先日、卯辰山の花菖蒲園の近くにある愛宕神社に行ったところ、手前に「日暮ヶ丘(ひぐらしがおか)」という所がありました。
今まで何度も花菖蒲園に行きながら、気付かなかった場所です。
そこからは、金沢城を中心に、金沢の街並みが一望のもとに望めます。
「日暮ヶ丘」という名前の由来は、この丘に立って、あたりを眺めていると、兼六園の「日暮橋(ひぐらしばし)」のように、「いくら見ても見あきない。いつしか日が暮れていた」というほど、素晴らしい眺望なのだそうです。特に夕暮れ時が素晴らしい景色とのことです。
金沢城のほうに目をこらすと、右の方、菱櫓から五十間長屋、橋爪門続櫓へと続く建造物、さらに左手には石川門までが見えています。
日暮ヶ丘にある立て札によれば、この丘あたりが安政5年(1858年)に発生した「安政の泣き一揆」ゆかりの地であるというのです。
この当時、冷害で米が不作となったところ、米商人が米を買い占め、米価が高騰、このため飢えた町人が卯辰山のこの地に登り、金沢城に向かって、「米くれまいや~!」と叫んだのです。この結果、藩の貯蔵米が放出され、米価は下がりましたが、藩は首謀者を探し出し、死刑にしたということです。
加賀藩政の歴史に残る悲しい物語と言えるでしょう。
今まで何度も花菖蒲園に行きながら、気付かなかった場所です。
そこからは、金沢城を中心に、金沢の街並みが一望のもとに望めます。
「日暮ヶ丘」という名前の由来は、この丘に立って、あたりを眺めていると、兼六園の「日暮橋(ひぐらしばし)」のように、「いくら見ても見あきない。いつしか日が暮れていた」というほど、素晴らしい眺望なのだそうです。特に夕暮れ時が素晴らしい景色とのことです。
金沢城のほうに目をこらすと、右の方、菱櫓から五十間長屋、橋爪門続櫓へと続く建造物、さらに左手には石川門までが見えています。
日暮ヶ丘にある立て札によれば、この丘あたりが安政5年(1858年)に発生した「安政の泣き一揆」ゆかりの地であるというのです。
この当時、冷害で米が不作となったところ、米商人が米を買い占め、米価が高騰、このため飢えた町人が卯辰山のこの地に登り、金沢城に向かって、「米くれまいや~!」と叫んだのです。この結果、藩の貯蔵米が放出され、米価は下がりましたが、藩は首謀者を探し出し、死刑にしたということです。
加賀藩政の歴史に残る悲しい物語と言えるでしょう。
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