同好会の旅(2)石動山
私たちは、末森城跡を歩いたあと、中能登町の石動山(せきどうざん)に向かいました。もうお昼になっていて、おなかはペコペコだったので、木陰を見つけてシートを広げ、まずは昼食です。
おにぎりにウドやしいたけのてんぷらが美味しかったこと!
元気を回復して、山を登ります。途中には、見ごろの八重桜が咲き誇り、目を楽しませてくれます。
石動山砦跡を城郭研究の高井勝己さんの作図で示すと、次のようになります。
国指定史跡・石動山とはどんなものか。
『石川県の歴史散歩』には、次のような記述がみられます。
「石動山は能登と越中の国境にある信仰の山で、円錐型の山頂は大御前・御前山ともいい、能登二宮の伊須流岐比古神社(主神伊須流岐比古神)が鎮座し、山全域が古代・中世の石動寺の遺跡で、修験の拠点であった。中世の最盛期には多数の堂塔伽藍、360坊余・3000人の衆徒(いするぎ法師)を擁していたという。」
歩いてすぐに、大宮坊が建っています。これは、中世の最盛期には360の坊すべてを支配した別当寺で、平成14年に復元されたものです。
復元された大宮坊の脇に石碑がありました。
史を語れ いするぎ山の 青葉風 村上元三
ここになぜ、村上元三さんの碑があるんだろうと思い、帰ってから調べてみると、村上元三さんには、石動山の争乱を描いた「能登国野干物語」、「流雲の賦」という作品があるそうです。いつか、読んでみたいと思います。
苔むした石段を上がっていくと、古い神社があります。伊須流岐比古神社です。明治の神仏分離の際、山頂にあった承応2年(1653年)建立の大宮の本殿を移築したものだそうです。
たくさんの坊をつなぐ森の中の道を歩いていると、今が盛りの花を咲かせた山桜の古木が立っていて、はっとさせられます。
帰りに立ち寄った石動山資料館で頂いたパンフによると、一帯は「史跡とブナの森」として整備されているようで、もう一度来て見たいなと思わせるものがありました。
このあと、雨の宮古墳群に向かいました。(つづく)
私たちは、末森城跡を歩いたあと、中能登町の石動山(せきどうざん)に向かいました。もうお昼になっていて、おなかはペコペコだったので、木陰を見つけてシートを広げ、まずは昼食です。
おにぎりにウドやしいたけのてんぷらが美味しかったこと!
元気を回復して、山を登ります。途中には、見ごろの八重桜が咲き誇り、目を楽しませてくれます。
石動山砦跡を城郭研究の高井勝己さんの作図で示すと、次のようになります。
国指定史跡・石動山とはどんなものか。
『石川県の歴史散歩』には、次のような記述がみられます。
「石動山は能登と越中の国境にある信仰の山で、円錐型の山頂は大御前・御前山ともいい、能登二宮の伊須流岐比古神社(主神伊須流岐比古神)が鎮座し、山全域が古代・中世の石動寺の遺跡で、修験の拠点であった。中世の最盛期には多数の堂塔伽藍、360坊余・3000人の衆徒(いするぎ法師)を擁していたという。」
歩いてすぐに、大宮坊が建っています。これは、中世の最盛期には360の坊すべてを支配した別当寺で、平成14年に復元されたものです。
復元された大宮坊の脇に石碑がありました。
史を語れ いするぎ山の 青葉風 村上元三
ここになぜ、村上元三さんの碑があるんだろうと思い、帰ってから調べてみると、村上元三さんには、石動山の争乱を描いた「能登国野干物語」、「流雲の賦」という作品があるそうです。いつか、読んでみたいと思います。
苔むした石段を上がっていくと、古い神社があります。伊須流岐比古神社です。明治の神仏分離の際、山頂にあった承応2年(1653年)建立の大宮の本殿を移築したものだそうです。
たくさんの坊をつなぐ森の中の道を歩いていると、今が盛りの花を咲かせた山桜の古木が立っていて、はっとさせられます。
帰りに立ち寄った石動山資料館で頂いたパンフによると、一帯は「史跡とブナの森」として整備されているようで、もう一度来て見たいなと思わせるものがありました。
このあと、雨の宮古墳群に向かいました。(つづく)
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