犀太郎の歴史浪漫

歴史研究や歴史・時代小説など、気ままに書き綴っています。

石動山の戦乱を描いた「流雲の賦」

2012-06-20 19:15:01 | 日記
  石動山の戦乱を描いた「流雲の賦」

先日、同好会の旅で訪れた石動山で見かけた村上元三さんの碑。
それが気になって、ネットで検索し、石動山の戦乱を描いた村上元三さんの小説を入手しました。
一つは、『小説サンデー毎日』昭和46年5月号に掲載された「能登国野干物語」が収録された「新選代表作時代小説(8)おもかげ行燈」(光風社文庫)。

こちらは、冷泉大納言為広がかくまわれた能登の畠山家を守護した狐の話です。

もう一つは、「流雲の賦」上・下(中央公論社、昭和50年9月刊)です。




上巻の帯には、「南北朝・戦国・江戸と続いて、常に戦乱の渦中におかれた能登国石動山天平寺。その寺社を護り、信仰の灯をともし続けた谷部家の人々の波乱万丈の生涯を描く」とあります。
丹念に取材した著者の力作であることが伺えます。
一方、下巻の末尾に、
「石動山を訪ねたのは、山百合の匂っている日、まだ根雪の見えるとき、そして暑い陽ざしの下、時候はいろいろであった。
 山頂から眺めると、雲が這い、山の頂を掠めて流れ、むかしからの石動山の歴史を、語りかけてくるように思われる。」
と、著者の感慨が記されています。

私は、これを読みながら、壮大な歴史ロマンの世界に引き込まれていったのでした。

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ちなみに、石動山の大宮坊の脇で見かけた村上元三さんの句碑はこちら。




南砺市界隈の寺院めぐり

2012-06-01 21:12:59 | 日記
  南砺市界隈の寺院めぐり

5月27日(日)、北陸3県歴史研究会の研修旅行があり、参加しました。
マイクロバスで富山県へ。
井波の瑞泉寺に通じる八日町通りを歩きます。


途中、わき道に入り、浄蓮寺境内にある黒髪庵へ。


この黒髪庵の翁塚は、芭蕉の門弟だった瑞泉寺11代の浪化上人が建立したものだそうです。中に、芭蕉の遺髪が納められているそうです。


再び、八日町通りを歩き、瑞泉寺の門前へ。


瑞泉寺は、真宗大谷派井波別院で、本堂は、畳450枚、25間四方もあり、日本で4番目に広い木造寺社建築だそうです。
今は、ちょうど平成の大修復の最中で、屋根の傷みが出てきたため、ガルマニウム鋼板で葺き替えているそうです。この葺き替えに使う鋼板が5万枚とか。すごい規模ですね。




続いて、向かったのは、城端の真宗大谷派城端別院・善徳寺。
こちらには加賀藩13代藩主・前田斉泰の子・亮麿(すけまろ)が住職として寺に入った際に建てられた式台門が現存しています。向こうに見えます。


庭園には、樹齢360年というしだれ桜の一種、糸桜の大木があります。花見の時期はきっと見ごたえがあることでしょう。
そういえば、花見の時期には、先ほどの式台門を特別に開けて、市民が入場できるようにしているそうです。粋なはからいですね。


住職の部屋を見せて頂きましたが、大変に格式の高いものです。




次に、福野の真言宗弥勒山安居寺へ。


住職さんに説明をして頂きました。




こちらにある絵馬は、加賀藩3代藩主・前田利常が正室の珠姫の安産を祈願して奉納したものだそうです。
もとは豊臣秀吉が築いた聚楽第のふすまだったというから驚きです。絵馬の下に戸車が残っています。







この地域は、江戸時代は加賀藩の治世下にあっただけに、加賀藩ゆかりのエピソードも多く、加賀藩に関心を持つ者にとっては、とりわけ印象深い旅になりました。

城下町武家地めぐり・本多家中界隈

2012-05-15 10:41:09 | 日記
  城下町武家地めぐり・本多家中界隈

さわやかな五月晴れの5月13日(日)、「城下町武家地めぐり」が行われ、本多家の家中界隈を散策しました。

まずは、藩老本多蔵品館前に集合。案内は、北陸大学教授の長谷川孝徳さんです。





本多家5万石は、県立美術館一帯に上屋敷、県立図書館、北陸放送一帯に中屋敷を持ち、県立工業高校、遊学館高校一帯に家臣が住む家中町があったということです。広大な敷地ですね。


本多家屋敷及び家中範囲図



一行は、新緑が目に眩しい木々の下を歩きます。



本多家の上屋敷だった県立美術館の構内を歩き、「美術の小径」を下って、中屋敷だった北陸放送へ。松風閣(国登録有形文化財)を特別に見学させて頂きました。



天保5年(1834年)、加賀藩12代藩主・前田斉広(なりなが)の娘・寿々姫(すずひめ)が本多家9代・本多政和に輿入れした時、本多家上屋敷内に建築された御広式の中の御対面所を移築したものです。



松風閣の縁側から見る庭園は、景観が素晴らしく、現在、金沢市の指定名勝です。



本多家の家中町から勘太郎川を渡る場所にある「思案橋」です。



家中町の境界あたりを流れる鞍月用水です。





北に向かい、NTT北陸支社がある台地に上がるところにある大乗寺坂。昔、大乗寺があったところです。新しく石碑が建っていました。



大乗寺坂を上がって、もとの場所、藩老本多蔵品館前にもどって来ました。



長谷川さんの解説は分かりやすく、エピソードが豊富なので、人気があります。本多家の上屋敷、中屋敷、下屋敷と歩き、ざっと8000歩。充実した歴史散歩でした!

6月10日(日)には、県立図書館で、長谷川さんが「安房守・政重」について語る記念講演会がありますよ。
お問い合わせは、藩老本多蔵品館 261-0500 へどうぞ。







同好会の旅(3)雨の宮古墳群

2012-05-09 22:59:17 | 日記
同好会の旅(3)雨の宮古墳群

石動山の散策を終え、少し時間があるとのことで、同じ中能登町にある雨の宮古墳群に向かいました。
雨の宮古墳群とは、どんな場所なのか。
石川県埋蔵文化財センターのウェブサイトを見ると、次のように記されています。

「鹿島郡中能登町能登部上・西馬場に所在する国指定史跡・雨の宮古墳群は、眉丈山の尾根筋につくられた古墳群です。墳丘全体が葺石でおおわれた、北陸地方最大級の前方後方墳(1号墳)と前方後円墳(2号墳)を中心に、方墳、円墳など、全部で36基の古墳が点在しています。」

さっそく古墳群の上に上がってみました。


古墳の上には、ここからの眺めを写真パネルにして、解説してあります。


眉丈山の尾根筋にあるだけに、眺望はまことに素晴らしいものがあります。


前出の『石川県の歴史散歩』の「雨の宮古墳群」を見ると、「邑知平野を挟んで、東の親王塚・亀塚と西の雨の宮の、この二つの大型の前期型古墳群は、古代の口能登の王者の権勢をしのばせ、中央の王権の支配力が、越前から加賀を通り越して、飛び石伝いにこの地方に与えた影響の強さを物語るものである。」と述べています。



はるか古墳時代に、このような大規模な古墳群が能登の地にあったということは、壮大な歴史の浪漫を感じさせてくれます。



中世の末森城址に始まった旅は、これも中世に信仰を集めた石動山を経て、古墳時代の王者の権勢をしのばせる雨の宮古墳群で終止符を打つことになりました。
存在だけを知っていても、実際に行って見なければ分からないことが多くあります。今回の三ヶ所は、初めての場所で、行って見てこそ分かる多くの収穫がありました。
また、機会があれば、同好会の皆さんとともに、山城・山寺の旅を楽しみたいものです。

同好会の旅(2)石動山

2012-05-07 21:06:56 | 日記
同好会の旅(2)石動山

私たちは、末森城跡を歩いたあと、中能登町の石動山(せきどうざん)に向かいました。もうお昼になっていて、おなかはペコペコだったので、木陰を見つけてシートを広げ、まずは昼食です。
おにぎりにウドやしいたけのてんぷらが美味しかったこと!



元気を回復して、山を登ります。途中には、見ごろの八重桜が咲き誇り、目を楽しませてくれます。



石動山砦跡を城郭研究の高井勝己さんの作図で示すと、次のようになります。



国指定史跡・石動山とはどんなものか。
『石川県の歴史散歩』には、次のような記述がみられます。
「石動山は能登と越中の国境にある信仰の山で、円錐型の山頂は大御前・御前山ともいい、能登二宮の伊須流岐比古神社(主神伊須流岐比古神)が鎮座し、山全域が古代・中世の石動寺の遺跡で、修験の拠点であった。中世の最盛期には多数の堂塔伽藍、360坊余・3000人の衆徒(いするぎ法師)を擁していたという。」

歩いてすぐに、大宮坊が建っています。これは、中世の最盛期には360の坊すべてを支配した別当寺で、平成14年に復元されたものです。



復元された大宮坊の脇に石碑がありました。



  史を語れ いするぎ山の 青葉風   村上元三

ここになぜ、村上元三さんの碑があるんだろうと思い、帰ってから調べてみると、村上元三さんには、石動山の争乱を描いた「能登国野干物語」、「流雲の賦」という作品があるそうです。いつか、読んでみたいと思います。

苔むした石段を上がっていくと、古い神社があります。伊須流岐比古神社です。明治の神仏分離の際、山頂にあった承応2年(1653年)建立の大宮の本殿を移築したものだそうです。



たくさんの坊をつなぐ森の中の道を歩いていると、今が盛りの花を咲かせた山桜の古木が立っていて、はっとさせられます。



帰りに立ち寄った石動山資料館で頂いたパンフによると、一帯は「史跡とブナの森」として整備されているようで、もう一度来て見たいなと思わせるものがありました。





このあと、雨の宮古墳群に向かいました。(つづく)




同好会の旅(1)末森城跡

2012-05-06 23:14:10 | 日記
同好会の旅(1)末森城跡

新緑が目に沁みるような季節です。絶好の行楽日和となった5月1日(火)、歴史愛好の同好会の仲間とともに、山城や山寺を訪ねて、快い汗を流して来ました。
「山城・山寺を歩く同好会」の催しに昨年に続いて、参加させて頂きました。昨年は、七尾城址などを探訪しましたが、今年は、末森城址です。
朝9時過ぎ、金沢を車2台で出発、宝達志水町の末森城址登り口に到着しました。



同好会主宰の村井佳代子さんを中心に、末森城址の案内板でコースを確認します。





ここから歩き始めます。歩いて約20分はあるようです。



道の途中に、大河ドラマ『利家とまつ』放映の際に作られた「末森山古戦場」の石柱がありました。



暑くて汗を流しながら、山道を登ると、やがて、「若宮丸」という出丸に着きました。



史料によると、城の前哨基地と見られ、家臣団の居住区となっていたようです。



ここからは、はるかに宝達志水町の海岸線まで見通せたそうですが、今は木々が茂って、かなり視界が悪くなっています。



「三ノ丸」、「二ノ丸」を通って、いよいよ「本丸」に到着しました。



今回も解説をして頂いた城郭研究で知られる高井勝己さんが作図した末森城跡の地図です。



本丸跡で、みんなで記念撮影です。みんな頑張って、ここまで登りました!ふだん運動不足の私には、かなりしんどいコースでした。



ところで、末森城の決戦とはいかなる戦いだったのでしょうか。

末森城は、天文22年(1553年)、土肥親真(どひ・ちかざね)が城主として活躍、天正5年(1577年)の上杉謙信による七尾城攻撃の基地として、親真は謙信を援護しました。

このあたりのことを、石川県の歴史散歩研究会編『新版 石川県の歴史散歩』(山川出版社刊)は、「その後、織田信長方の前田利家に付着し、1583年の賎ヶ岳の戦いで親真は討死し、秀吉方についた利家によって奥村永福(ながとみ)が守将として末森城に入った。翌1584年、小牧・長久手での秀吉と家康のにらみあいの機会をとらえて、同年9月8日、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)が秀吉派の利家をおびやかすため、大軍を出して末森城を包囲した。城を守っていた永福以下の前田軍の根強い抵抗は史上に名高い。この鶴の首が食いちぎられれば、利家の領地は二つに分断され、進退きわまってしまう。当時の利家にとって、最も危うい生命線だった。落城寸前の末森城に金沢から利家の決死の援軍がかけつけたのは、9月11日、奇襲をうけて成政は越中に退いた。この末森の合戦で成政は完全に孤立し、やがて秀吉の大軍を迎えて越中一国を失い、代わって利家がそれを手に入れた」と書いています。

末森城の決戦は、前田利家と佐々成政の運命を分けた戦いでもあった訳ですね。

このあと、石動山に向かいますが、それは(続き)で・・・。


愛本橋を訪ねて

2012-04-14 16:56:28 | 日記
   愛本橋を訪ねて

春の一日、歴史研究の仲間と一緒に、富山県黒部市へ、愛本橋を訪ねる旅に出かけて来ました。
途中、富山市の桜の名所・松川をちょっと散策。いい天気で、桜は2、3分咲きかと見えましたが、気象台の発表では、この日(4月12日、木)が開花宣言だったようです。



黒部市の歴史民俗資料館「うなづき友学館」を見学しました。こちらには、愛本刎橋(はねばし)の模型(縮尺2分の1)があります。



富山県郷土史学会理事で黒部市文化財保護審議会会長の永井宗聖(しゅうせい)さんが待っていて下さり、愛本橋について詳しく説明をして頂きました。



このあと、永井さんの案内で、愛本橋の現場に赴きました。
現在の愛本橋は、元の地点から約60メートル下流に架けられています。昭和47年7月に竣工したもので、橋の長さは130メートルです。



「日本三奇橋」と言われた愛本橋は、黒部川が急流なため支柱を建てることができず、両岸から刎木を出しては橋を支えるように造られたもので、刎橋では日本一の規模(長さ約63メートル)を持っていました。



寛文2年(1662年)、加賀藩5代藩主・前田綱紀が藩士・笹井七兵衛正房に命じて架設されたということです。
この愛本刎橋は、加賀百万石の権威を天下に誇示する名橋であったということです。

天気にも恵まれ、素晴らしい歴史探訪の旅となりました。

「金沢城大学」を修了しました。

2012-03-27 22:39:58 | 日記
  「金沢城大学」を修了しました。

このほど、石川県金沢城・兼六園管理事務所から平成23年度の「金沢城大学」を修了したとの修了証書が届きました。


昨年10月から今月まで10講座を受講したことになります。何気なく受講したので、こんなに続くとは思いませんでした。
けれども、何回も受講しているうちに、金沢城と兼六園に愛着が湧いてきたことは確かです。
今年も、折を見て、受講することがあるかも・・・。

研究発表「『白山行程記』と天方彜之助」

2012-03-24 19:33:49 | 日記
   研究発表「『白山行程記』と天方彜之助」

石川郷土史学会の研究発表会がきょう(3月24日)、県立図書館で行われたので、行って来ました。
今回は、会員の村井加代子さんが「『白山行程記』と天方彜(つね)之助」と題して、発表されました。
『白山行程記』というのは、弘化4年(1847年)、越前藩士・天方(あまかた)彜之助(つねのすけ)が著した紀行文で、福井城下を出発し、加賀の白山に登山して帰るまで、12泊13日の行程を記録したものです。
村井さんは、この貴重な記録(石川県立図書館蔵)を翻刻して、その内容を分かりやすく解明して、発表されました。


天方彜之助が登山した白山の経路


天方彜之助が描いた白山の絵図


白山登山は今の世なら簡単なものですが、この時代は湯治も兼ねた旅だったとはいえ、大変な日数と労力を要したものだと感心させられます。
記録した天方彜之助は、たんに登山が好きな藩士だと思っていましたが、福井藩の重臣(家老)の子息であり、藩政の改革を巡って、守旧派と対立するなど、興味深い展開がみられ、深く掘り下げた研究は注目に値すると思いました。

シンポ「城郭石垣の技術…」

2012-03-21 21:07:41 | 日記
  シンポ「城郭石垣の技術…」

平成23年度の「金沢城大学」はいよいよ大詰めとなり、3月3日(土)と4日(日)、県文教会館ホールで、シンポジウム「城郭石垣の技術と組織を探る~金沢城と諸城~」が開かれました。


これは、金沢城の調査研究を進める石川県金沢城調査研究所が10周年を記念して開催したシンポジウムで、永年にわたって城郭を研究して来られた研究者の方々が勢ぞろいして、見ごたえ、聞き応えのあるシンポジウムとなりました。


前田家と諸大名の石垣(文禄~慶長期)



前田家と諸大名の石垣(元和~寛永期)


上の図に見られるように、金沢城の石垣は慶長の頃は「乱積み」が主流となっていましたが、元和から寛永にかけては、明瞭な「布積み」が主流となっています。

ふだん何気なく眺めている城郭や石垣には、その普請の時期により特徴が見られることが分かり、興味が出て来ました。

全国に通用する学術レベルで、このようなシンポジウムが開催できることは、金沢の誇りであると思いました。