犀太郎の歴史浪漫

歴史研究や歴史・時代小説など、気ままに書き綴っています。

城下町武家地めぐり・本多家中界隈

2012-05-15 10:41:09 | 日記
  城下町武家地めぐり・本多家中界隈

さわやかな五月晴れの5月13日(日)、「城下町武家地めぐり」が行われ、本多家の家中界隈を散策しました。

まずは、藩老本多蔵品館前に集合。案内は、北陸大学教授の長谷川孝徳さんです。





本多家5万石は、県立美術館一帯に上屋敷、県立図書館、北陸放送一帯に中屋敷を持ち、県立工業高校、遊学館高校一帯に家臣が住む家中町があったということです。広大な敷地ですね。


本多家屋敷及び家中範囲図



一行は、新緑が目に眩しい木々の下を歩きます。



本多家の上屋敷だった県立美術館の構内を歩き、「美術の小径」を下って、中屋敷だった北陸放送へ。松風閣(国登録有形文化財)を特別に見学させて頂きました。



天保5年(1834年)、加賀藩12代藩主・前田斉広(なりなが)の娘・寿々姫(すずひめ)が本多家9代・本多政和に輿入れした時、本多家上屋敷内に建築された御広式の中の御対面所を移築したものです。



松風閣の縁側から見る庭園は、景観が素晴らしく、現在、金沢市の指定名勝です。



本多家の家中町から勘太郎川を渡る場所にある「思案橋」です。



家中町の境界あたりを流れる鞍月用水です。





北に向かい、NTT北陸支社がある台地に上がるところにある大乗寺坂。昔、大乗寺があったところです。新しく石碑が建っていました。



大乗寺坂を上がって、もとの場所、藩老本多蔵品館前にもどって来ました。



長谷川さんの解説は分かりやすく、エピソードが豊富なので、人気があります。本多家の上屋敷、中屋敷、下屋敷と歩き、ざっと8000歩。充実した歴史散歩でした!

6月10日(日)には、県立図書館で、長谷川さんが「安房守・政重」について語る記念講演会がありますよ。
お問い合わせは、藩老本多蔵品館 261-0500 へどうぞ。







同好会の旅(3)雨の宮古墳群

2012-05-09 22:59:17 | 日記
同好会の旅(3)雨の宮古墳群

石動山の散策を終え、少し時間があるとのことで、同じ中能登町にある雨の宮古墳群に向かいました。
雨の宮古墳群とは、どんな場所なのか。
石川県埋蔵文化財センターのウェブサイトを見ると、次のように記されています。

「鹿島郡中能登町能登部上・西馬場に所在する国指定史跡・雨の宮古墳群は、眉丈山の尾根筋につくられた古墳群です。墳丘全体が葺石でおおわれた、北陸地方最大級の前方後方墳(1号墳)と前方後円墳(2号墳)を中心に、方墳、円墳など、全部で36基の古墳が点在しています。」

さっそく古墳群の上に上がってみました。


古墳の上には、ここからの眺めを写真パネルにして、解説してあります。


眉丈山の尾根筋にあるだけに、眺望はまことに素晴らしいものがあります。


前出の『石川県の歴史散歩』の「雨の宮古墳群」を見ると、「邑知平野を挟んで、東の親王塚・亀塚と西の雨の宮の、この二つの大型の前期型古墳群は、古代の口能登の王者の権勢をしのばせ、中央の王権の支配力が、越前から加賀を通り越して、飛び石伝いにこの地方に与えた影響の強さを物語るものである。」と述べています。



はるか古墳時代に、このような大規模な古墳群が能登の地にあったということは、壮大な歴史の浪漫を感じさせてくれます。



中世の末森城址に始まった旅は、これも中世に信仰を集めた石動山を経て、古墳時代の王者の権勢をしのばせる雨の宮古墳群で終止符を打つことになりました。
存在だけを知っていても、実際に行って見なければ分からないことが多くあります。今回の三ヶ所は、初めての場所で、行って見てこそ分かる多くの収穫がありました。
また、機会があれば、同好会の皆さんとともに、山城・山寺の旅を楽しみたいものです。

同好会の旅(2)石動山

2012-05-07 21:06:56 | 日記
同好会の旅(2)石動山

私たちは、末森城跡を歩いたあと、中能登町の石動山(せきどうざん)に向かいました。もうお昼になっていて、おなかはペコペコだったので、木陰を見つけてシートを広げ、まずは昼食です。
おにぎりにウドやしいたけのてんぷらが美味しかったこと!



元気を回復して、山を登ります。途中には、見ごろの八重桜が咲き誇り、目を楽しませてくれます。



石動山砦跡を城郭研究の高井勝己さんの作図で示すと、次のようになります。



国指定史跡・石動山とはどんなものか。
『石川県の歴史散歩』には、次のような記述がみられます。
「石動山は能登と越中の国境にある信仰の山で、円錐型の山頂は大御前・御前山ともいい、能登二宮の伊須流岐比古神社(主神伊須流岐比古神)が鎮座し、山全域が古代・中世の石動寺の遺跡で、修験の拠点であった。中世の最盛期には多数の堂塔伽藍、360坊余・3000人の衆徒(いするぎ法師)を擁していたという。」

歩いてすぐに、大宮坊が建っています。これは、中世の最盛期には360の坊すべてを支配した別当寺で、平成14年に復元されたものです。



復元された大宮坊の脇に石碑がありました。



  史を語れ いするぎ山の 青葉風   村上元三

ここになぜ、村上元三さんの碑があるんだろうと思い、帰ってから調べてみると、村上元三さんには、石動山の争乱を描いた「能登国野干物語」、「流雲の賦」という作品があるそうです。いつか、読んでみたいと思います。

苔むした石段を上がっていくと、古い神社があります。伊須流岐比古神社です。明治の神仏分離の際、山頂にあった承応2年(1653年)建立の大宮の本殿を移築したものだそうです。



たくさんの坊をつなぐ森の中の道を歩いていると、今が盛りの花を咲かせた山桜の古木が立っていて、はっとさせられます。



帰りに立ち寄った石動山資料館で頂いたパンフによると、一帯は「史跡とブナの森」として整備されているようで、もう一度来て見たいなと思わせるものがありました。





このあと、雨の宮古墳群に向かいました。(つづく)




同好会の旅(1)末森城跡

2012-05-06 23:14:10 | 日記
同好会の旅(1)末森城跡

新緑が目に沁みるような季節です。絶好の行楽日和となった5月1日(火)、歴史愛好の同好会の仲間とともに、山城や山寺を訪ねて、快い汗を流して来ました。
「山城・山寺を歩く同好会」の催しに昨年に続いて、参加させて頂きました。昨年は、七尾城址などを探訪しましたが、今年は、末森城址です。
朝9時過ぎ、金沢を車2台で出発、宝達志水町の末森城址登り口に到着しました。



同好会主宰の村井佳代子さんを中心に、末森城址の案内板でコースを確認します。





ここから歩き始めます。歩いて約20分はあるようです。



道の途中に、大河ドラマ『利家とまつ』放映の際に作られた「末森山古戦場」の石柱がありました。



暑くて汗を流しながら、山道を登ると、やがて、「若宮丸」という出丸に着きました。



史料によると、城の前哨基地と見られ、家臣団の居住区となっていたようです。



ここからは、はるかに宝達志水町の海岸線まで見通せたそうですが、今は木々が茂って、かなり視界が悪くなっています。



「三ノ丸」、「二ノ丸」を通って、いよいよ「本丸」に到着しました。



今回も解説をして頂いた城郭研究で知られる高井勝己さんが作図した末森城跡の地図です。



本丸跡で、みんなで記念撮影です。みんな頑張って、ここまで登りました!ふだん運動不足の私には、かなりしんどいコースでした。



ところで、末森城の決戦とはいかなる戦いだったのでしょうか。

末森城は、天文22年(1553年)、土肥親真(どひ・ちかざね)が城主として活躍、天正5年(1577年)の上杉謙信による七尾城攻撃の基地として、親真は謙信を援護しました。

このあたりのことを、石川県の歴史散歩研究会編『新版 石川県の歴史散歩』(山川出版社刊)は、「その後、織田信長方の前田利家に付着し、1583年の賎ヶ岳の戦いで親真は討死し、秀吉方についた利家によって奥村永福(ながとみ)が守将として末森城に入った。翌1584年、小牧・長久手での秀吉と家康のにらみあいの機会をとらえて、同年9月8日、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)が秀吉派の利家をおびやかすため、大軍を出して末森城を包囲した。城を守っていた永福以下の前田軍の根強い抵抗は史上に名高い。この鶴の首が食いちぎられれば、利家の領地は二つに分断され、進退きわまってしまう。当時の利家にとって、最も危うい生命線だった。落城寸前の末森城に金沢から利家の決死の援軍がかけつけたのは、9月11日、奇襲をうけて成政は越中に退いた。この末森の合戦で成政は完全に孤立し、やがて秀吉の大軍を迎えて越中一国を失い、代わって利家がそれを手に入れた」と書いています。

末森城の決戦は、前田利家と佐々成政の運命を分けた戦いでもあった訳ですね。

このあと、石動山に向かいますが、それは(続き)で・・・。