ハチメンドウ

面倒なこと、楽しいこと。

“やらない”のではなくて、そもそも選択肢にない。

2010年04月05日 | Weblog
 俺は野球を観戦しない。野球観戦が趣味の友人はことあるごとに俺に奨めてくるのだが、その度に自分の少ない語彙力を駆使し、友人に野球観戦しない理由を説明している。という一連のやりとりがあったので、当初はやらない理由について書き連ねるつもりだったのだが、途中から「なぜ俺がいちいちやらない理由を考えなきゃならないんだ」と思い始め、主題を“やらない理由の必要性”にして書くことにした。

何かを“やらない”と選択して行動したとき、他人は『なぜやらないんだ』と尋ねてくるが、俺は“やらない”という選択肢を選んだつもりはない。そもそも選択肢にないのだから。俺が野球を観戦しないのは、テレビを観る時に選択肢に“野球”がないからである。ここで、選択肢がない理由を考えてみたが、やはり無駄だった。“選択肢に無い”というのが理由でもあり、それ以上の理由を出したところでそれは後付けの理由で真意とは異なるからだ。

俺が募金をしないのは選択肢にないからで、手持ちのお金に余裕が無いからだとかそういう理由ではない。そもそも選択肢にないので罪の意識は感じられないし、あなたが募金をしなかったせいで誰かが死んだとか言われてもピンとこない(その“選択肢がない”ということが問題であると言うのなら、是非を語る術を持たない俺はただ受け入れるしかない)。

ただ、俺が“選択肢にない”という結論を出したのは、“やらない理由の真意”が捻り出せないからでは、とも思っている。月並みな理由しか出てこないのは“選択肢にない”からではなくて、その月並みな理由が真意なのか、或いはただ真意を自分自身が把握していないからなのか。とはいえ、実はそうであったとしても、その“やらない理由の真意”を捻り出せる人がそういるとは思えないが……。

結局、真実がどこにあるか、そしてそれが見つからなかったとしても「他人を納得させる用の理由」は必要なわけだが……。友人には引き続き野球観戦しない理由を説明し続けるが、やはり俺は“選択肢がない”以上の理由を見つけられずにいる。

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