硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

    愛国 ムクの木に秘められた愛国とは

2014年10月10日 | 時事問題

 

 京都御所内にあるムクの木の大木

 

 

御所 ムクの木に秘められた愛国とは

 

 

朝日新聞の誤報謝罪以来 この記事には 三万字に及ぶ韓国の反日について書いていたが

産経新聞ソウル支局長の刑事告訴騒ぎが起き この種の記事を書くのが馬鹿馬鹿しくなって やめた

 

謙韓・悪韓・呆韓・恥韓・沈韓など 巷には多数の論文があるが 私なりの韓国論を書いていたのだ

 

亡き大叔父は 朝鮮総督府の役人であったし 身内にソウル郊外で煉瓦工場を営んでいた

先ず朝鮮人との 酷い関係を聞いたことがない ましてや従軍慰安婦など 存在しない

李氏朝鮮に 600年近く続いていた王朝を倒し 近代化の道を切り開いたのが日本である

李氏朝鮮末期のような大量虐殺や 戦後成立した初代大統領・李承晩がやった大虐殺もしていない

創氏改名も 近代的な土地改革も ハングルを含めた教育改革も 武断政治から文化統治へしたのも

我が朝鮮総督府であり 高度な政治判断により 西洋のような植民地主義とは全く違った治世をした

日本は赤字覚悟の経営をし 韓国のGDPを驚異的に底上げし 身分制度の破壊に手を貸した

 

李承晩が妄想で引いたラインの延長線上に 竹島問題があり 竹島は日本固有の領土である

歴史を顧みるのは あなたがた韓国のほうであり 最近朝鮮史は5000年から一万年まで上がったが

恥を知れ そして現実を見ずに 荒唐無稽なファンタジー史を 即刻やめるべきだ

 

あなたがたは 従軍慰安婦について 朝日新聞が謝罪したのを知りつつ

朝日新聞擁護論一辺倒で 日本の知的階級を代表する新聞だとし

何をどう謝罪しようが 朝日新聞しか評価しない 朝日新聞だけが日本の代表紙と思い込んでいる

朝日新聞は 反安倍一色であり 反右翼主義だから信用できると 馬鹿を申せ

 

そもそも朝日新聞・木村伊量社長の記者会見での謝罪には 全くなっていなかった

詐欺師・故吉田清治の記事引用は 根拠のないものだと 今更ながらであり 売国奴でしかない

福島原発の故吉田昌郎元所長に対する調書にしたって 大変な誤報であり その陳謝と言い

いわゆる従軍慰安婦に対する32年間にわたる連綿とした多くの誤報は まるで序で

国連のクマラスワミ報告への影響など ほぼ他人事で 意図的な新聞報道は

今更始まったことではないが 我が国の国益を大きく損ねた

 

朝日新聞には 己の国家である日本を愛する心が甚だ稀薄であり 

戦前戦時戦中 やれ行けと民衆を扇動した罪多き新聞なのに 戦後一変して 何食わぬ顔

更に戦後 戦勝国家の理論を背景に 現在でも続く自虐史観と 媚中・媚韓・そして反日

いずれの国家の新聞かと疑ってやまない バナナ事件や珊瑚事件の捏造も甚だしかった

一家で 多分一紙しか購読していない現状に 多くの国民は さぞや戸惑っていることだろう

我が家では 内外の新聞各紙と内外の雑誌を購読しているから その誤報にはとっくに気付いていたが

中国や韓国に対して 反日的な捏造を扇動するのは 実はいつも日本人 或いは新聞社なのである

ペテン師・吉田清治もそうだが 植村隆元記者や 何と国連を舞台にした反日弁護士もいたのだから驚く

戸塚悦郎であり 高木健一であり 又日教組を始め 社民党は今でも拉致を一切認めていないと強弁す

従軍慰安婦、強制連行はなかった

現在でも 迷走し続ける鳩山由紀夫の中国ヨイショ発言も 酷かった 元総理だから猶 困る

 

韓国自らが開いた建国があったのか 光復節ですら 昭和天皇の玉音放送のあった記念日で

米国が先勝に導いただけであり 自分の手で独立を勝ち取ったのは 北朝鮮の金日成ではないのか

 

無論 日本の軍人は 情けなくもその種の施設を利用したのは明らかだが

さりとて国家が主導した履歴は どこにも存在しない 韓国の女衒と日本の女衒がしたことだ

当時の大韓帝国の各新聞には大々的に その種の広告が載っており 貧乏な家の女性は

やむを得ず 春をひさぐことしかなかった 日本から渡った多くの女性もそうした女性たちであった

ヘイト・スピーチや在特会を批判しているが 朴槿恵でさえ 反発出来ない韓国・挺対協の解散こそ重要

無論 私はヘイトスピーチや在特会を擁護していないがね

 

韓国兵士によるベトナム戦争での数々の残虐行為や 

韓国兵士の強姦によって出来た 多くのライダンハンの存在

現在10万人もの売春婦 その輸出大国である韓国こそ 日本にモノを言える立場ではない

朴槿恵大統領は 時空を超えた俯瞰する歴史観を 全く持ち合わせていない 何処に誇りがあるのか

彼女の名誉があったのか 裁判で詳細に説明責任がある 歴代大統領の中で最たるポピュリストだ

反日を 韓国人の誰しもが踏み入ってはならない聖域で 親日を口に出す者は直ちに抹殺される風潮

韓国の歴史認識こそファンタジーであり 伊藤博文初代総理大臣を暗殺した安重根を祀り上げ

このテロリストが書いた文章の序文を読むがいい 如何にも程度が低い テロリスト以外何者でもない

延々と続く反日行為と発言こそ かの国家の品格は殆どない証拠である

 

因みに伊藤博文は 殖産興業を押しすすすめ 最後まで鎖国状態だった韓国を

韓国人自身による統治を進めていた経済派で 暗殺後 山縣有朋など軍備増強派に

取って代わられ その後永きにわたって 併合を余儀なくされた皮肉

 

韓国に 国語教師として赴任していたのが 我が愛する坂村真民先生であり

故郷・伊予松山の私立北予中学(現 県立松山北高校)に 校長として赴任し 最晩年まで

大奮闘した秋山好古は 毎年 学生を韓国へ修学旅行に連れていっていた

日本民芸運動を推し進めた柳宗悦は 朝鮮の古陶を収集し 韓国民族美術館を創設し寄贈した

朝鮮の友に贈る書 柳宗悦

柳とほぼ同時期に 浅川巧は植林事業で その身の殆どを韓国に殉じ捧げた

 

 

大昔 かの国家と国民とは まさに我が国と 隣近所の 普通のヨシミであったろう

 

但し馬鹿馬鹿しい件の状況を打開するため 正面からカマっていては いけません

日本は従軍慰安婦問題や竹島領有権問題など 明確に国際社会へ反論をしなければならない

ヤレヤレだが 余白の美学を尊重する日本人ではいけません ハッキリ物申すべきだ

 

 

東南の角にある京都御所のムクの木の樹幹

 

 

現在の韓国は 同じ民主主義の価値観を共有出来る国家では 断じてない

 

 ワシントンには CCTVが200名の現地スタッフを抱え 朝鮮人は不思議なムラ社会を形成し

戦時中強制収容された記憶の残る日本人も ブルトーザーのように巻き込み 喧しい!

 

どうも 李氏王朝時代の長き癖は抜けないようだし 誰でもいいから カリスマ性が必要とみた

勿論朴槿恵には カリスマ性は全くない上 25日の韓国ギャラップでは支持率40%で 歴代最低

親北・従北勢力に 何も気遣いしないで 国民みんなで 堂々と北朝鮮と同血種で 統一したらいい

 

世界の大統領・藩基文(最も卑しい両班=ヤンバン政治家)もいることだし 

今回ノーベル平和賞に上がったのだから 笑えて笑えて仕方がない

だったら 遠慮なく 金正雲のカリスマ性に頼ったらいい 核兵器を直ぐに所有出来るのではないか

今日産経新聞ソウル支局前で 激しいデモをしていた右翼だか分からないが 阿呆集団に違いない 

 

 

 

長州藩士・木島又兵衛 討死を記憶にとどめるムクの大木 久坂玄瑞はこの直後自害した

 

 

 上記ムクの木は 京都御所南東の角地に すっくと立っている

高杉晋作は反対したが 無念にも長州藩は「禁門の変」を起こし 当時の孝明天皇を激怒させた

朝敵の汚名を受けた長州藩・高杉晋作の次の一手は 観てきた上海のように 日本から独立し

軍事的にも経済的にも独立させることであった 夢破れ 大政奉還も見ずして 晋作は若干27歳で死去

幕末では多くの若者の死者を出し 孝明天皇のご宸翰を携えた松平容保が立て籠もる会津戦争も

半年間も 会津の死者に触ることを許されなかった悲惨さったらない

 

私には どちらともに 愛国の志士であったかと思っている

暢気に 小中華にオンブし アジアで最も遅くまで鎖国政策をとっていた韓国で こうした痛々しさはなく

常に 他人に難癖をつける習慣と国民性は いつまで経っても治らないようである

要するに 来春切れる日韓通貨スワップ協定など決して更新せず あの国家に構わないことが大切だ

 

かの国に構わぬ筈であったが これだけは どうしても書かせて戴きたかったのである

 

これからでも遅くはない 本当の独立の為に あなた方は自分で自分の尊い血の一滴を流すことだ

 


       「敬老の日」に

2014年09月14日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

能で 最も重要な面 「翁面」

 

 

「敬老の日」に

 

 

近年は独居老人の数が圧倒して多く 所謂家族崩壊が進んでいる

また徘徊するご老人も多く 行方不明になられた数も 圧倒的に多くなっている

尤も若者の 単身生活者が多いのも その予備軍として憂慮に堪えないのだが

私は 若い人の自死者が多いことに さほど同情的ではない バカヤロウと叫んでしまいたい

哀しいのは 戦前戦後 爪に火を点して生きて来られたご老人の自死 胸が張り裂ける程の痛みだ

都内では墓石をめぐる議論が絶えず起こり 近い将来に対し 痛惜の念をもって心配事が続く

 

私たち財団は三年前から その土地土地のご老人たちを雇用させて戴き

森への智慧や経験や 痛みや悲哀など ユトリ世代の若者たちと真摯に共有させて戴いている

 

孤高の画家・田中一村が描いた「薬草図天井画」

石川県宝達志水町の「やわらぎの郷」 聖徳太子殿天井に描かれている

 

 

   《 還暦 》

  人はたった一度の人生を出来れば長生きしたいと願うのは当然である。そしてその長寿をお祝いし、若者が主となってお祝いするのは、長寿にあやかりたいと願ってのことである。戦前まで、「人生50年」とされ、平均寿命はひどく短かったのである。信長の舞った幸若舞による「人生五十年」が、至極一般常識であったのだ。だから60歳まで生きたということは稀有なことだったのである。

 それが中国から伝来された十干十二支の数え方の影響で、暦年・歴日を算出していた。古代中国で始まった紀念法は、年・月・日を数え、それを記録する方法である。甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十干からなり、一ヶ月を三旬に割って、一旬十日の各日につけられた名前であった。もともと植物の生長段階に合わせた表記文字だったが、後年、それぞれに動物の名前をあてるようになり、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥とよばれるようになった。この十干と十二支の組み合わせでつくられたのが、俗にいう「えと」である。干と支を順に、甲子、乙丑、丙寅・・・・・・というように組み合わせて、癸亥まで、六十の組み合わせをつくり、六十一で最初の甲子に戻るというわけである。因みに、十干は、陰陽五行説に基づいて、木・火・土・金・水の五行からなり、更に兄(え)と弟(と)<=陽と陰>に配分されるため、例えば「甲」は木の兄、「乙」は火の弟、「丙」は火の兄・・・・・と言った具合に呼ばれた。従って、これに十二支を加えると、甲子(きのえね)とか乙丑(きのとうし)などというようになる。

 いずれにせよ、六十年を一サイクルにして、暦法を用いていたため、六十年で、その人その人の暦が元に還るので、これを還暦と言った。ただ現在の六十歳の方々は現役世代が多く、還暦のお祝いはそう嬉しくもないかも知れないが・・・・。

 昔は年齢を数える時、生まれた年を一歳と呼んだために、六十一歳が満六十歳となったので、六十一で還暦と称された。還暦になると改めて生まれた歳と同じ干支名をつけてゆくことになるから、赤ん坊に還ったと言う意味で、赤いチャンチャンコと烏帽子を贈ってお祝いする習慣が成り立ったのである。これはかなり古くから行われた行事らしいが、庶民の間で一般化したのは江戸時代からであった。そして還暦になると、公職や家長の座から退いて、隠居生活に入ると言う風習も戦前にはあったようである。「今まで家族のために働いてくれてご苦労さま!これからは充分に人生を楽しんでくださいね」と言う謝意であったろう。ところが現在ではご老人の呼び名が非常に高齢になってきている。団塊の世代の方々が圧倒的に多い所為でもあるが、六十と言っても何々楽隠居なんか飛んでもないと言うわけで、政府では七十でも現役として働ける政策があるようである。シニアの活用と女性の活用が成長戦略に欠かせないというのである。何だか余裕のない乾燥した考えのようで、人それぞれと思うが、第二の人生こそ別個な重要な人生があるではと申し上げておきたい。

 

 

どうやら赤いチャンチャンコは流行っていないらしい ケーキとか薔薇とかが贈呈されるという

尚この薔薇は6年ほど前 99歳亡くなられた近所のお爺様の作で 大事な薔薇である

 

 

    《 古稀 》

 古代社会では、四十歳から始まって、五十歳、六十歳と十年ごとの長寿のお祝いをしていたが、還暦の風習が廃れると、最後に七十歳の年祝いだけが残った感がある。中国盛唐時代の大詩人・杜甫の『曲江詩』に、「人生七十古来稀なり」とあり、稀な長寿を祝う習慣は今でも行われているのだろうか。これを「古稀」という通過儀礼である筈だが、筆者には超高齢化となった現日本には、ご長寿の数が世界一となり、何とも心もとないこの記事であろう。

 

 《 喜寿・米寿・卒寿・白寿 》

 七十歳まで生きるのが稀であった時代からすると、更にそれ以上のご高齢者はもっと珍しく御目出度いことであった。それこそそこに日本独特な智慧でお祝いをする儀礼があるから、序でに書いておこう。即ち「喜寿」と言うのが七十七歳のお祝いだが、これは「喜」と言う字を草書体に崩して書くと、七を重ねた文字になり、これを七十七と読んで、「喜寿」としてお祝いしたものであろう。

 「米寿」は「米」の字を分解すると、八十八になることから、古来お米を主食とする日本人らしい発想のお祝いであるだろう。「卒寿」は、「卒」の字を草書体にして書くと、九と十になることから、九十歳のお祝いになるということである。但し米寿と卒寿では一年と数ヶ月しか経っていないので、通常米寿より、卒寿のお祝いが多いように思われるが、如何だろうか。「白寿」と言うのは、「百」から「一」の字をひくと、「白」と言う字になることから、九十九歳のお祝いで、我が家では高祖父が百三歳まで生きたので、それこそお祭り騒ぎのドンチャン騒ぎだったらしい。

 このように、色々なことにこじつけ、判じ物みたいな工夫を凝らして、長寿のお祝いをする日本人独特な生活習慣は、今や有名無実化しているのが淋しい限りであると言えなくもない。長寿に限らず、七五三から始まって、十三歳の歳祝いや十九歳のお祝い(女の子のみ)や、二十五歳や三十三歳のお祝い(女の子のみ)や、四十五歳のお祝い(男の子のみ)や、四十九歳の年祝いがあり、豊かな文化があったと言えようか。長寿のほうも、前掲の年祝いの他、七十三歳や八十五歳の年祝いもあったようである。また厄年と祝年の混同する時期もあったようだが、いずれにせよ、幼い者に対する思い遣りや、ご老人に対する尊敬の念を表す、こうした習慣は今後なくなって欲しくない心情である。犯罪まで、アメリカに追随してゆくような、サミシイ文化の日本ではない筈なのだから。

 

当家に二人いるご老体が好きな 各種お寿司を用意してお祝いをしている

 

通過儀礼と言って それぞれの年齢に合わせたお祝いがある一方で

去年一年間で 認知症などによる徘徊によって 何と一万人以上を超えるご老人が不明であり

警察に届けられた方だけで 1万322人で 統計を取り始めた一昨年より 715人も増え

中でも深刻なことは 既に亡くなっている行方不明のご老体は388人もいて 増加傾向だと言う

GPS機能をつけたほうがいいとか 何だかとってもウスラ寒い思いがするのである

 

また100歳以上となる高齢者は5万4397人で  過去最多を更新したことが

13日「敬老の日」を前にした厚生労働省の調査・発表で分かった

前年から3021人増え 43年連続の増加となり 今年度中に100歳になる人も過去最多の2万8169人と

都道府県別の人口10万人当たりの人数では 島根が高知を抜いて2年ぶりに1位となったようである

幸不幸 糾える縄の如くであるが 長寿のお祝いを 一先ず本ブログで心より申し上げておきましょう

 

多数を占める老人問題は 目線を低くして見るべきである

墓石やら戒名の問題やら それを看るべき不可欠な家庭環境の問題やら 介護の問題やら 

若者を含めて 単身家族時代が到来し 更に多くなってしまったことへの自責はあるのだろうか

 

能楽では 老女物が最も重く難曲で 稀代の名人でも なかなか演じ切ることが出来ないものである

それだけに 「老い」の問題は 社会変化に合わせ 日本人の矜持として考えて行くべきであろう

 

 

年老いて 益々美しさを増す能の女面 (増女と老女面と)

 


      広島・土砂災害事故は人災だ

2014年08月31日 | 時事問題

広島 土砂災害現場で働く救助犬たち

 

 

         広島・土砂災害事故は人災だ

 

  

 地球規模の温暖化現象であろうか、日本各地では想定外の集中豪雨が多発した今夏であった。台風なら、或る程度予測可能であろうが、突如積乱雲が発生し、集中豪雨が発生するのを予測するのはとても難しいことだろう。高知県では8月に、晴れた日はたった三日間だけだったとか、九州各地も酷い。京都や福知山の洪水も悲惨なものがあった。収穫を前にした北海道の集中豪雨も酷かったようである。特に、広島市における土砂災害は聞きしに勝る悲惨さであった。冒頭に、被災され、亡くなられた方々に、衷心から哀悼の誠を捧げたい。

 広島・土砂災害が起きて、直ぐ友人宅に電話したら、全く応答がなかった。安佐南区八木の住人で、JR可部線の線路脇にあったから、気が気でなかったからだ。雨の降りしきる中を、何とか現地入りした私たちの目の前に広がって見えたのは、何とも恐ろしいほどの自然の驚異で、まるきり広島市内の範疇に入る住宅地であった。幸い友人宅は無事であったが、何故連絡が取れなかったか、それこそ、電話に出るなどの余裕は全く持ち合わせていなかったらしい。私たちは市内のビジネスホテルに拠点をおき、しばらく様子を見ようということになった。翌日よく晴れて、私たちは角スコップ(若干の剣スコや全員の長靴や軍手も)を購入し、前日義捐金を渡した広島市の社会福祉協議会の指示を待ったが、一向に指示がないために、仕方なく、友人と私たち自身で、ボランティア受付を設置し、ごく手前のヘドロ除去から関わった。然し圧倒される巨大な石灰岩や、握っても固まらない真砂土を、友人の指示とともにコツコツと掻き集めた。そうこうしているうちに、再び雨が降ったりし、自衛隊も導入され、警察・消防など、3300名ほどの一体化された救助活動が始まった。何と「恩返しだ」と言う岩手からやって来たボランティアの方々もいたが、市役所の指示は、後手後手に回り、10日目にはとうとう他所から来たボランティアは一切排除され、広島県民や市民だけがボランティアとして現地活動が許されるようになり、私たちは、仕方なく一斉に引き上げた。こうした一連の対応を巡って、冷静沈着に、この事故の背景を探ってみよう。

  国交省の調べによると、全国土砂災害の危険個所は、32万5307ヶ所にも及んでいる。そのうち、砂防ダムが建設されているのは、たった20%に過ぎない。その内訳は大都市部に集中し、対策の整備率はそこそこあっても、よく考えてみると、それはあってなきが如くである。更に驚くべきことは、それより上回る35万4769ヶ所が危険個所と認定されているが、そのうち17万ヶ所が危険個所として、未だに指定されていない現状である。火山列島である我が国の実情に合わせ、危険個所の形状や土質など、出来るだけ速やかに細やかに分析・調査し、危険個所を調べあげ、各地の住民に公開、伝達するべきではないだろうか。

 今回、安佐南区の山本エリアから、安佐北区の可部東や三入までの広いエリアの中で、土砂災害地区として特別警戒地区にされ、市はいち早く、その指示を出したのは可部東地区だけだったが、何と他のエリア、つまり安佐南区に出したのは土砂災害が起きた一時間後の朝の4時半だったから驚く。被災地で見た止まった柱時計の針は3時15分のまま止まっていたのだから。確かに難しい判断であったあろう。然し市は詳細な土質調査をしていたにも関わらず、この結果である。八木地区中心にした住民に対し、その説明をする直前であったとも言うから更に驚く。被災地は安佐南区の山本から始まり、緑井、そして最大被災地の八木へ。更に安佐北区の可部や三入へと、延々と続く。双眼鏡で、タクシーを走らせ、山を背負ったエリアづたいに、事故があった山筋を観ると、何と20キロも続いていただろうか。今年のように、突如ゲリラ豪雨が発生し、土砂災害まで短時間で起きる予測は、気象庁ですら難しいもので、だからこそ一行政としては、かなり難しいだろうけれど、友人の話を聞けば、真夜中3時15分には巨大な土砂が既に流れていたという。市が危険警報を発したのは4時半であったのが、とても不思議。まして午前3時になる前の、八木地区では避難しようにも、道路は既に濁流と洪水状態で、避難は極めて困難であっただろう。今日現在で、72名(他2名は捜査中)の死因のすべてが、ヘドロによる窒息死であったようで、被災者はあっと言う間に土石流に飲み込まれ、窒息したのだろう。生存確率が高いとされる72時間の壁の目安は、ほぼ絶望的状態であったかと思われる。こうした事例では、国交省や気象庁任せではなく、その地に最も近い自治体独自の判断が、一番大事ではないのか。注意報から災害警戒区域への格上げは勿論、特別警戒区域への格上げは、いち早く各自治体の役所でやってもらいたいものである。空振りになったとしても、勇気を持って行うべきではなかろうか。今回の事故で、最も驚いたのは、砂防ダムが上流にある谷間の下部に、安易に宅地開発と住宅建築が許されていたことだ。明かに人災に他ならないのではないか。

  更に八木地区で驚いたのは、石灰岩が砕けて出来る真砂土(マサド)が殆どで、然も岩盤が極めて浅い。こうした土質は短時間の降水で膨らみ、あっと言う間に土石流が発生してしまう危険性があるのだ。八木地区の傾斜30度もある山の途中から、恐らく50キロ以上のスピードで、一気呵成にJR可部部線の付近まで流れていったものと思われる。広島大学のある先生の解析によると、最大時速144キロも出ていたとか、そら恐ろしい極みである。そして最も驚いたのは、宅地課や建築課は、何を見ていたのだろうとかと言う不信感が大きく残った。一時の都市再開発ブームにより、本来建築許可を出すべきではない土地へ、宅地開発や建築許可を出してしまった行政の責任は極めて重く大きい。水路は大きな岩石により、忽ち別な流れとなり、本来考えられなかった部分が急流となっていたことに驚く。因みに、特別警戒が出された安佐北区の可部地区では、たった一人の犠牲者も出していないではないか。そして更に驚くことに、古老に聞くと、八木エリアは古来水害や土石流が多く、特に今回被害が大きかった八木三丁目は、「八木邪落地悪谷」と名称がつけられ呼ばれていたと言う。真偽のほどは別にしても、地名の変更は、古来からあった出来事や記憶を覆い隠してしまう恐れが多いのではないだろうか。これはまさに近年の町名変更ブームや、合併による地名変更ブームに、大きな問題提起として、一石を投じるものではなかろうか。冷静沈着に考えて戴きたい課題である。今回の礼文島であった土石流でも2時間前に、特別警戒や避難指示が出されていた。昨年あった伊豆大島でも、8時間前に、特別警戒警報が出されていたが、共産党員の町長は、当時視察として訪問していた隠岐の島に在島し、隠岐の島内のキャパクラに行っていて、伊豆大島にはいなかったのが、記憶に新しいが・・・・・・。

  戦後日本では、災害対策基本法第63条に基づき、「警戒区域」が制定されたが、同法60条の規定とは異なり、警告は罰則付きで区域内への立ち入りが制限・禁止され、許可なく区域内にとどまる者には退去が強制されるため、慎重の上にも、より慎重な判断であるべきだとされているようで、多くの場合、避難勧告程度でしかなく、聊かむず痒い気がしないでもない。時には強制性を伴う法的解釈が断固として必要不可分であるだろう。特に、今回の事故で分かるように、八木三丁目地区などは、確実にそうあるべきである。

  ではどうしたら、私たちは今回のような不測の事故に合わないで済むのだろうか。それは国交省を始めとし各県庁にも、各市町村自治体には、かなり正確なハザードマップが必ず存在している。すべて公開されているが、果たして何処まで活用されているのだろう。土地を求める際、盛り土(一度掘って埋めた土が地山に帰るのは一億年かかると言われている)か、地山か、最低そのくらいの予備知識は確実に必要であるし、「山を背負っている」か、「谷に面している」か、当然知っておく必要があると言えよう。生涯最も高い買い物である自宅を求める際、最低必要不可分な知識である。浦安の液状化現象は、なるべくしてなったのだと、予め知っておく必要があると言えるだろう。奈良県十津川村では、大昔十津川の下部の渓谷に村落があったが、災害の度に、山へ山へと宅地を伸ばして行ったようで、天領で無税扱いだった十津川郷士の誇りは、その存立を賭けて、智慧を絞って今まで生き延びてきたのである。

  都市部、就中今回の広島市での避難勧告基準では、72時間-地中に沁み込む雨量=実効雨量として、ちゃんと決めてあったにも関わらず、何と言う後手に廻る体制だっただろうか。いやいや広島市に限らず、全国津々浦々の市町村にも当て嵌まる課題であろうと考えられる。世界の中で、自然災害の最も多い我が国は、世界一高い予知能力と知識と知恵を兼ね備えてもらいたいものである。そうして出来た日本人の民族帰属性を示すアイデンテイティーこそ、謙虚さと生存への力強さとを兼ね備えたものと断言してもいい。

 サッカー小僧だった子の亡骸を送る少年たちの声が、未だに耳に残って仕方がない。結婚したばかりで、お腹に子供を宿したご夫妻のご遺体が確認されたのも痛々しい。悲劇は相変わらず、我が国について廻るが、生き残った者たちで、何としても智慧を出しあい、明日への活力にしていきたいものである。南無大師遍照金剛!

 

各地の地名変更に疑義あり

 

<広島土砂災害>豪雨情報、広島市放置 「1時間70ミリ」

毎日新聞2014年9月1日(月)01:13

 広島市北部の土砂災害で市の避難勧告発令が遅れたとされる問題で、広島地方気象台が発表した「1時間の雨量が70ミリに上る」などと注意喚起するファクスを、市が見落としていたことが分かった。市によると、災害が発生した20日の午前1時台から、気象台や民間気象情報会社から注意を促す電話が何本もかかっていたが、市が避難勧告を出したのは午前4時15分だった。市が混乱の中で、刻々と変わる情報に対応しきれていなかった実態が浮かび上がった。

 気象台は20日午前1時15分、市が避難勧告を出す指標の一つとしている「土砂災害警戒情報」を出した。気象台によると、同時刻ごろ、担当者が市に電話を入れ、「警戒情報が出ました。危険度が高まっています」と告げた。1時49分には全県を対象に「1時間の降水量は多い所で70ミリに上る」との情報も出した。この情報は市が契約する気象会社からファクスでもたらされたが、市によると他のファクスに紛れ、放置していたという。

 1時57分には気象会社から「安佐南区の積算雨量が100ミリを超えた。朝4~5時までは強い雨が続く見込み」という電話連絡があった。2時36分にも、安佐南区で降雨量を示す5段階の「レベル5になった」、「あと1時間程度は雨脚の強い状況が続く見込み」と相次いで注意を促す連絡があったという。これに先立つ午前1時50分、気象会社は「午前2時以降の時間雨量が1ミリか1ミリ未満」という予報を出していたため、状況の急変を知らせる目的だった。

 市は「100ミリを超えたと言っても避難勧告を出す際の目安(安佐南区八木・緑井地区で160ミリ)には遠いと考えた。最初に『1ミリ程度』の時間雨量予測もあって判断が難しい状況だった」と説明。ファクスの見落としは「河川の水位が急激に上昇しており、対応に追われていた」とし、「1時間に70ミリ」の雨量については「対象が県全域で時間帯も書いていなかったため、仮に気づいていても対策に生かせたかどうかは検証が必要だ」としている。【高橋咲子、入江直樹】

 <これは今朝Gooニュースで流れたばかりの記事で、そのコピペである。人災だと断言した私の記事は少々荒っぽかったように思えるが、直接市庁舎に行ってみると、危機感にやや乏しさを感じられてならなかった。そして広島県民や広島市民だけをボランティアと認めるような狭窄な行政に、大いなる疑問と不信感を抱かざるを得ない。市民のために存在する広島市行政機関の猛省と、今後に強力な指針として戴きたいものである 硯水亭>

 


     西馬毛内の盆踊り

2014年08月28日 | 祭り・民俗芸能・民間信仰

西馬音内の盆踊り(にしもねのぼんどり) 端縫の衣装を纏う

 

 

 

西馬音内の盆踊り

 

 

毎年、旧盆がくると、

秋田県羽後町西馬音内では、日本一流麗な西馬音内の盆踊りが踊られている。

お囃子方は大太鼓、小太鼓、鼓、三味線、笛、擦り鉦と、甲高く勇ましい歌声で賑やかだが、

「音頭」も「がんけ」も、編笠やひこさ頭巾を被った踊り子の手足は、その賑やかさを嘲笑うかのように、

流麗で、素晴らしい。小生も何度か踊りの輪の中で、挑戦してみたのだが、土台無理で断念した。

それもその筈、西馬音内では、モノ心ついた時分から、親兄弟から手ほどきを受けている。

 

衣装は「端縫(はぬい)」と、手しぼりの藍染の衣装で、暗闇に流れる美しい踊りに、

一層深い情味を与えている。端縫は絹布で、昔、華美になるからと、ツギハギを命ぜられ、

今のような端縫になったようであるが、この盆踊りの由来が不思議にも、まるで分かっていない。

そこがまた、興味のそそるところとなり、私は数年に及んで通ったことがある。

 

8月第一日曜日に、街じゅうが「端縫」や「藍染」の美術館となり、各家で展示される(虫干しか)

 

被りものは、両端が尖った編笠で、前に深く被っているから、踊り手の顔が見えない。

更に「ひこさ頭巾」と言い、この盆踊りを亡者踊りと言われる不思議な頭巾を被り、これも顔が見えない。

庄内地方で言う「はんこたんな」や、由利地方の「はなふくべ」似の、農作業用頭巾なのだろうか。

 

能などによる舞の世界での「幽玄」はあるが、踊りにも「幽玄」があるとは驚きである。

この盆踊りと、「郡上踊り」と、「阿波踊り」で、日本三大盆踊りと称されているようだが、

小生は阿波踊りを、「輪踊り」ではないために、盆踊りの範疇に入れていない。蜂須賀家に対し、

徳島の民衆が献上した民衆芸であったのではないかと、どこかで確信している。その代わりに、

熊本県菊池市の「山鹿灯籠祭り」が、輪踊りで如何だろうかと、いつも思うが、無理だろうか。

 

空也上人が始めた踊り念仏を起源とし、一遍上人で定着したとされるお盆の行事で、

帰ってきた御霊の送りをし、安らかんことを願う盆踊りの習慣は、そもそも佛教的行事であろうが、

古代、7月1日から始まる七夕さまも入っていたはずで、佛教伝来、そして布教が進み、

七夕さまだけが遊離して、盂蘭盆会が独立し、今日に至っているのである。

 

七夕の語源になった「棚機(たなばた)」の習俗・習慣は現在でも探せば点在している。

 

「ひこさ頭巾」での西馬音内の盆踊り 摩訶不思議な魅力がある

 

西馬音内の盆踊りのお囃子は、秋田音頭に似て非なるもので、なかなか威勢がいい。

 

♪ お盆恋しや かがり火恋し まして踊り子 ササ なお恋し (がんけの歌)

 

♪ ホラ 西馬音内(ニシモネ)言葉(コトバ)集めて(アズメデ)見たれば(ミダレバ) 

何たらヤラシクニャ エッピャダバ デケニャ ビャッコダバ 

ヤンカ ンダダテ ンデネガショ (地口の歌)

 

恐らく何百もある歌唱では、当然この地方の方言で謳われており、「音頭」に比べたら、

「がんけ」の詞章は物悲しく、だが踊りは力強くて、流麗だから不思議な踊りである。

 

藍染の衣装を着て、イグサで作った編笠を被る 端縫の他こうした藍染も素敵

 

 

 もう直ぐ、越中・八尾では、おわら風の盆が始まるが、これはお盆の行事ではなく、

養蚕や農事への予祝の行事である。また各地に残る地蔵盆は子供を対象としながら、

地蔵信仰が中心となり、いつしかお盆の期間中に行われることから、

地蔵盆と呼ばれ、お盆の行事の一環となったのであろう。

地蔵盆の盛んな京都周辺では、あの大増水被害で、今年はどうだったのだろうか。

 

端縫を着た踊り手 「がんけ」の振付

 

祭りとは、広義の意味で、「ハレの日」とも言えようか。

そうして、旅に出て、祭りのただ中に身をおいてみることとは、

すべての困難や悲劇など、謂わば「ケ」や「ケガレ」を祓いたまいて、

自分の現在の立ち位置を変えてみるのに、打って付けの場所ではなかろうか。

 

6月半ば、紫陽花の美しい時季に、ひとりのご老人が自死され亡くなられた。

南三陸から、山形県南陽市の次女宅に避難していたS氏は、

妻・長女夫妻・孫三人を同時に津波で流され、独り生き残り、頑張っておられたが、

三年三か月の月日は、よほど重かったのだろうか。当時82歳、

私たちと、山櫻の苗木を植え廻っていたし、頗るお元気な方であった。

この拙記事を、渾身より頑張られたあの御方に、心より捧げたいと存じるのである。

 

町中に立つ囃子方の舞台

 

羽後町観光物産協会「西馬音内盆踊り」案内ページ

 


       「花子とアン」 ほか日乗

2014年08月19日 | 季節の移ろいの中で

 

NHK朝の連ドラ「花子とアン」の元本

 

 

 

「花子とアン」 ほか日乗

 

 

  随分久しく、このブログを更新せず、我が尊敬する木村草弥さまからの激励のメールを受けてから、

既に半月以上も経ってしまった。殆ど自宅を中心にいるのだが、逆に忙しいのは、何故だろうか。

折りしも先日は、69回目の「終戦の日」。お盆の行事とあい重なって、佛事や神事が多い。

NHKとアメリカABC放送で共同制作されたドキュメンタリー映画・「映像の世紀」によると、

私たち日本人の戦争観が如何にも狭い。日本映画専門チャンネルでは「回天」や「中野学校」など

この大切なお盆の時季に、臭い軍事映画のオンパレードであり、甚だ不謹慎。

官民で310万人もの多大な犠牲者を出したことも、何処吹く風。

余りにも戦争を知らない世代が多いことか、私も含めて、キリキリと自責の念が湧いてくる暑い夏の日。

 

朝の連ドラ「花子とアン」を日々楽しんで観ているが、上記の本の物語でもなく、

中園ミホという脚本家の世界であり、史実とかけ離れているというか、どうもピンと来ない。

今年の櫻の時季に、120名ほど集まって戴いたカルチャー・スクールで、私は講演をした。

『東洋英和学校の設立と女子教育の意義 片山廣子と宮崎子と村岡花子と』と題してである。

私はもともと実証主義者であるから、徹底的に調べあげ、小さな講演でも原稿を準備する。

その視点で、この連ドラにモノ言えば、余りにも不満が残り、我が講演を聞いた御仁からも、

質問が多く寄せられ、甚だ迷惑しているが、ドラマ構成上、人気が取れれば何でもありというのか。

脚本家が悪いのか、プロデュースが滅茶苦茶なのか、判然としないが、酷い出来である。

世間では、「取材力の中園ミホ」と評判なようだが、私の見解では、そこが極めて疑わしい。

 

先ず花子の成長物語として書かれていないこと。初っ端から「想像の翼」とはアンを意識してで、

子とはなを「腹心の友」としているのも同様であり、赤毛のアンが色濃く散りばめられている不思議さ。

表題に出てくる場面も、プリンスエドワード島であり、創作として最初っから破綻しているではないか。

 

第一に、片山廣子を紹介していないのが、

最も不満があるところで、原作にも登場しているのに、何故?

片山廣子は、芥川龍之介が学生時代からの憧れの存在で、

自称弟子と称した堀辰雄にも多大な影響を与えた。

芥川最晩年の著書「或阿呆の一生」で、「才力の上にも格闘できる女性」と表現し、

『相聞』では「君」と歌われた程。

堀辰雄の『聖家族』では細木夫人に、『菜穂子』では三村夫人のモデルになっていて、

芥川表現の「越し方」である廣子のお嬢様・総子が、

堀辰雄の「聖家族」の絹子や、「菜穂子」の菜穂子のモデルになっている。

その片山廣子とはどんな方だろうかと思われる方々は、月曜社から出版されている、

片山廣子著『燈火節』をお読みになられるといい。こんな素敵なエッセイがあるだろうか。

驚く程、上質な品位を感じさせ、この方の生きた時代を考えれば、その高さがうかがえよう。

片山廣子は、鈴木大拙夫人ベアトリス・レインに、アイルランド文学の翻訳を薦められ、

多くのアイルランド文学の翻訳を、松村みね子の筆名で書いたが、知識水準も相当なものである。

又佐々木信綱に師事し、たくさんの歌も詠んでいるが、『燈火節』は、それら歌や翻訳ものではなく、

殆ど彼女のエッセイで綴られており、アイルランド文学の発想や陰影が色濃く投影され、

気高く凛とした品位の高さを感じられることに、今でも新鮮さと、充分な教養を感じられる。

どの篇から読んでもよく、素敵な本である。私は時々、彼女の『燈火節』を読むのが、

近頃の私の癖になっているぐらいである。

 

昵懇の芥川龍之介や堀辰雄の他、室生犀星や萩原作太郎、そして菊池寛にも慕われ、

「くちなし夫人」と呼ばれた。梔子の花かと思いきや、なんとなんと!

他人から聞いたことを一切他言したり、披歴しなかったことからの「クチナシ」であった。

特に自宅を「馬込文学圏」として開放。文学者だけではなく、

川端龍子や伊藤深水や小林古径など、錚々たる画家たちも、そのメンバーであった。

42歳で、日本銀行理事であったご主人を亡くされ、

46歳で、軽井沢の「つるや旅館」にて、芥川と一晩過ごしたが、

無意味で、ゲスな詮索は全く不要である。文学上の真摯な恋心であったと断言しておこう。

 

 

片山廣子像

 

 この方と、東洋英和女学校で、同窓で友人だったのが、

柳沢白蓮(本名・宮崎子)であり、村岡花子で、片山は一番の年長であった。

麻布十番の反対側のところを鳥居坂と言うが、その坂の途中に明治時代、

政府から許可がなかなか下りず、やっと出来た女学校が東洋英和学校で、

後に、学校に読む本がなくなると、廣子は、花子に、自分の英文蔵書を全解放し、

具体的に最初に、ある本で翻訳を進めている。

その本こそ、劇中に出てくるマーク・トウェインのThe Prince and the Pauper(王様と乞食)だ。

それほど決定的に、多大な影響を受けた花子であったわけである。

東京っ子だった廣子だが、花子が蒲田に引っ越すと、廣子も近くに引っ越しし、

先輩・後輩としても、とても仲がよかったと思われる。それでも村岡花子にとって、

「腹心の友」ダイアナのように存在していたのは柳沢子であったのも事実であろう。

短期間しか在学していなかった白蓮は、やがて九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門のところに、

義兄・柳沢義光が貴族院に出馬するための、酷い政略結婚であり、相手は色々と立派なこともしたが、

おんな癖が最悪で、白蓮は9年間も、よく堪え得たもので、生涯孫文を手助けし援助した

7歳年下の宮崎滔天の長男・龍介と、熱烈な恋愛をし、初めて女の歓びを得たものである。

朝日新聞紙上に、離婚宣言をしたのも事実だが、自ら選んだ、初めての結婚相手でもあった。

ほぼドラマ通り筋書きであるが、伝右衛門は、ドラマ構成上、特別素敵に見えるのは何故だろう。

大正天皇の従妹に当たる由緒正しき貴族の出だが、白洲正子の「お公家さん」という本を読むと、

正子独特な言い回しで、「不良公家」と言い放ち、賛否両論があったのは事実だろう。

時代は「姦通罪」があった時代で、思いを遂げた白蓮は幸せだったはずである。

 

大正三美人と謳われた宮崎子像(後の柳沢白蓮)

 

「花さきぬちりぬみのりぬこぼれぬと 己れしらぬまに日へぬ月届かぬ」

子は日蓮宗信仰で白蓮と号し歌を詠んたが 歌の殆どは私小説そのもの

 

従って、同校で、片山廣子を長女とするならば、白蓮は次女で、花子は三女に当たるだろう。

廣子(1878~1957)、白蓮(1885~1967)、花子(1893~1968)の、年の差である。

でも東洋英和学校の同期であり、三人とも、歌人・佐々木信綱の弟子であったことも面白い。

 

村岡花子像

 

「花子とアン」では、花子の詳細な心の成長物語が然程感じられないのが致命的であり、

養女の娘である村岡恵理さんの原作にも、かなり逸脱しているが、恵理さんが歓んでいると聞き、

私事ブツクサいうのは、大概にしなければならいのだろう。

花子はプロテスタントの熱心な教徒として、その生涯の成長が記憶され続けており、

質素・倹約・誠実という、その教義そのものの生き方をした人であった。

 

花子が村岡敬三と結婚したが、その結婚式を山梨で挙げたこともウソで、

東京・築地の築地教会で挙げている。それはフィクションもいいところである。

例えば花子と幼馴染として登場した朝市など、多く登場人物は実在していない。

登場して欲しい人を出さず、如何にもフィクションだと言わんばかりの配置である。

実像を知りたい方には、多大な混乱を起こしかねないわけであろう。

 

僅か5歳の一人息子の道雄が、6歳になる直前に、

当時流行っていた疫痢に罹り、突如亡くした悲劇が哀しい。

また関東大震災の時、従業員から、実印や銀行通帳を持ち逃げされたのも不運であった。

悲劇はいっぺんに襲ってくるものである。然し花子は健気であったし、

子供向けラヂオ放送も大変好評のようで、子供が大好きな人であったのだ。

そんなことで、私は結局毎朝、この番組を楽しんで観ているほうだが、

NHK朝の連ドラの王道とは、かく創られるのかと感心しつつ観ることにしている。

また中園ミホという作家の創作として観れば、腹も立てようがないのかも。(これも想像の翼か)

私は、本当に真摯に生きた村岡花子が大好きである。

 

村岡花子は、敵性外国語の英文を、戦争の最中、必死の思いで翻訳し、

戦後未だ混乱が残る中、昭和27(1952)年に、三笠書房から「赤毛のアン」が発売されるや、

日本中の女の子に夢と希望を与えたのは御存じの通り、花子の功績は計り知れないものがあろう。

但し主人公アン・シャーリーは英文学を教えた教師であったために、多く英文古典が引用されているが、

村岡花子の訳では少々ものたりなく、シェイクスピアやディッケンスなど、頻繁に語彙が使われている。

それらすべてを訳注した松本侑子も、この際参考のために、一応記載しておきたい。

 

この三人に深く影響を与えた雑誌「青鞜」の平塚らいてうや、婦人参政権運動の市川房江のことも、

どうしても書いておかなければならないだろう。私的に、開化期の婦人で、最も輝かしい女性は、

津田梅子ではなかったかとも追記しておきたい。

 

赤毛のアンに関する本がたくさんあり どれも素敵な「ワタクシのアン」に違いない 推奨!

 

製図にはCADという真に便利なものがあるが、ガラケイもスマホもやらない私は、

多分今時分の男にとって、甚だ奇妙で滑稽な人間かも知れぬ。電子メールでやり取りするよりは、

一々手紙に認めるほうが好きである。従ってCADも使うけれど、手作業のほうを選ぶ。

不思議なもので、手作業だと、書きながら、ふとした発想が滾々と生まれ出で、

それが決定的に大事になることが、非常に多いためだ。

 

年がら年中、製図板を相手にしていると、ついブログの更新が疎かになる。

更に面倒なことに、すべてに許認可がついて廻る。致し方ないことだが、

その心は、基礎工事や環境留意にあるのだから、由とせねばならない。

 

久し振りに、ブログの更新を後押しして戴いた木村草弥先生に、心から御礼を申し上げたい!

 

赤毛のアン記念館 村岡花子文庫 (ただ今休館中)

東洋英和女学院 「村岡花子と東洋英和展」 (9月27日まで)

 

角川「短歌」誌九月号に「村岡花子と短歌」が収録されている 

(我が意を得たり これも木村草弥先生から教えて戴いたものである)

 

 


      うつりゆく季節の風をうけて

2014年04月30日 | 季節の移ろいの中で

 

 

 

 

うつりゆく季節の風をうけて

 

 

吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはず成にき

 

西行の歌を歌うべくもなく この四月は 初めて悔しい思いで過ごした

蔵王堂の花供会式には毎年行っていたが 今年は何処に出ることもなく

家族中心に過ごし 行っても有栖川公園か せいぜい小石川植物園ぐらいであった

近くの山種美術館で展示されている奥村土牛先生の「醍醐」で せめてもの憂さ晴らしをした

 

 

運がいいこともある スイスに預けていた運用資金の膨張であり 皆と相談し

リハビリ中の私にやることが出来た 櫻の研究棟の建設・設計である

これには多くの方々の支援が大きく 特に住友林業には今後もお世話になることだろう

序に私は 一般見学者用の宿泊施設や その他諸々の施設の設計にもかかるだろう

どうやらこの浮いた資金は早速生きそうな気配がする そうだ私は元来建築屋なのである

 

 

品川のマンションにある私の設計資材を すべて我が家に運んでもらった

使い古した製図板デスクの前に座ると 妙に落ち着き 今年の櫻は新しく思えた

水泳教室での歩行訓練や 子供たちとの生活や 何やら忙しくなりそうである

また膨大な建築用資料もあり 参考資料や図版も少なくない

一つ一つ柔らかに手にして 新たな決意を固めた次第

 


北の空に 春が来た

2014年04月16日 | 

 

北リアス線の田野畑駅 到着

 

 

北の空に 春が来た

 

 

櫻の時季に 東京の家に籠っていると 悶々として 眠れぬ日々が続く

阿賀の夫婦櫻は咲いたか 初恋櫻は咲いたか 瀧櫻は大丈夫かと 浮かんでは消え 限りない

娘の入学式が終え しばらく大人しくしていたが 三鉄が全線開通したことを聞き

遂に居ても立ってもいられず 秘書二人を連れ 9日岩手へ 新幹線で八戸から久慈駅に

そこで待ちに待った三鉄北リアス線に乗車する 車内は溢れるほどの観光客やら何やら

 

私たちは島越駅で 下車し 仮説住宅へ

 

四年目の春に遭遇し 春まだき潮風の香立つ海辺へ だが工事中で行けなかった

駅舎も まだ工事中 六月には地域コミュニケーション駅として あのカルボナード駅が再現される

建物自体が 賢治の童話「グスコーブドリの伝記」の舞台の一つ、カルボナード火山島に由来して可愛い

 

知り合いたちを尋ねると この三鉄が再開したことを 格別に喜んでいた

 

私には苦い思い出がある 阪神・淡路大震災の折 西明石から加古川へ向け 延々と続く仮説住宅

そこに住んでいた知り合い三人を亡くしている 満三年以上経つと 精神に本当の異常が来るらしい

何と三人とも 死に方は別だが 自死したのである 私はどれほど無力感を 又無念に陥ったことだろう

 

あはれ三年の年月が 精神に根付いたあの震災の衝撃を増幅させるということを 私は知らなかった

 

島越だって 殆どの方々は高台移転をし 駅周辺には 人家が少なくなることは分かっている

美しい浜辺で 往時は海水浴客で 溢れていた そこに防潮堤の工事をしているが

果たして 往時の島越が復活するだろうか それでも住民の方々に 春がやって来ているようだ

北山崎めぐりの観光船も 復活するらしく 駅舎完成の後は テンデンに集まって賑わうことだろう

そう満三年が被災者の精神状態に三鉄の復活が どれほど大きな貢献をするだろう そう信じたい

 

田老から お仲間が自家用車で 迎えに来てくれた そして宮古へ 櫻が少しほころびかけていた

ただあの惨状の爪痕は そうそう消えるものではない 荒涼たる空地を観に来た者すべて部外者だろう

愛車を有料にしてくれたお仲間に 感謝しつつ 盛岡まで送って戴いて 帰路につく

たった一日の岩手行き 三鉄再開にどれほどの方々が歓びに満ちていたことだろう

 

北と南をつなぐJR山田線は サンセクにするか どうするか 未だに結論がついていない

南リアス線の盛駅から 代替えのバスが運行しているものの 気仙沼までは 未だ繋がっていない

 然し地元の方々に どれほどの希望を与えているだろうか

心なしか 皆さんのお顔が随分明るくなったようで 嬉しい一日となった次第である

 

南リアス線の恋し浜駅舎 (元は小石という名であった)

 

奇跡の列車が車庫にあった 櫻咲く

 

どうぞ皆さまも一度は 三鉄に 観光ででも お出掛け下さりませ 

沿線は美しい海で いっぱいです 人情も大変濃いものがあります 

 

 


     櫻と、父性

2014年04月06日 | 

次女と まだズリバイ状態 離乳食を始めたばかり

 

 

櫻と、父性

 

 

 天は よくよくこの世を見給おうていらっしゃるようである 

我が足が 急に腫れてきて 高知から空路突然帰京し 病院に行った 

医者がいうには 一日5キロ限度の歩行を守らなかったねと それを意識してタクシーなどに乗り 

まだリハビリ中の身体の体調を考慮し 歩かないつもりであったが 無意識のうちに 

それを守れなかったようである それは私ではなく 櫻が悪いのである

 

時に 長女が自宅近く 徒歩で行ける小学校に入学する

小学校と言っても 幼稚舎と言い 小中高大と一貫校である 先輩には尊敬する千住兄弟がいる

もっと近くの日赤病院傍には 創立者聖マグダレナ・ソフィア・バラの女子大もあり 

同じく初等科もあるが 妻はそこを選ばなかった

東洋英和(プロテスタント系)といい 聖心(カトリック系)といい ミッション・スクールに 

何の違和感もない私なのだが 妻の意見はもっと広義であってほしいとか

 

入学のお祝いは 極めて地味で 鯛の御頭付きと赤飯であったが

晴れやかな娘の顔を見ながら 何故かほっとした

真新しい制服を着て 勢い家を出る 家人総出で 見送ったが 娘は自然

頼もしい思いがしたものだが ベビーシッターの方だけ泣いていた

 

 

築180年の長屋門と櫻

 

 

京都の妻のご実家から 義父母がお祝いに駆け付けた 幸い私は間に合った次第

それも 皇居乾門から 初の通り抜けを許されたのを観たかったからだとも言う

たった650㍍の宮内庁脇から伸びる櫻の馬場であるが 

約86本のも 瀟洒な山櫻などで 結構な見栄えするものだったらしい

今上天皇陛下 ご傘寿のお祝いに因んで 一般開放したようであるが 厳父も昨日一緒に出掛けた

大変な人出で 水飲み場があったり トイレがあったり またそのトイレから間近に観れる櫻が凄いとか

人を観に行ったか 観櫻だったか分からない模様 でも父も義父母たちも 大いに楽しんで来てよかった

 

我が家の枝垂れは 未だ15年しか経っていないが 年々華やかさを増している

 

庭園の奥にある竹林に咲く藪椿 満開

 

やっと根付いた白菫(マルハスミレ

 

 

父親とは お腹を痛めていない分 親として母親より少し子供に対して愛情がないとか

言われる方も多いだろうけれど 私としては そうは思っていない

愛情の持ち方の差異があるのではないかと 密かに考えている 問題は俯瞰する心だ

 

塾生の中に 今年三人ほど 静岡縣立天龍林業高校を卒業した子供たちがいる

残念ながら 今年から 日本で唯一「林業」の名のついた校名がなくなる 

二俣高校と春野高校と合併するからだが 林業を教えることには変わりがないようである

 

全国に 地区長の指導する塾生がいるが 皆それぞれに活躍している 

「ユトリ世代」だとか 「サトリ世代」だとか言われて久しいが 彼らはまだまだ余裕があるだけだ

私には こうした多くの子供たちもいて 我が家の三人の子供たちと 何も隔てていない

 

山櫻の植樹は 我が畢生の願望だ 

大和心の育成と 山櫻の植栽は同義の心であり 我が子にも当て嵌まる

各地の櫻プロジェクトに寄贈した櫻たちも 我が子供たちの範疇である

単に櫻だけを扱うのではなく 林業全体の中の櫻でいたいと願ってやまない

父性とは そうした勝手気儘な俯瞰の構図を持っていると信じているが どうだろうか

 

 

我が家の樹齢200年の柘榴 昨年はたった5個しか実をつけなかった

 


満開の櫻の海を ただよいつつ

2014年04月01日 | 

 

眉山にて 吉野川を望む(水彩スケッチ)

 

 

満開の櫻の海を ただよいつつ

 

 

苗場の安行から 我が愛車ジープに乗って ひとっ走り

西の吉野に 東の櫻川と 世に謳われた特別記念物「櫻川のサクラ」を起点に

今年もまた 櫻行脚の旅の最中 

 

本拠地岐阜山中近くの下呂の苗代櫻を一目観て 京都に入りぬ 

城南宮・おかめ櫻の満開が最初 御所にて 改めて山櫻の気品に打たるる

近衛邸跡の枝垂れ櫻の美しさ しばし茫然とせり 上賀茂神社の御所櫻も 健在なり

 

夕べ 新田次郎・藤原正彦親子共著の<孤愁~サウダーデ>を小脇に抱え 徳島のモラエス墓地へ

市内行脚しているうちに 夜半は紺屋町 料亭「青柳」は残念ながら倒産していたが

もともと この傍には花街が現役としてあり 小洒落た和食店に落ち着くと

青柳さんは 鳴門で復活しているとの店主のお話に花が咲く よかったなぁ 小山さん

 

少々お酒の度が過ぎ 定宿のホテルクレメント徳島に行ったのは何時だったろうか

 

下呂の苗代櫻

 

左近の櫻は 山櫻なり

左近の櫻のアップ

 

御所 近衛邸跡の枝垂れ櫻

 

記念碑近く 「櫻図譜」に記載された特別記念物のサクラの看板

 

櫻川のサクラのチップの上で 記念撮影

櫻川の櫻山

 

明日は 高知県吾川の「ひょうたん櫻」を観に行く予定

江戸彼岸の丸い顎と 花の蕾のうちの丸みとが ちょうどひょうたんに似ているから そう命名された

また ひょうたん櫻があるは 「桜」という村名にしたみたいである

 

ところで 我が長女・杏が小学校への入学式を控えている

帰って来ようかと 妻に言ったら それは私がしますから ご存分に櫻(はな)を楽しんでと

いつも この時季になると 家にいない習慣が徹底されているようである

芭蕉の旅行は必ず帰れる場所があったから 「旅」であった

山頭火の旅は旅ではない 山頭火のは 一所不住の当てなき 「彷徨」である

櫻を観に出掛ける時 私はいつも その彷徨でありたいと願っているが 所詮無理な話であろう

 

清冽な川が多い土佐に向かう車中にて これを書きアップす

高知県立牧野植物園から 吾川の桜地区へ行くところ 途中櫻饅頭の接待をされるだろうか

 

 


     青梅市の梅の木 完全伐採へ

2014年03月25日 | 時事問題

青梅市の梅林

 

 

青梅市の梅の木 完全伐採へ

 

 

美しい梅 サクラ属の中でも 梅 杏 桃 李 ネクタリンなどに発生する厄介な病気が確認され

特に日本で 最初に感染が確認された青梅市では09年から 12年まで植物防疫法によって

26,000本あまりの梅の木を処分して来たが 青梅市観光の目玉である「青梅市梅の公園」の残り

1,266本も 来月から 全伐採される この病気は世界的な病気であり 

日本では青梅市の梅林で初めて確認されたわけである 農林省省令第70号に従うしかない

病名は プラム・ポックス・ウィルス(PPV)で アブラムシを媒体として 広く拡散する

最も厄介なことは 潜伏期間があることで 接ぎ木や挿し木に感染済みの苗木も問題だ

1915年以降ブルガリアで発生し 世界中に拡散しているが 日本では症例はなかった

09年に 青梅市吉野郷に初めて確認されてから 青梅の梅の木の伐採が始まったものである

 

梅の葉には斑紋が出て来る

 

梅の実の状態 但し実から感染しないし 人が食べても害にはならない

 

梅の葉には斑紋が出て 梅の実は上記のような変則的なイビツな形状の実となる

予防法や 対処法は殆どなく 全伐採し 三年ほど明けてから 再移植するようになる 

青梅からの 梅の苗木も禁止され 移植は絶対出来ない

従って 毎年10万人もの人々が楽しみにしていた青梅の観梅ツアーは 当面今年で終了

再びあの見事な種類の多様さと 三万本近くの梅林は 観られない一抹の淋しさが残る

然し 市では水仙や福寿草などを植える計画であるらしいが 市名でもある象徴がなくなるのが痛手だ

特に梅農家に至っては 大変な痛手であり これが全国各地に拡散しないことを祈るしかあるまい

 

感染媒体となっているアブラムシ

 

治療法や予防法はまだ見つかっておらず 拡大防止策しか講じようがない

感染エリアからの苗木の持ち出し禁止や 移植規制が徹底して行われる

アブラムシの駆除や伐採後 潜伏期間を設定し 三年ぐらいは植えられないことになる

梅は食用として 日本人にはなくてはならないもの

徹底した封じ込め作戦で 克服した国家あるから それに倣いたいものだ