史書から読み解く日本史

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天下統一(始皇と呂不韋)

2019-03-19 | 始皇帝
何かと武帝に比較されることの多い始皇帝もまた、武帝とよく似た生涯を送った帝王です。
後の始皇帝こと嬴政がこの世に生を受けた時、祖国秦の君主は彼の曾祖父に当たる昭襄王でした。
太子の安国君(政の祖父)には二十人以上の子がありましたが、政の父の嬴子楚は人質として隣国の趙へ送られており、長子の政も秦ではなく趙の首都邯鄲で産まれ、そのまま同国で父母と共に少年期を過ごしています。
数ある安国君の子の中から、特に子楚が趙への人質に選ばれたのは、彼の生母に対する太子の愛情が薄かったためで、要はどうなっても構わないような捨て駒です。
それ故に子楚は秦の王族の一人でありながら、異国の地にあって衣食にも事欠く有様であり、もし秦と趙が事を構えるようなことになれば、真っ先に殺される危険とも常に隣合せの境遇でした。

その不遇の人質に呂不韋という衛の商人が近付いてきました。若く野心家だった呂不韋は、商人として各国を回りながら、大国の中枢に食い込む機会を狙っており、その突破口として目を付けたのが子楚でした。
何故なら近世以前の社会にあって、商人が最も確実に大金を稼ぐ方法は、王侯の御用商人となることだったからです。
ましてこれが秦という超大国の政商ともなれば、そこに生まれる利権は途方もない額になります。
但しそれは商人ならば誰もが夢見ることであり、諸国の方もそう簡単には一人の商人だけを信用したりはしないので、仮にどれほど有力なコネがあっても、売り込む側に余程の才覚がない限り実現するのは難しいのですが、元より呂不韋には自信があったのでしょう。

まず呂不韋が手を打ったのは、手元不如意の子楚に資金を融通して、秦の王族という立場で趙の社交界に参加させることでした。
もともと有能な商人である呂不韋が見込んだだけあって、子楚の方にも名士としての資質があったようで、次第に趙の有力者や著名人とも交際するようになり、その評判が秦にまで伝わるようになりました。
次いで呂不韋は子楚の故国である秦に渡ると、八方手を尽くして安国君の寵姫である華陽婦人に取り入り、子が授からないことで将来に不安を抱えていた夫人を説得して、趙に身を置いたままの子楚を彼女の養子に迎えるという奇策を成功させます。
これによって実母に対する父君の薄愛のせいで人質に出された男が、逆に父君の寵愛を受けながらも実子に恵まれなかった華陽夫人の養子になるという、凡そ誰も思い付かないような逆転劇が現実のものとなりました。
全く人間の置かれた境遇というのは、何が吉凶となって表れるか分かりません。

しかし時の昭襄王は、そんな子楚親子のことなどお構いなしに趙へ侵攻して邯鄲を包囲したため、危うく子楚一家は殺されそうになりました。
その窮地に子楚は、大金を投じて敵の役人を買収し、何とか趙を脱出して九死に一生を得たものの、妻子を一緒に連れ出す余裕がありませんでした。
残された政母子の方は、追手による捜索を逃れるため、一時的に信頼できる有力者に匿われており、その後も殺されることだけは免れています。
しかし子楚が逃亡したことで、邯鄲では一転して冷遇されるようになり、政は生涯この時の自分達に対する趙人の仕打ちを恨んでいたといいます。
やがて子楚が秦へ帰国した三年後に昭襄王は没し、太子の安国君が王位を継承(孝文王)すると、華陽婦人が王妃となり、子楚が太子に立てられたため、ようやく政と母親は秦へ送り返されることになりました。
時に政十歳です。

因みにこの母親というのが少々曰く付きの女性で、それが政の出自にも暗い影を落としています。
後に趙夫人とも呼ばれるこの女性は、もともと呂不韋お抱えの芸妓で、酒宴で同席した際に子楚が彼女を見初め、呂不韋に頼んで譲り受けたのだといいます。
そうした経緯もあって、邯鄲で二人が夫婦となった時には、已に彼女は呂不韋の子を身籠っており、やがて産まれたのが政だという説があります。
この手の噂話そのものは別段珍しくもないのですが、政を呂不韋の子とする件に関しては、『史記』の呂不韋伝でも史実として明記されており、当時から信憑性の高い秘話として広まっていたことが分かります。
無論これを一蹴する意見も多く、司馬遷の記事にしても何ら根拠がある訳ではないので、今となっては真実を知る由もないのですが。

昭襄王が没したのは西暦の紀元前二五〇年のことで、太子の安国君は一年の喪に服した後に即位しましたが、在位僅か三日で死去しました。
これが孝文王です。
確かに昭襄王の在位期間が五十五年にも及んだため、孝文王も五十歳を超えての即位であり、当時としては老齢に入っていたとは言え、在位三日というのは流石に尋常ではありません。
しかもその死因については殆ど伝わっておらず、果してそれが急死だったのか、何らかの病を患っていたのかなど、詳しいことは何も分かっていません。
ただ少なくとも現存する史料の上では、考文王の死は特に波乱を巻き起こすでもなく、同年中に太子の子楚が順当に王位を継承しています。
これが荘襄王です。
かつて捨て駒として敵国へ質に出された男が、遂に他の異母兄弟を差し置いて国王にまで登り詰めたのでした。

しかし話はこれで終りません。
その荘襄王も在位三年で世を去り、弱冠十三歳の政が秦王として即位することになります。
この間の経緯について多くの史料では、荘襄王は即位すると、趙夫人を王后、政を太子に立て、呂不韋を丞相に任じたと伝えており、一般的にはそれが広く信じられています。
確かに趙夫人が王后だったこと、政が太子だったこと、呂不韋が丞相だったことは全て史実なのですが、果してそれが荘襄王の即位と同時に決められたかとなると、当時の様々な状況から考察して、これを疑問視する向きも多いと言えます。
と言うのも秦は昭襄王の祖父の孝公が、商鞅を用いて法体系を整備して以来、王権絶対の法治国家を築くことで強国となっていましたが、俄に孝文王の太子となった荘襄王には、まだ国内でそれほど強権を揮えるだけの基盤はなかったと思われるからです。

まず趙夫人について言えば、彼女の存在が邯鄲時代の子楚の精神的な支えになっていたのは事実としても、元来が呂不韋の情婦であり、人質として孤独だった時には彼女の素性など気にしなかった荘襄王も、趙夫人が王妃として相応しいかどうかとなれば一考せざるを得ないでしょう。
少なくとも華陽婦人の養子として秦に戻った時点で縁談には不自由しないでしょうから、かつて他国で人知れず妻を娶っていたにしても、それは咸陽を離れていた若年期の私婚として一度清算し、趙夫人には改めて財産という形で報いてやれば済む話です。
元より男女の事は他人の及ぶ話ではありませんから、或いは荘襄王の方が夫人に執心していたのかも知れませんし、邯鄲での彼女の辛苦に王妃という形で報いてやりたかったのかも知れませんが、秦の王族や重臣達が趙夫人の立后に賛同した理由はよく分かりません。

同じことは政についても言えて、女性の妊娠期間がほぼ一定である以上、政が呂不韋の子である可能性については、荘襄王にしても薄々気付いてはいたでしょう。
無論自分一人が趙を脱出して、政母子を置き去りにした負目もあったのかも知れませんが、一方で荘襄王にしてみれば、まさか自分が在位僅か三年、三十五歳の若さで死ぬとは思いませんから、表向きは政を我が子として認知しておき、折を見て他の王子を後継者にする絵図を描いていたのかも知れません。
ただ豊臣秀吉と秀頼の関係にも見られる通り、周りは誰もがそれを当然のように否定しても、当人だけは我が子と信じて疑わない例も多々あるので、果して荘襄王が長子の政をどう見ていたかは分かりません。
また荘襄王のような社会的に地位のある人物の妻子に、下種の勘繰りを招くような過去がある場合、その当事者(ここでは呂不韋)は表舞台から姿を消すのが普通なのですが、却って呂不韋は秦国内で位人臣を極めており、それも含めて何とも不可解な話ではあります。

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