人がいて自分がいる。
自分中心に社会が回っているのではない。
時には譲り合いも必要であろう。
お互いの意見がぶつかりあったときに我慢をしてしまうだろうか。
それとも我を張って自分の意見をこじつけるか。
自分の意見が通ればそれはそれで一番気持ちがよいであろう。
だが、社会ではそんなことばかりの行動でははみ出し者扱いにされてしまうことを考えなければならない。
譲り合いの心が必要である。
ある仕事をその畑でだけで経験し、管理職になったものは少しづつの自身(過剰)の積み重ねにより、ある種の錯覚にも似た経験を自分の実力として評価し、周りから見れば偏った仕事と思われているのに堂々と間違った(であろう)行動をとるときがある。
果たして、そのような人間は周りの自分への評価をどのように考えているのであろうか。
自分はこの道でやってきた、このやり方でやってきた、だからこれが絶対正しいことだと信じている。
それはそれで、その人なりの考え方であろう。
しかし、そこで自分への反省を考えてみるだろうか。
謙虚な態度で、人なりに、仕事に、或いは他の社会活動に通じることだと考えているだろうか。
人は生きる指標の中に何か自分軸を持って生きているはずである。
いや、そんな人ばかりではない。
これでいいのだろうかと、常に疑問を持ちながら、その時その時を妥協して生きている方が多いのではないか。
自分軸、これに揺らぎが無い人間はまっすぐにそれにしたがって生きてゆく。
しかし、それにはもろもろの枝葉を常に受け入れ、自分の中で租借しながら答えをだしているはずである。
社会活動の中には、一つだけの答えがあるとは限らない。
むしろ多くの答えを前提として、一つに絞っていくであろう。
その中には人の意見、を尊重しなければならないことが多い。
大人として行動していくためには、人と対峙したときに自我を通すだけでなく、多くの意見からの妥協をうけいれることも必要なのではないかと感じている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます