはえている雑草を採っているところです。

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これが野面積?

2009年12月20日 | 普請
「ぬの門」の前の石垣はきれいな扇の勾配の石垣です。
ここで、ほとんどのガイドは扇の勾配を説明します。
その石垣の下方にこんな説明文があります。



これも変な説明文です。
野面積の石垣では説明文の絵のような扇の勾配を造るのは極めて難しいと思います。
実際の石垣は以下の写真です。



算木積は正しいけれど、それ以外はどう見ても打込はぎです。
ちなみに姫路城の野面積はこんな感じです。



違いは歴然でしょう。
学芸員や研究者の先生方は注意されないのでしょうか?
それとも予算の問題?2~3年前城内の説明文が洗浄され、読みやすくなり良くなったのですが、間違った箇所は直して欲しいです。
三左衛門が添削しましょうか?←もちろん冗談です






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姫路城のシャガが無くなった

2009年06月28日 | 普請
シャガという草花をご存知ですか?
通常4~5月にこんな花を咲かせます。



姫路城にもこのシャガが群生しているところがあります。いやあったというべきでしょうか?
お城においてはシャガは特殊な意味を持ちます。シャガの葉は大変滑りやすく、草鞋を履いた敵兵がその上を歩くと滑ってしまい、立ち上がろうとしてもその茎や葉をつかむと簡単に抜けてしまって、容易に起きられないのです。そう、これは敵兵の攻撃を阻むワナなんです。それが昨年末から写真のような悲惨な状態になっています。





多分、昨年末に行われた自衛隊による姫路城クリーン大作戦で抜かれたのでしょう。自衛隊のおかげで姫路城はきれいな状態を保たてれているのですが、大事な草花まで除去されるのはいかがなものでしょうか?誰も注意しなかったのでしょうか?
そのうちにまた生えてくると思っていたのですが、今夏にはついに花が咲きませんでした。重要な縄張りの一端で、それゆえの貴重なガイドスポットが無くなってしまいました。
大変残念です。



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外濠の終端

2009年03月15日 | 普請
堀の話の続きです。

皆さんは反時計まわりの外濠の終端はどこにあるのかご存知ですか?
姫路市民ならご存知ですね。読んで字の如く野里堀留町にあります。





現在はどうやら下水設備?と繋がっているみたいで、外堀川となっています。







堀と濠の漢字の使い分けが微妙です。
商工会議所がかつて使っていた壕は明らかな誤りですが・・



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堀の水は循環している?

2009年03月01日 | 普請
先日の善意通訳者(goodwill guide)研修会の時、姫路城の堀の水は循環しているのかどうかという質問がありました。三左衛門はしていないと思うと答えたのですが、翌日、姫路市観光交流推進室からご指摘がありました。
「船場川から水をポンプアップし、約1週間で水が入れ替わっている」とのこと。

姫路城英語ガイドは「頭は学芸員、心はエンターテイナーでなければならない」と言った手前、本日さっそく調査に行きました。

すると清水門跡付近にこんな絵がありました。


なんとポンプが内堀と中堀に3か所設置しているではありませんか!







あらためてお詫びし訂正します。

でも、江戸時代はどうだったのでしょうか?

本当はそこが知りたいのですが。


なおその時、千姫がお茶を点てるため美味しい水の出る泉を探した?がそれはどこかという質問がありましたが、清水門内に復元された「鷺の清水」のことじゃないかと思われます。



おまけ






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姫路城の油壁

2008年12月21日 | 普請
ガイドブックに必ずと言ってよいほど載っている油壁を三左衛門はめったに説明しません。なぜか?三左衛門にとってこの壁はよくわからないからです。



姫路観光コンベンションビューローのHPによると

>姫路城の壁はほとんどが白漆喰で塗り込められていますが、ほの門の内側にある
>油壁は、粘土に豆砂利を混ぜ、米のとぎ汁で固めたものといわれ、一説には秀吉
>築城の名残とも伝えられています

と説明してあります。
たいてい、米のとぎ汁かもち米をたいた汁で練って押し固め、コンクリートのように頑丈な壁と書かれてあります。

ではなぜ油壁と呼ばれているのでしょうか?どのガイドブックにもその説明がありません。ところで、油壁は姫路城特有のものではなく、古い神社・仏閣にも時々使われています。
下の写真は法隆寺の油壁です。油壁の解説板は見当たりませんでしたが・・



実は通常油壁は壁を強固にするために粘土に「菜種油」や「もち米の研ぎ汁」を混入して防水性を高め、さらに接着性をも高めているのです。「菜種油」を使用したため油壁と呼ばれていると三左衛門は考えています。

以前、姫路城漆喰職人、田渕さんにこの壁のことを訊いたことがあります。
すると、「もち米の研ぎ汁」を混ぜたぐらいでできるならこんな簡単なことはない、と言っていました。
この壁は築地塀でこれを作る方法は両側に板型枠を置き、その間に壁土(赤粘土など)を数センチずつ敷き込みながら棒で突き固める作業を繰り返して作ります(版築と云います)
この層状に製作するので、型枠を外すと横じま模様の塀となります。

だから大変な労力がいるので、築地塀から漆喰壁に変わっていったとも考えられます。つまり、油壁は古い工法で、秀吉時代の壁だと説明する人もいます。では、どうしてこの場所だけに残っているのでしょうか?さらに、油壁の下の石垣に注目。この石垣はどう見ても池田時代のものです。
本当にわからないことだらけです。だから三左衛門は油壁を説明しないのですが、先日、イスラエルの建築家に説明を求められました。この壁だけ他の壁とは違うのはなぜかと

ボランティアといえど本当にガイドは勉強が欠かせません。
薄っぺらいガイドブックだけでは、とてもじゃないが事足りないのです。


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姫路城の登城順路?

2008年12月14日 | 普請
先日、朝日新聞地方版でとんでもない記事を見つけました。
http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000000812110004

記事のタイトルが
「姫路城の登城順路 築城の主 今と逆?」
これは面白そうと読んでみると、

>姫路城を築城した池田輝政(1564~1613)が現行の見学コースとは逆の順路で登城していた可能性があることを、城郭研究者が門などの構造から指摘している。

>城郭研究者の宮田逸民(とし・たみ)さん(52)=三木市=は、「いノ門」を右折したところにあったが明治時代に焼失した「をノ門」に注目した。巨石を使った「切り込み接(は)ぎ」という工法で積まれた石垣は、今でも残る。

>輝政が「いノ門」を通った後に「ろノ門」には向かわず、「を」「ぬ」「り」を通って天守閣に入ったと推測。この経路だと本丸まで大きな石が積まれた石垣が続き、最短コースになる。研究結果は、今年9月に出版された「日本名城百選」(小学館)で発表した。

今頃新発見と言われても困ります。
歴代城主が「いノ門」を通った後に「ろノ門」には向かわず、「を」「ぬ」「り」を通って天守閣に入ったであろうと私達 VEGA のメンバーなら誰でも考えることです。
実際、三左衛門は「いノ門」を通った後、右へ行くと天守への近道だが、前方に「ろノ門」があるため、敵兵はそちらへ向かってしまう。戦でない場合城主と客人は右へ曲がって近道を行くと説明しています。

巨石を使った「切り込み接(は)ぎ」は以前紹介した通りです

但し、記事の元になった「日本名城百選」(小学館)は大変よくできた本です。
引用の仕方がよくなかっただけだと思います。しかし、姫路城ファンにとってこの本はかなりショックな内容ですよ。




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