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姫路城英語ガイドのひとりごと

姫路城英語ボランティアガイドでの出来事や姫路城のあれこれを綴ります。

「はの門」その2

2016年10月10日 | 作事
さて、前回の続きです。
まずこの写真を見て下さい。



これは姫路城内において、大天守に次いで格式の高い建物と言われる「菱の門」の鏡柱(正面の主柱)です。通常鏡柱は太くて長い長方形の一木ですが、菱の門の鏡柱は一木ではありません。数本の角柱を束ねたもので表面をケヤキの板で張り付けた集成材です。そのため、板の継ぎ目を隠すために筋金を打ちつけてあります。では、なぜ一木を使わなかったのでしょうか?それは関ヶ原の戦い以降大材の入手が難しかったからです。

一方、こちらは「はの門」の鏡柱です。



ご覧の通り、筋金もなく一木です。
さらに、控え柱の表面にも注目して下さい。



ヤリガンナ、もしくはチョウナ仕上げと思われます。
さらに、さらに「はの門」は鯱瓦が揚げられていません。



姫路城で鯱瓦が揚げられていない櫓門は「はの門」と置塩城からの移築といわれる「との一門」、そして明治15年に櫓部分が焼失し、後復元した「備前門」だけです。備前門はよく判りませんが、「との一門」は明らかに古式です。

以上の鏡柱、チョウナ仕上げ、鯱瓦の事柄から「はの門」は秀吉時代のものだと三左衛門は考えています。すると、気になるのが秀吉時代の縄張りです。「ろの門」から「ほの門」への道筋は秀吉時代の縄張りとする説がありますがはたして・・・・・
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「はの門」その1

2016年09月22日 | 作事


「はの門」は櫓門ではありますが、同様の「菱の門」や「ぬの門」と比べると見るからに貧弱で、ガイドブック等にも柱の礎石に使われている転用石のみが紹介されている場合が多いです。



でも、この門は「菱の門」の背面から「いの門」、「ろの門」の背面まで見通すことができるのでこの辺りの司令塔の役目をもった重要な門です。それ故細部をよく見ると色々なことが解ってきます。では、一つずつ見ていきましょう。

まず、この門はその荷重を石垣にかけず、柱で支えているということです。





これはどういうことでしょうか?
敵兵がこの門を攻めてきたらまず門扉を閉めます。
次に石垣を崩し、その石を利用して門を埋めてしまうのです。「はの門」は柱で支えられているので、たとえ石垣を崩しても倒れない構造になっているのです。
さらに注目は門の前の通路です。



門扉を破壊する時は通常長くて太い材木を多人数で抱えて門扉にぶつけるのですが、前の通路の奥行きが短いため長い材木が使えない仕組みになっています。

また万が一門を突破され、門の櫓部分に立て篭もったとしましょう。
そこからは天守群がまる見えです。



しかしながら、門の反対側と側面には窓がないのです。だから、攻め手側はたとえ「はの門」を攻略してもこの門を利用することができません。



以上が通常三左衛門が外国人相手に説明している内容です。転用石の話よりもこちらの方が興味深いでしょう?
さて、このブログを読んでいる日本人の皆さんにはもう少し詳しい説明を。
それは次回です。どうぞお楽しみに。
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現存と復元

2016年01月04日 | 作事
前々回の話の続きです。



この土塀は変だと思いませんか?なんと狭間が無いのです。大手門から入って真正面に見えるのに、未だかつて外国人からも日本人からも質問を受けたことが無いのも変ですが・・

何故なんでしょう?

実はこの土塀の場所には4棟の渡櫓と隅櫓があったのですが、明治の修理の時に建物を復元していません。つまり築城当時通りには復元しなかったのです。費用や手間等の諸問題もあったでしょう。でも、この土塀は現存ではない事を一目で判るようにするため、狭間を造らなかったのではないかと三左衛門は推理しています。

天守群にも東西の心柱と同じ様に現存と復元が一目で判る箇所があります。



手斧仕上げの床板が現存で、台鉋仕上げが復元です。
写真でよく判るでしょう。
この説明すると手でなでる外国人も多いです。



これは特別公開の時のみ見学できるロの渡櫓です。
ここでは見事な現存の床板が見られます。



そして、この白木の部分は以前紹介した耐震補強材の覆いです。
なぜこんな色にしたのか、もっと黒っぽい色にしたら良かったのにと尋ねたところ、有識者の人達の強い意見だったそうです。現存と復元は一目で判るようにしなければならないと。


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東大柱と西大柱の形が違うのはなぜ?

2015年12月13日 | 作事
先日、マレーシアからのお客さんにこんな質問をされました。
「東の大柱(心柱)は丸い円柱なのに、西の大柱(心柱)は四角い角柱なのはなぜ?」
ガイドの皆さんならどう答えるでしょうか?




三左衛門はこう答えました。
「東はオリジナルで、西は取り替えたものだから」
えっどういうこと?と思われる方もいるかもしれません。

以前、VEGA の研修旅行で備中松山城へ行った時のことです。
姫路城とそっくりの土塀が松山城にはあるのですが、土塀の途中に境目がハッキリ見えます。
ガイドさんの説明によると、重文である現存土塀と復元土塀をそこで見分けられるようにしてあるそうです。



やっぱりそうかと、三左衛門は大変納得しました。
姫路城の大柱(心柱)も同じ。現存と復元が一目で分かるようにしてあるのです。東の大柱はもともと丸いからそのままで、西の大柱は取り替えたことが直ぐ分かるように四角に加工したのです。

注目は地下の東大柱と西大柱です。両方とも同じ様な形状で四角いです。それは東大柱も地階から1階の途中までの部分は継いであるからです。つまり現存(オリジナル)ではないからです。東大柱の継いであるところから下は四角、そこから上は丸いのが写真から分かるでしょうか?









もともとの東大柱の根本はこんな円柱状でした。




では、取り替える前の西の大柱はどんな形状だったのでしょうか?
ご覧のように円柱状です。だから、角柱にしたのは上記の理由だと三左衛門は推理しています。
(但し、上柱が角柱なのは少し気になるところです(^_^;))





さて、この話はもう少し続きます。VEGA のメンバーにはネタバレかな?

追記
訂正の記事があります。是非お読みください。
東大柱と西大柱の形が違うのはなぜ?訂正←タップしてください。


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姫路城天守は大丈夫?

2015年07月05日 | 作事
姫路城は3月末のグランドオープン後、毎日数千人の観光客が訪れています。
ピーク時には15,000人も来城しています。けれど、そんなにたくさんの人が天守に入っていったい大丈夫なのでしょうか?三左衛門はそれが心配でなりません。なぜなら、池田輝政は籠城時の人数を何千人と想定していなかった筈だからです。



兵庫県立歴史博物館学芸員の堀田浩之氏によると、
「小天守と渡櫓群の固定兵力を取りつけられた銃架から算定すると、東小天守32人、乾小天守60人、西小天守36人、イの渡櫓12人、ロの渡櫓40人、ハの渡櫓18人、ニの渡櫓12人となり、計200人余りの人員をもって、銃眼(狭間)一つに2人が割り当てられるという。大天守と合わせて約600人の兵力が、姫路城の最終ラインを固めていたわけである。」(歴史群像名城シリーズ10 姫路城)

なんと天守群すべて合わせても600人の兵力なんです。
何千人も人が入るなんて想定外でしょう。
以前も天守階段のタイトル
で下り階段の事を触れたことがありますが、下り階段はもともと観光客用の仮設階段で昭和の大修理後の予想される大勢の観光客の為に作られました。観光客が落ち着いたら元に戻す予定だったらしいです。でも、当初想定していたよりずっと多かったのでそのままにしているそうです。



50年前でさえ修理後の観光客の多さは想定外だったのに、今回の観光客の多さは当時の修理担当者には全く想定外でしょう。もちろん、池田輝政や大工棟梁の桜井源兵衛も予想だにしなかったでしょう。本当に大丈夫かな?

ちなみに手前がオリジナルの上り階段。向こう側が下の仮設階段。比べてみると違いが分かるでしょう。
上り階段には扉が付いています。







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姫路城大天守の展示ーAR?

2015年02月22日 | 作事
いよいよ姫路城グランドオープンまで約1ヶ月になりました。
グランドオープンというと、デパートなんかの改装オープンみたいでイマイチですが、適当な言葉がありませんので仕方がないですね。

既に色々な情報が入ってきています。その中でも代表的なものは「大天守には見事なほど何もない」です。
聞くところによると、以前あった展示物はすべて無くなり、説明文もないそうです。なんと武具掛けの槍や火縄銃も西の丸に移動されるみたいです。



どうも天守は素のまま見せて、余分なものは一切置かないということらしいです。
その代わり西の丸百間廊下・長局に説明文・案内板がそこかしこに設置してあります。





つまり、西の丸で十分予習をしてから天守に入って下さいということです。
でも、それではあまりにも素っ気ないので新しい見せ方が導入されました。
それはARという新しい技術です。

毎日新聞によると
http://mainichi.jp/select/news/20150217k0000e040174000c.html
>兵庫県姫路市は、世界遺産の姫路城が3月27日に大天守の一般公開を約5年ぶりに再開するのに合わせ、城内の歴史や背景などを動画で紹介するスマートフォンアプリを開発している。城の敷地内15カ所の観光スポットでスマホをかざすと、防御の仕組みや城兵が活躍する姿などが現れる。

もう既に三の丸ではこのようなものが置いてあります。





AR( Augmented Reality)は拡張現実と訳されます。現実世界を補う「何か」を追加することで、目の前にある現実以上の情報を提示する技術や、その技術によって表される環境そのものを含めたものがARと呼ばれるそうです。
http://www.atmarkit.co.jp/ait/articles/1109/26/news136.htm

今は存在しない三の丸の御殿がスマホをかざすことによって現れてくるのでしょう。言わばスマホやタブレットを使った仮想現実でしょうか。でも、なんかおかしい。
姫路城は安土城なんかと違ってまさしくリアルの世界なのに、仮想現実とは。
それに、すべての観光客がスマホやタブレットを持っているわけでもないし、仮に持っていてもすべての人がそれを使いこなせるわけでもないでしょう。
以前にも増してガイドが付いていなければ、姫路城天守は観光客には理解できないような気がします。
ということで、英語ガイドの重要性がますます高まると予想されます。三左衛門はiPad も持っているから楽しみにしていますが、客観的に考えるとどうでしょうか?

ところで、西の丸の説明文の英訳は姫路城外国語ガイド協会(VEGA)が協力しています。
プロの翻訳家が英訳したものをVEGA のメンバーが再度手直しをしています。なぜなら、翻訳家よりも私達のほうが城郭に関しては遥かに詳しいからです。特に語句の選択には厳しいチェックをいれていますし、場合よっては原文を大幅に書き変えたところも少なからずあります。
今回、城内パンフレットも刷新されました。以前と違って大変詳しいものです。少なくなった天守の案内板を補う役目を担っているようです。このパンフレットの外国語チェックもVEGA が担当しました。
でも、皆さん、これらの作業も私達が外国人に行っているガイドと同じように無償です。というのも私達はできるだけ姫路市とは協力していきたいと思っているからです。でも、市長さん、副市長さん、こんなことをご存じでしょうか?
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外国から輸入した門?

2013年11月03日 | 作事


この門の軒先にある三角形の瓦は滴水瓦、別名高麗瓦と呼ばれ以前紹介したことがあります。
高麗瓦と滴水瓦

>豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加し、陶工や瓦職人を連れて帰った加藤清正が熊本城を築いた時、彼ら渡来朝鮮人が
>滴水瓦を造ったのがその名の由来です。

実は、この写真の「ろの門」は高麗門と呼ばれています。
その特徴は開いた扉が城内側の屋根の下に納まることです。だから、雨が降っても扉は濡れないし、門の屋根も小さくてすみます。





門としては簡単な棟門は扉の上に屋根がありません。その代わり扉の上をトタン板で覆っています。



えっトタン板?? トタン板が江戸時代にあった?そんな筈はありません。多分、姫路城が一般に公開されてからトタン板が使われたのでしょう。三左衛門は菱の門以外の門が閉じられたのを見たことがありません。閉じる必要がないからですが、そうすると雨に濡れて木製の扉は傷んでしまいます。だからトタン屋根が作られてのだと思います。

それではこの高麗門も高麗瓦と同様、朝鮮半島からその技術を輸入したのでしょうか?
何人か韓国からのお客さんに訊ねたのですが、こんな形式の門が韓国にあるかどうか判らないと言われました。
どうやら、秀吉による朝鮮侵略の文禄・慶長の役頃に発明された日本オリジナルの城門のようです。

同じように唐破風も日本オリジナルで中国から輸入したものではないです。



高麗、唐のような外国名をつけるのは、今で言うとフランス風何々とかアメリカン何々と名付けるようなもので、シャレた感じがしたのかもしれません(^_^;)





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城門の秘密

2012年12月16日 | 作事
先日、ガイド中にオーストラリアの高校生からこんな質問を受けました。
「門の下にある木は何の役目?敵兵をつまずかせるため?」



実はそうではありません。お城の門は肘壺という鉄の塊みたいな頑丈な金物で吊っています。
下の写真の矢印部分です。



そのため、写真の様に扉の下に棒を差し込み扉を持ち上げると、肘壺が外れ、扉も外れてしまいます。






だから、門を閉じた時、扉の下に棒を入れられないように門の下に木を渡しています。つまずかせるためではないと三左衛門は思っています。


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伝統木構造とコンクリート基礎その2

2012年10月14日 | 作事
前記事の続きです。
> そこで三左衛門が知りたいのは木造の柱脚とコンクリートはボルトか何かで固定されているのか、それとも基礎の上に載せているだけなのか、どちらなのでしょうか?

城郭研究室の方に訊きました。2本の心柱(大柱)はコンクリートの基礎に固定されず、載っているだけらしいです。その他の柱はコンクリート基礎に敷かれた土台の上に立ててあるようです。通常、寺院は礎石の上に柱を立てますが、城郭は礎石の上に丸太、または角材の土台を敷くのです。姫路城の場合は地盤の関係でコンクリート基礎の上に土台が敷かれました。現在、チケット売り場近くに大小の石を並べただけの広い場所があります。これは築城以来天守を支えてきた礎石の配置を再現したもので、天守の庭と呼ばれています。




三浦正幸著 「城のつくり方図典」P91

姫路城の場合は天守地階が天守台石垣の内にあるため、石垣にはほとんど荷重をかけていません。



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伝統木構造とコンクリート基礎

2012年09月30日 | 作事
先日、姫路で伝統木構造のセミナーがありました。

http://dentou.weblogs.jp/
http://dentou.weblogs.jp/files/himejiseminar.pdf

講演会は行けなかったのですが、実技・実演を見て来ました。大変興味深かったです。




これはチョウナの実演です。初めて生で見ました。





木組の説明です。

一番面白かったのは礎石に合わせて木材を削る実演でした。





そして、組み立てます。





あらためて実演を見ると、本当に石の上に柱を載せているだけでボルトも釘も使っていないのにびくともしません。そして、この伝統工法が地震に大変強いのです。大工さん曰く、基礎石に固定していないから揺れがあると柱脚が滑り、上部建物への影響が少ないそうだ。さらに、木組の建物はネバリがあり地震に強いらしい。伝統工法は本当は地震に強いことを実証するためこのような実演を公開していると関係者の方は言っていました。

ほとんどの古い寺院は礎石の上に載っているだけなので、地震に対して大丈夫かなと思っていたのですが伝統工法は強いのですね。
阪神大震災の後、明石城では櫓とその下の石垣を修復するため、大きな櫓をジャッキアップしてレールに載せ移動させました。その現場を見て、櫓は石垣と礎石の上に「載っている」だけだと三左衛門は初めて実感しました。

さて、現在修理中の姫路城大天守。その柱の下にあるのは礎石ではありません。十弁式定盤基礎という鉄筋コンクリート製の強固な基礎なのです。昭和の大修理の時、地盤が弱い事が判明し岩盤まで掘り下げてコンクリートを打ったのです。そこで三左衛門が知りたいのは木造の柱脚とコンクリートはボルトか何かで固定されているのか、それとも基礎の上に載せているだけなのか、どちらなのでしょうか?いずれにせよ伝統工法への挑戦です。いや、改良版というべきなのでしょうか?

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石落し

2012年02月19日 | 作事
現在姫路城は平成の修理のため普段は入れない所に特別公開として入れます。それは化粧櫓と「りの一渡櫓」です。化粧櫓は以前も取り上げているしよくご存じでしょう。一方、「りの一渡櫓」は下の写真の矢印の所です。



内部は色々なものが展示されています。



甲冑も多数展示してあります。



でも、ここで見て欲しいのは展示物よりも石落しです。その石落しは外側から見るとこんな感じです。







その石落しの蓋が開いているのです。



西の丸百間廊下にも蓋の開いている石落しがありますが、ここ「りの一渡櫓」でもそれが見られます。他のお城では滅多に見られない蓋の開いた石落しです。
覗いて見ると石垣の下の様子がはっきり見えます。





狭間からでは石垣の真下は見られません。だから、三左衛門は石落しは一種の覗き穴(窓)だと思っています。外国人のお客さん度々質問されるのは、「あんな小さな穴なら小さな石しか落とせないじゃないか?」武器としては貧弱ではないか、ヨーロッパでは煮えたぎった油を落としたのにという意味で訊かれます。
でも、最近では石落しから石を落とすのではなく、そこから鉄砲を撃ったというのが定説になりつつあります。三浦教授によると、石落しから斜めに射撃を加える事で一つの石落しで左右数十メートルを守備できたらしい。上から覗いてみるとそれが実感できます。だから、是非覗いて下さい。ついでに欧州の煮えたぎった油に関して付け加えると、ある仏人曰く
「欧州でも油なんか絶対に使っていない。当時、油は大変高価だったのだから。映画のシーンも嘘」と断言されたことがあります(^.^)
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武者窓の格子

2010年08月08日 | 作事
現在姫路城では天守だけでなく、西の丸百間廊下の内外も修理中です。でも、内部はだいたい修理が完了しました。例の雨水抜きは別にして、武者窓も綺麗に白漆喰が塗り直されました。



ところで、この格子の構造はご存じでしょうか?
石ではなく木製なのです。柱状のような木製の心棒で、その周りを鉄板で覆っています。だから、鋸では切れない。さらに漆喰で塗り固めてあるから火にも強い。

これを説明するのに、ちょうど良い格子があったのですが、気がつくと既に修復されていました
しまった写真を撮り忘れたと思っていたところ、幸運にも WEB で見つけました。



お城好きならだれでも知っている"お城めぐりFAN”です。
http://www.shirofan.com/
管理人の岡さんから承諾を得、転載させて頂きました。

芯が木で鉄板に覆われているのが良く分かります。

これからは修理前の写真をこまめに撮っておこうと考えています。

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ちょうなその2

2010年05月30日 | 作事
東小天守と乾小天守を結ぶ「ロ」の渡櫓二階の内部はこんな感じです。



現在、天守には入れなく、しかも「ロ」の渡櫓二階は1年に2度の特別公開の時にしか入れないため、内部を知らない方も多いかもしれません。重要なのは床板の真中部分です。そこは台カンナの仕上ではなく、デコボコしています。そう、ちょうな仕上です。そして、これこそがオリジナルな床板だと言われています。だから、天守内部でもちょうな仕上のところはオリジナルと思われます。

当時は台かんなを使っていなかったのかと思ったのですが、床板の裏側は台かんなで仕上げています。ちょうな仕上の板を梁の上に載せるとがたつくからです。だったらなぜ表側はちょうな仕上なのか合点がいきませんが、戦の時に滑りにくくしているという説もあります。

もっと色々床板を調べたいのですが、天守に入れません。5年後ですね
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ちょうな 

2010年01月31日 | 作事
姫路城にはこんな模様の柱がいくつかあります。



これは「ちょうな」で仕上げた柱です。
ちょうなは昔の大工道具でこんな道具です。





このちょうなを神戸にある竹中大工道具館で見る事ができます。
http://www.dougukan.jp/

上の2枚の写真もそこで撮ったものです。
色々な昔の道具や木組が展示されていて大変面白いです。
ところで、初めの写真はどこの柱でしょうか?
もし分かったら貴殿はかなりの姫路城通です






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姫路城の隅木

2009年11月22日 | 作事
姫路城大天守を下から見上げると、屋根の隅木が一直線には並んでいない事がわかります。法隆寺宮大工、西岡常一が見ると叱られそうです。



五重塔(興福寺)と比べると一目瞭然です。



"Guide to Japanese Castle" のエリックにどう思うと尋ねたところ、
「望楼型だからでしょうか?」
さすがです
確かにそれも原因の一つだと思います。ただ、4方向微妙に振れ方が異なります。
それなのに、正面や横から見たら美しいプロポーションです。
ずっと疑問に思っていたのですが、広島大学の三浦正幸先生の説に思わずうなってしまいました。
「天守の作り方自体は大変に場当たり主義だったということです。普通、場当たり主義で作ると、このような大きな天守の場合、破綻をきたすはずです。それをこれほど見事にまとめた天守はほかにありません。」

きちんとした図面なんかなかったのではと考えてしまいます。



正面から見るとよくわかるのですが、2階建ての上に3階建ての望楼が建っています。後期望楼型の姿が見てとれます。
1階と2階の窓の位置を見て下さい。東側は1階で2階の窓の位置をずらしています。それは下方の盲点を無くすためです。ところが、西側は窓の位置がそろっています。その理由は長くなるのでふれませんが、三浦先生によるとその矛盾を誤魔化すために出格子窓を作り、そのままだと格好悪いのでその上に大きな軒唐破風をつけたらしいです。これは一つの例で、姫路城には場当たり主義的な部分が多くあります。

こういう所を指摘したのは多分三浦先生が初めてでしょう。さすが建築家です。

ちなみにこの写真はもちろん三左衛門が撮ったものですが、なかなかこのアングルは撮れませんぞ!(ちょっと自慢)
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