硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

  雪花(せっか)と土筆(つくし)と、

2011年03月30日 | エッセイ

 約30年前 当時16歳であった私が 高校の文集に特選された処女作の一部を掲載す

 

 

 

  雪花(愛しき人の死)と土筆(再生)と、

 

 私の16歳は、A高校で過ごしているが、ここは都内で指折りの名門私立校と言われている。中学部の時、突然母を失い、その後父をどんなに恨んだことだろう。八つ当たりしていたのである。年と共にイケナイことをしていたと反省するばかりだが、父はそれをじっと耐え、黙して、父なりの生き方を模索していたのだろう。そんな父の、淋しげな背中をみるにつけ、今度は私自身が独立して、キチンと自我を持たなければならないと痛感していた。得意だった数学を生かして理数系、しかも建築学に進むことになるのだが、 高校二年生の、と或る冬の日、国文の教師から、友人を喪失した現在の心境を書いてみないかと言われ、嫌々ながら書いたことのない私小説めいたアヤフヤな作文を書いたことがあった。現在もその創作が恥ずかしながら校誌に残っている。そんな訳で、母や祖母や友人や、私の十代は生命の喪失感で溢れていた。けれどもそれらをバッサリ振り切り、前向きに生きようと、亡き主人宅へ書生になる為に家を出た。無論学生時代からだったが、それから休むことを一切せず、主人が亡くなるまで必死に走り続けた。今は少々余裕があると言えば嘘になるが、結婚し子供に恵まれ、父と叔母の住む実家に帰って来れた。ささやかだが、望外の幸せと言うべきであろう。下記に、その私小説の冒頭部分を掲載することにする。 

 

  「雪花 (せっか)」 (満16歳の拙い創作)

  冬枯れのからからした東京にめずらしく雪が降った。冬休みに入った許りの十二月二十六日のことで、白い確かな雪に、仄かにも紅色を帯びた庭の山茶花が、暗闇に吸い込まれて行く頃、一通の電報が届いた。小諸のサナトリウムで療養する紀一の所から、急性肺炎の併発で危篤であるという知らせであった。

 夜半の松本行きの電車に乗った。車内の大半は折りしも志賀高原や白馬にでも行くのであろうか、艶やかなセーターを着た楽しそうなスキー客で占められていた。私は、それらの人と一緒になれない気分で、人のいない戸口の一番端の席に座った。また車内には十分な暖房があったのに、どこかの隙間から、冷え冷えとした風が吹き込んで来るのを感じていた。

 私は流れ行く遠くの灯火を眺めながら、夜通し眠れなかった。―――蓼科の私の山荘と、元々小諸の人である紀一の山荘がお隣さんであったことから、二人は小学以来の友人であったが、紀一は私と同じ高校で学びたいと、本校に入って来た。彼の下宿先も当家から程近く、時折わざわざ銭湯まででかけ、学校生活はどんなに楽しいものになっていただろうか。当家に下宿したらどうかと何度も勧めたが、東京に出てきたのは独りになりたかったからだと言い、どうしても同居することを嫌がった。紀一のピュアな精神がそうさせているのだろうと思われた。可笑しなことに、信州訛りの「づら」に苦しんでいる風で、他の級友には容易に口を開こうとしなかった。尤も本校の気風は自由であったから、誰にも虐められることはなかったし、私のように近所出身の同級生は少なかった。多くの級友は関東は無論全国からやって来る。紀一は子供の頃からシェリーやキーツを愛し、驚くほど語学堪能で、イギリス文学には通じていた。いつも何処か不平不満があるような顔をして、私と一緒でない時はオスカー・ワイルドなどを心行くまで堪能しのめり込んでいた。―――そんな彼を、私は息の掛かった暗闇の窓の、小さな数々の灯が流れてゆくのをじっと見詰めながら、寂しい気になってやしないか気掛かりで仕方がなかった。

 東雲時、小淵沢に着いた。南に赤石の山容、そして北より西の方の稜線が伸びているのが八ガ岳で、すっぽり雪に囲まれていた。然しそれらの山々は氷雨に翳んで、茫漠と、おどろおどろとしたモンスターにしか見えなかった。

 この駅で日本一の標高を誇る小海線に乗り換えた。甲斐路から信濃路へ。一路小諸を目指して5両編成の列車は喘いだ。清里を過ぎると一層乗客のいなくなった。車内の客はまばらで、この車外は冷え冷えとして、氷雨に苦しむ荒涼たる原野が続いて見えていた。

 野辺山から一人の若い男が、私の近くの席にポトンと座った。その男はどうしたことか、黒い毛糸のスキー帽を顔までかぶせてうつむいていた。佐久に近くなった頃、左手に僅かにそびえて見える蓼科山の山頂付近をすりつぶすように、その帽子共々顔をこすりつけ、突然咽び泣き始めた。

   曠野行く 小海の汽車よ急げかし 前の男の涙気になる

 その男は間もなく我に帰り、辺り構わず流した涙が恥ずかしかったのか、或いはそこが彼の安住の地なのか、佐久から程近い野沢で降りてしまった。外の氷雨はまだ降り止まなかった。

 浅間も過ぎた。この小海線の車列は、のろのろしながら、激しく氷雨降る小諸の町に着いた。

 

 以上、私が始めて書いた初の私小説「雪花」の書き出しの部分であるが、この後友人の死に立ち会うことになり、何故このような悲惨な出来事が起きたのか、長い回想部分をはさみ、通夜と簡単な葬儀をすることに。そして粛々と亡き友人を穏亡(おんぼ=火葬場にいる火葬管理人)に預け、煙突から見える煙を漠々として見納めている。最後に、友人の母親との別れと、空しい人生の実体験に驚く。年若い私が再び東京へ帰る場面で終わる。全文若き日の私が、一気呵成に書き上げた様子がありありと文章に読み取れ、懐かしいけれど、とっても恥ずかしい。その後このような作文をした経験が全くない。

 愛する人の死は予期せぬ哀しみを増大させる。夕刊を見ると、大震災や、想定外の大津波で亡くなられた方々の人数が書き改められている。たった独りの人の死だって、後年甚大な影響を与えるものなのに、余りにも悲惨な今回の災害は筆舌に尽くし難い。このところ毎日、放映される東日本大地震・大津波災害のニュースと、その事後処理と、驚くべき原発関連ニュースを見て、屈強であるはずの私の心情は爆発しそうになる。多分大方の日本人の心は被災者と同じぐらいに、心痛いことだろう。

 電柱に登って助かった男性は妹の手を離したが故に、愛する妹を激しい濁流に流され亡くしたと自分を責めている。車で逃げる途中、偶々シートベルトが外れず、でも奥さまが脱出できて助かり、ご主人は車ごと、黒い恐ろしい濁流に流され、津波の引き波にも呑まれて逝ってしまったと告白する初老のご婦人。生死の境を分けたその一瞬、溢れるようなそれらたくさんのニュースによって、生と死の境はまさに紙一重だということがまざまざと理解出来る。ドラマ以上の現実がそこにはいっぱい満ちている。そして多くの方々の死亡数を読み、最低でもその数以上の、それぞれのストーリーで紡がれる多くの哀しみがあるはずだろうことを想う。南の沖縄まで、日本人すべてが大きな喪失感と、或いはパニック症候群になりそうな状況ではないだろうか。火葬出来た方は未だ幸いかも知れない。が、ご遺族に確認されることもなく、多くのご遺体が土葬され続けている。

 それでも何とか明るいニュースがない訳ではない。残された者だけで、溢れる涙を堪え、被災者も一緒になって催された幾多の子供たちの卒業式がホッとするニュースである。子供の笑顔は実にいい。釜石市立鵜住居(うのすまい)小学校は全校で350人。最も海岸に近い小学校で、日ごろから津波が来る想定をし訓練していた。合言葉は「おはしも」。「お」は「押さない」の「お」。「は」は「走らない」の「は」。「し」は「喋らない」の「し」。「も」は「戻らない」の「も」。学校の時計は3時20分で止まっていたが、地震と同時に粛々と訓練通りに整然と実行されていた。見事にたった一人の犠牲者も出さずに済んでいる。それでも、高台の避難場所に行って、足許にも津波が押し寄せ、子供たちは臨機応変に対応、更に高い場所へ移動したから全員助かったとのだいう。子供たちの肉親やお身内が犠牲になっているはずなのに、何と言う達成感と明るさなのだろう。何と言うサプライズなのだろう。朝から晩まで暗いニュースだけで絶望しかねないこの頃、この日本沈没の国家存亡の危機に際し、未来を托せるのは、こんな子供たちでしかないかも知れない。「心まで流されないで!」。そういうセンテンスが現在の避難所の合言葉だという。

 以前何度も行ったことのある陸前高田の海岸べりに、高田の松原があった。美しい風景であった。あの松原も全部根こそぎ津波でやられ、但したった一本の松だけは気高く残されているらしい。何かの救いなのであろうか。日々集まってくる瓦礫の中にあった写真や貴重品など、大切な思い出であるはずで、愛するあなたが生きた証。どうにか生きて残ったご遺族の元に帰って欲しいと念じてやまない。一瞬にして何もかもが夢・幻になってしまう、大津波の恐ろしさは津軽・太棹三味線の名手、生前の高橋竹山師から伺っていたが、何もかも想定外のことばかりで、想定外であるからこそ、「天災」と言われる所以なのだろう。

 今回の被災地へ行き、日々読経して放浪していたい衝動を必死に抑えながら、我が家の仏壇や神棚に祈ることしか出来ない悔しさ。特に原発から20キロ圏内の被災地ではご遺体の収容もままなないと言う。何と言う哀しみだろう。書いても書いても書き尽くせないが、私はいずれ私が出来うることをしたいと念じている。どうか被災地の皆さま方、子供たちの笑顔をみて、きっと頑張って下さりませ。東京から、小さな春を!我が家の庭にヒョイと芽を出した土筆の写真を貼り付けましょう。

 広大無辺な日本の神仏に対し、千年にわたる悠久の時間に、いっぱい掛け算して紡いだ愛で溢れて欲しいと祈り、尚一層のご辛抱と、粘り強さと優しさに溢れた東北魂へ、御加護と御智慧が授かりますようにとお祈りを深めたいと存じ上げます。それが、私たち生きているすべての人に、人生の意味を確かに与えてくれることだろうし、亡き愛しき方々もきっと望まれておいでのことであろう。

 

いとしきあなたへ 土筆!