犀太郎の歴史浪漫

歴史研究や歴史・時代小説など、気ままに書き綴っています。

研究発表「利常の頃」

2012-02-25 18:17:02 | 日記
   研究発表「利常の頃」

石川郷土史学会の月例発表会が2月25日(土)、県立図書館で開かれ、横山方子さんが「利常の頃」と題して、加賀藩3代藩主・前田利常の作事と作庭について、利常に仕えた佃源太左衛門を中心に、お話をされました。
佃源太左衛門は、寛永2年(1625年)、作事奉行、普請方御用、百人組足軽支配などを務め、江戸本郷邸(当時は下屋敷)、修理の任にあたったのを手始めに、寛永6年(1629年)、将軍の御成りに先立って、本郷邸の作事にあたった他、寛永10年(1633年)には辰口邸(当時の上屋敷)に御守殿を造営するなど、加賀藩の重要工事を手がけてきたということです。

加賀藩江戸本郷邸の御守殿門(現・東大の赤門)


また、加賀藩の江戸藩邸(辰口邸、本郷邸、牛込邸、駒込邸、板橋邸など)の変遷についても説明して頂きました。

横山方子さんのお話は、大変分かりやすく、引用された「金沢古蹟志」や「三壺聞書」などの解読も参考になりました。

金沢城大学 (7)玉泉院丸の発掘調査

2012-02-17 10:28:44 | 日記
   金沢城大学(7)玉泉院丸の発掘調査

「金沢城大学」、2月16日(木)の7回目は、金沢城調査研究所の富田和気夫さんが「玉泉院丸の発掘調査」と題してお話をされました。
玉泉院丸は、金沢城の西側に位置し、2代藩主・前田利長が高岡で死去したあと、慶長19年(1614年)、正室の永姫(玉泉院)が高岡から移ってきて住んだ屋敷のことで、元和9年(1623年)、玉泉院が亡くなったあと屋敷は撤去されましたが、そのあともこの区域は玉泉院丸と呼ばれています。数年前まで、県体育館があった場所といえば分かりやすいでしょう。
平成21年度から現在まで、継続して発掘調査が行われています。
下の図が発掘調査をした地点です。

玉泉丸の発掘調査地点(部分)


発掘した場所から古地図にあるような池や出島、中島の遺構が出てきたそうです。
また、別の場所からは、滝の流路の遺構も出てきたそうです。


二つの滝(部分)


玉泉院丸は、意匠性の高い石垣群が特徴で、姿の異なる二つの滝が庭園の景観を構成する重要な要素だということです。
今後も発掘調査が継続されるとのことで、文化財としての庭園の価値がさらに明らかになってくると期待されるということです。

金沢城大学(6)武家屋敷から見た金沢城

2012-02-02 19:59:46 | 日記
 金沢城大学(6)武家屋敷から見た金沢城

「金沢城大学」の第6回がきょう2月2日(木)、県立美術館ホールで開催されたので、出かけてきました。
金沢城調査研究所の木越隆三さんが「武家屋敷から見た金沢城」と題して、講演しました。
その主な内容は、・・・
〇城下町の町名は町人のもので、武家地に町名はなかったと思われているが、実は町名があった。
〇長町という町名は、加賀八家の一人、長家の屋敷があったことに由来すると、思われているが、実は、細長い街並みが幾つもあったことに由来する。
〇金沢の町の草創期は「尾山八町」と言われたが、寛永期には地子町約140町が公認され、町人地は170町へ。さらに、文政6年の町名改定で244町に増加した。

詳細なお話で、しかもこれまでの認識をくつがえす見解もあって、有意義な講演でした。



「金府大絵図」(部分、天保14年頃)