犀太郎の歴史浪漫

歴史研究や歴史・時代小説など、気ままに書き綴っています。

同好会の旅(1)末森城跡

2012-05-06 23:14:10 | 日記
同好会の旅(1)末森城跡

新緑が目に沁みるような季節です。絶好の行楽日和となった5月1日(火)、歴史愛好の同好会の仲間とともに、山城や山寺を訪ねて、快い汗を流して来ました。
「山城・山寺を歩く同好会」の催しに昨年に続いて、参加させて頂きました。昨年は、七尾城址などを探訪しましたが、今年は、末森城址です。
朝9時過ぎ、金沢を車2台で出発、宝達志水町の末森城址登り口に到着しました。



同好会主宰の村井佳代子さんを中心に、末森城址の案内板でコースを確認します。





ここから歩き始めます。歩いて約20分はあるようです。



道の途中に、大河ドラマ『利家とまつ』放映の際に作られた「末森山古戦場」の石柱がありました。



暑くて汗を流しながら、山道を登ると、やがて、「若宮丸」という出丸に着きました。



史料によると、城の前哨基地と見られ、家臣団の居住区となっていたようです。



ここからは、はるかに宝達志水町の海岸線まで見通せたそうですが、今は木々が茂って、かなり視界が悪くなっています。



「三ノ丸」、「二ノ丸」を通って、いよいよ「本丸」に到着しました。



今回も解説をして頂いた城郭研究で知られる高井勝己さんが作図した末森城跡の地図です。



本丸跡で、みんなで記念撮影です。みんな頑張って、ここまで登りました!ふだん運動不足の私には、かなりしんどいコースでした。



ところで、末森城の決戦とはいかなる戦いだったのでしょうか。

末森城は、天文22年(1553年)、土肥親真(どひ・ちかざね)が城主として活躍、天正5年(1577年)の上杉謙信による七尾城攻撃の基地として、親真は謙信を援護しました。

このあたりのことを、石川県の歴史散歩研究会編『新版 石川県の歴史散歩』(山川出版社刊)は、「その後、織田信長方の前田利家に付着し、1583年の賎ヶ岳の戦いで親真は討死し、秀吉方についた利家によって奥村永福(ながとみ)が守将として末森城に入った。翌1584年、小牧・長久手での秀吉と家康のにらみあいの機会をとらえて、同年9月8日、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)が秀吉派の利家をおびやかすため、大軍を出して末森城を包囲した。城を守っていた永福以下の前田軍の根強い抵抗は史上に名高い。この鶴の首が食いちぎられれば、利家の領地は二つに分断され、進退きわまってしまう。当時の利家にとって、最も危うい生命線だった。落城寸前の末森城に金沢から利家の決死の援軍がかけつけたのは、9月11日、奇襲をうけて成政は越中に退いた。この末森の合戦で成政は完全に孤立し、やがて秀吉の大軍を迎えて越中一国を失い、代わって利家がそれを手に入れた」と書いています。

末森城の決戦は、前田利家と佐々成政の運命を分けた戦いでもあった訳ですね。

このあと、石動山に向かいますが、それは(続き)で・・・。


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