ビートルズの名曲をもじったタイトルですが、ロンドンオリンピックのテレビ中継で、柔道の試合を観ているといろんな感想・・・感慨が湧いてきます。
「道」の字を送る日本の武道は多岐にわたりますが、オリンピックに採用されているのは柔道だけです。が、柔道ではなく、「 JUDO」と表すのが正しい。どうみても、そこに「道」はありません。柔道を基本に国際スポーツとして特化した、新たなる競技と理解しないといけないのでしょう。
テレビを観ていると、軽量級だからというのもあるかも知れませんが、どの試合もおしなべて、背を丸めた選手が猫の引っ掻き合いのように取り手争いをしています。取っては振り払いの繰り返しでラチが明かず、1分くらい経つと主審が見かねて両者に指導を与える。
テレビ中継画面の左上に、選手名と国籍、試合状況のスコアが表示されています。そこには、「0・白・黄」と、「0・青・黄」。時には「0・白・黄・黄」に、「0・青・黄・黄」なんてのも。。。
「0」は、技による得点が何もないことを意味します。「白」や「青」は柔道着の色、つまりは選手の識別です。「黄」や「黄・黄」は指導の表示。サッカーでいうならイエローカードでしょうか。試合運びにマイナスとなるプレーに対する注意・警告ですね。「黄・黄」と2回受けると、相手に「有効」の得点を与えることになります。
一本を取りに行くのが柔道。もう耳タコになるほど聞かされた言葉ですが、「JUDO」ではどうもそうではないらしい。。。もっと世知辛いポイント獲得勝負の世界のようです。
「大会」というのは、決まった期間(時間)のうちに決着をつけないと、終わらなくなってしまいます。それでは運営が滞ってしまいます。で、数字(飛距離や所要時間)で決まらない対戦型競技では、「判定」という白黒のつけ方がどうしても必要になってくる。。。
審判も人間。完璧はあり得ない。そこで登場・・・発案されたのが、沢田研二。じゃなくて、ジュリー。最新の映像監視システムで全試合場の判定の正誤を指摘する係。。。係、なんていうと軽い響きですが、実際は審判よりも上位の決定権を持つエラ~イ人たちなんですね。じゃあ、審判の存在って何なんだ、という話にもなります。
男子66kg級、日本の海老沼選手と韓国の選手との試合で、やっちゃいましたね~。
延長戦でも決着がつかず、主審と副審2名、計3名による旗判定。パッと挙がった青い旗3つ。ええ~ッ!
私も日本人ですから、日本選手の勝ちを期待するわけですが、そういう身びいきを抜きにしても、海老沼選手のほうが「やや」優勢ではないかと思って観戦していました。それが「0ー3」の一方的な負け宣告になったのですから、そりゃないでしょ、って頬を膨らませながら成り行きを見守りました。
通常は、判定不服のブーイングが鳴っても、判定自体は覆らないことがフツーです。それが審判の重みというものだからです。
それが、今回はジュリーの異議申し立てが通り、再度の旗判定に。結果は、正反対の「3ー0」と海老沼選手の一方的な勝ちとなりました。
旗上げゲームじゃあるまいし、「青上げて、青下げて、白上げて、青上げない」というシーンが、オリンピックの会場で見られるとは思いませんでした。もちろん、海老沼選手の勝ちには、何ら異論はありませんが、後味が悪いこと、悪いこと。。。
覆った後の、韓国コーチのブレザーを半分脱ぎかけたような挑発的な態度(表に出ろ、ってケンカの物腰でしょ、あれは)も頂けませんでした。でもまあ、気持ちは分かります。これは「柔道」ではなく、「JUDO」の試合なんですから、これくらいのアピールは許容範囲なんでしょう、きっと。。。
しかし、勝った海老沼選手の、その後の試合前の落ち着きのなさが気になりました。相当に気持ちの動揺があったようです。
それが響いたのか、グルジアのナントカ・シビリという若い選手(ちゃんと調べろよな~)に、鮮やかな隅返しで一本負けしてしまいました。もはや、心技体のバランスが保たれていなかったとしか思えませんでした。
二十歳のシビリ君は、確かに強かったです。その後も勝ち上がり、立派に金メダルを取りましたからね~。
海老沼選手の3位決定戦は、ポーランドの選手に大腰の一本勝ちでした。これは見事に決まりました。堂々たる銅メダルです。しかし、本来ならば嬉しいはずのメダル獲得も、金メダルを期待されていた海老沼選手にとっては不本意なものだったかも知れません。一礼して引き上げる姿は、どこか寂しそうでした。もちろん、笑顔は見られませんでした。
女子52kg級では、中村美里選手が初戦となる2回戦で、金メダルを取った北朝鮮選手に敗れてしまいました。敗者復活戦にも出られませんでした。クジ運というわけではありませんが、もし別の山に当たっていれば、決勝を戦った相手かも知れないと思うと、残念至極。
その女子52kg級の3位決定戦で、正しくは戦いの後で、我が眼を疑うような信じがたいシーンがありました。
勝者のフランス選手、余りの喜びようで、コーチらとの「ダッコちゃん(古いな~)」抱擁にとどまらず、国際放映のテレビカメラに向かい柔道着をもろ肌脱いで、Tシャツの背中に書かれた寄せ書きを見せびらかしたのです。
男子選手は素肌に柔道着ですが、女子はそれだとマズイ(ヤバイ)ので、厚手のTシャツを下に着ています。でも、それはあくまでも素肌を晒さないための着衣であって、みだりに柔道着を脱いではならないことは言うまでもありません。礼を失します。つまり、失礼である、ということ。「道」に外れた行為です。
サッカー選手だって、自らのゴールの嬉しさの余りユニフォームを脱いで裸になり狂喜乱舞すると、イエローカードが切られます。それじゃ、高倉健さんの言うところの「草野球のキャッチャー」になってしまいます。ミットもない、ってこと。まさにそれと同じ行為をしているんじゃないかと思います。
・・・と、ここで再び思い出しました。
そう、これは「JUDO」であって「柔道」じゃないんだから、柔道の礼儀作法を説いてもムダだったんだ。。。
いったい、何が違ってしまったんだろう??
ここからは、私の考察です。
そもそも武道とは、自らの身を護るためにあるもの。逃げる敵を追いかけてまで技を掛ける必要はない。
しかるに、ひとたび競技となれば、自ら攻撃する姿勢を取らないと減点される(柔道なら指導をとられる)ことになります。しかも、限られた時間内に「結果」(相手よりも自分が強いことの証し)を出せと言われる。
生きるか死ぬかの武道に、制限時間なんてあるはずがない。最終的に勝つか負けるか、だけです。だから、武道にオリンピックは似合わない。柔道が、猫のケンカみたいな取り手争いに終始するポイント稼ぎ、時間稼ぎのゲームになってしまうのは、見るに堪えません。
で、「あ、そうだった」と、またまた気がつくわけです。
これは「JUDO」であって「柔道」じゃなかったんだ。。。だから、女子選手がもろ肌脱いで遠山の金さんをやっても「仕方がない」んだ。「ハシタナイ」とお咎めを受けなくていいんだ。。。
いったん胴体から首が離れてしまった(青3本の旗が挙がった)者が、再び元通りに首を戻され(白3本に挙げ直され)たところで、今さら生き返るなんてことは、武道家にとっては受け入れるわけにはいかない。もはや100%の戦意を持って闘うことなどできっこないではないか。「JUDO」以前の「柔道」家としての魂が、海老沼選手の体から戦闘意欲を奪ってしまったのではなかろうか。というのが、私の考察です。当たっているか、外れているかは分かりませんが。
テレビ観戦では、いろんなことが見えてきます。
組み手の有利になりそうな、裾も袖もやや短めな柔道着は、審査をパスしているとはいえ、どこか灰色っぽい。
わざと緩めに縛った帯のせいですぐにはだけてしまう姿も、だらしなく受け入れがたい。
緩い帯が頻繁にほどけては締め直す。そこに、時間稼ぎ(疲労回復の意図)の匂いがしないでもない。
女子選手が頭髪をゆわえたゴムをしょっちゅう結び直す仕草にも、同じことが言える。
こうしてみると、どれもルール違反すれすれの計算され尽くした行為のように思えてなりません。
そうまでして勝ちたい。それがオリンピックなのでしょう。
たかがスポーツ、されどスポーツ。
そのの頂点であるオリンピックだけに、人類の歴史の中で培われてきた「人間の業(ごう)」がさまざまなシーンで見え隠れします。
暑い夏。熱いスポーツの戦いも、まだまだ続きます。
「道」の字を送る日本の武道は多岐にわたりますが、オリンピックに採用されているのは柔道だけです。が、柔道ではなく、「 JUDO」と表すのが正しい。どうみても、そこに「道」はありません。柔道を基本に国際スポーツとして特化した、新たなる競技と理解しないといけないのでしょう。
テレビを観ていると、軽量級だからというのもあるかも知れませんが、どの試合もおしなべて、背を丸めた選手が猫の引っ掻き合いのように取り手争いをしています。取っては振り払いの繰り返しでラチが明かず、1分くらい経つと主審が見かねて両者に指導を与える。
テレビ中継画面の左上に、選手名と国籍、試合状況のスコアが表示されています。そこには、「0・白・黄」と、「0・青・黄」。時には「0・白・黄・黄」に、「0・青・黄・黄」なんてのも。。。
「0」は、技による得点が何もないことを意味します。「白」や「青」は柔道着の色、つまりは選手の識別です。「黄」や「黄・黄」は指導の表示。サッカーでいうならイエローカードでしょうか。試合運びにマイナスとなるプレーに対する注意・警告ですね。「黄・黄」と2回受けると、相手に「有効」の得点を与えることになります。
一本を取りに行くのが柔道。もう耳タコになるほど聞かされた言葉ですが、「JUDO」ではどうもそうではないらしい。。。もっと世知辛いポイント獲得勝負の世界のようです。
「大会」というのは、決まった期間(時間)のうちに決着をつけないと、終わらなくなってしまいます。それでは運営が滞ってしまいます。で、数字(飛距離や所要時間)で決まらない対戦型競技では、「判定」という白黒のつけ方がどうしても必要になってくる。。。
審判も人間。完璧はあり得ない。そこで登場・・・発案されたのが、沢田研二。じゃなくて、ジュリー。最新の映像監視システムで全試合場の判定の正誤を指摘する係。。。係、なんていうと軽い響きですが、実際は審判よりも上位の決定権を持つエラ~イ人たちなんですね。じゃあ、審判の存在って何なんだ、という話にもなります。
男子66kg級、日本の海老沼選手と韓国の選手との試合で、やっちゃいましたね~。
延長戦でも決着がつかず、主審と副審2名、計3名による旗判定。パッと挙がった青い旗3つ。ええ~ッ!
私も日本人ですから、日本選手の勝ちを期待するわけですが、そういう身びいきを抜きにしても、海老沼選手のほうが「やや」優勢ではないかと思って観戦していました。それが「0ー3」の一方的な負け宣告になったのですから、そりゃないでしょ、って頬を膨らませながら成り行きを見守りました。
通常は、判定不服のブーイングが鳴っても、判定自体は覆らないことがフツーです。それが審判の重みというものだからです。
それが、今回はジュリーの異議申し立てが通り、再度の旗判定に。結果は、正反対の「3ー0」と海老沼選手の一方的な勝ちとなりました。
旗上げゲームじゃあるまいし、「青上げて、青下げて、白上げて、青上げない」というシーンが、オリンピックの会場で見られるとは思いませんでした。もちろん、海老沼選手の勝ちには、何ら異論はありませんが、後味が悪いこと、悪いこと。。。
覆った後の、韓国コーチのブレザーを半分脱ぎかけたような挑発的な態度(表に出ろ、ってケンカの物腰でしょ、あれは)も頂けませんでした。でもまあ、気持ちは分かります。これは「柔道」ではなく、「JUDO」の試合なんですから、これくらいのアピールは許容範囲なんでしょう、きっと。。。
しかし、勝った海老沼選手の、その後の試合前の落ち着きのなさが気になりました。相当に気持ちの動揺があったようです。
それが響いたのか、グルジアのナントカ・シビリという若い選手(ちゃんと調べろよな~)に、鮮やかな隅返しで一本負けしてしまいました。もはや、心技体のバランスが保たれていなかったとしか思えませんでした。
二十歳のシビリ君は、確かに強かったです。その後も勝ち上がり、立派に金メダルを取りましたからね~。
海老沼選手の3位決定戦は、ポーランドの選手に大腰の一本勝ちでした。これは見事に決まりました。堂々たる銅メダルです。しかし、本来ならば嬉しいはずのメダル獲得も、金メダルを期待されていた海老沼選手にとっては不本意なものだったかも知れません。一礼して引き上げる姿は、どこか寂しそうでした。もちろん、笑顔は見られませんでした。
女子52kg級では、中村美里選手が初戦となる2回戦で、金メダルを取った北朝鮮選手に敗れてしまいました。敗者復活戦にも出られませんでした。クジ運というわけではありませんが、もし別の山に当たっていれば、決勝を戦った相手かも知れないと思うと、残念至極。
その女子52kg級の3位決定戦で、正しくは戦いの後で、我が眼を疑うような信じがたいシーンがありました。
勝者のフランス選手、余りの喜びようで、コーチらとの「ダッコちゃん(古いな~)」抱擁にとどまらず、国際放映のテレビカメラに向かい柔道着をもろ肌脱いで、Tシャツの背中に書かれた寄せ書きを見せびらかしたのです。
男子選手は素肌に柔道着ですが、女子はそれだとマズイ(ヤバイ)ので、厚手のTシャツを下に着ています。でも、それはあくまでも素肌を晒さないための着衣であって、みだりに柔道着を脱いではならないことは言うまでもありません。礼を失します。つまり、失礼である、ということ。「道」に外れた行為です。
サッカー選手だって、自らのゴールの嬉しさの余りユニフォームを脱いで裸になり狂喜乱舞すると、イエローカードが切られます。それじゃ、高倉健さんの言うところの「草野球のキャッチャー」になってしまいます。ミットもない、ってこと。まさにそれと同じ行為をしているんじゃないかと思います。
・・・と、ここで再び思い出しました。
そう、これは「JUDO」であって「柔道」じゃないんだから、柔道の礼儀作法を説いてもムダだったんだ。。。
いったい、何が違ってしまったんだろう??
ここからは、私の考察です。
そもそも武道とは、自らの身を護るためにあるもの。逃げる敵を追いかけてまで技を掛ける必要はない。
しかるに、ひとたび競技となれば、自ら攻撃する姿勢を取らないと減点される(柔道なら指導をとられる)ことになります。しかも、限られた時間内に「結果」(相手よりも自分が強いことの証し)を出せと言われる。
生きるか死ぬかの武道に、制限時間なんてあるはずがない。最終的に勝つか負けるか、だけです。だから、武道にオリンピックは似合わない。柔道が、猫のケンカみたいな取り手争いに終始するポイント稼ぎ、時間稼ぎのゲームになってしまうのは、見るに堪えません。
で、「あ、そうだった」と、またまた気がつくわけです。
これは「JUDO」であって「柔道」じゃなかったんだ。。。だから、女子選手がもろ肌脱いで遠山の金さんをやっても「仕方がない」んだ。「ハシタナイ」とお咎めを受けなくていいんだ。。。
いったん胴体から首が離れてしまった(青3本の旗が挙がった)者が、再び元通りに首を戻され(白3本に挙げ直され)たところで、今さら生き返るなんてことは、武道家にとっては受け入れるわけにはいかない。もはや100%の戦意を持って闘うことなどできっこないではないか。「JUDO」以前の「柔道」家としての魂が、海老沼選手の体から戦闘意欲を奪ってしまったのではなかろうか。というのが、私の考察です。当たっているか、外れているかは分かりませんが。
テレビ観戦では、いろんなことが見えてきます。
組み手の有利になりそうな、裾も袖もやや短めな柔道着は、審査をパスしているとはいえ、どこか灰色っぽい。
わざと緩めに縛った帯のせいですぐにはだけてしまう姿も、だらしなく受け入れがたい。
緩い帯が頻繁にほどけては締め直す。そこに、時間稼ぎ(疲労回復の意図)の匂いがしないでもない。
女子選手が頭髪をゆわえたゴムをしょっちゅう結び直す仕草にも、同じことが言える。
こうしてみると、どれもルール違反すれすれの計算され尽くした行為のように思えてなりません。
そうまでして勝ちたい。それがオリンピックなのでしょう。
たかがスポーツ、されどスポーツ。
そのの頂点であるオリンピックだけに、人類の歴史の中で培われてきた「人間の業(ごう)」がさまざまなシーンで見え隠れします。
暑い夏。熱いスポーツの戦いも、まだまだ続きます。
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