犀太郎の歴史浪漫

歴史研究や歴史・時代小説など、気ままに書き綴っています。

津幡地区の史跡

2013-06-07 21:07:41 | 日記
  津幡地区の史跡

6月に入ってまもなく、歴史研究会の仲間と津幡(つばた)地区の城跡や寺院などの史跡を巡る小旅行に出かけました。
6月2日(日)の朝9時、JR金沢駅西口のバスターミナルを貸切バスで出発。
北陸三県歴史研究会の野村昭子さんの企画で、津幡地区の由緒ある神社仏閣などを拝観しました。

その主なところをあげると……。

◆津幡町潟端(かたばた) 加賀神社
加賀藩5代藩主・前田綱紀を祀り、津幡町内では最高の社格(県社)を有した神社だそうです。



◆津幡町清水 清水八幡神社
津幡城跡の東方裏手にあります。古くは、清水八幡宮と称し、旧北陸道に面した参道入り口に赤戸室石の鳥居が建っていたそうです。



◆津幡城跡
古い歴史を持つ津幡城跡を示す石柱は、草の中に埋もれていました。



◆倶利伽羅(くりから)
ボランティアガイドの越野さんに説明して頂きました。






◆鳥越弘願寺(とりごえぐがんじ)跡
こちらは、観応元年(1350年)、本願寺三世・覚如の直弟玄頓によって創建されたといわれます。
越中・能登・加賀三国の国境を守ったが、特に倶利伽羅峠を往来する他国の勢力をおさえる役割を持つ主要な砦だったそうです。
今も土塁の跡が残っていました。





◆富山県小矢部市 護国八幡宮(埴生八幡宮)
江戸期の慶長年間、凶作が続いたため、加賀藩主・前田利長が豊作を祈願したという。
本殿は、慶長5年、前田利長が大聖寺へ出陣の際、戦勝を祈願し、帰陣のあと、寄進したといわれます。


社殿(国指定重要文化財)



◆手向神社



境内は、新緑がいっぱい。


このほか、倶利伽羅の古戦場なども見て回りました。
日中は気温があがり、良い天候に恵まれて、絶好の旅行日和となりました。
地元では、木曽義仲と巴御前を中心とする物語を「大河ドラマ」に!という運動を展開しているようです。
近いうちに実現するといいですね!









山城を歩く・・・守山城・阿尾城

2013-04-25 18:44:28 | 日記
  山城を歩く・・・守山城・阿尾城


よく晴れた一日(4月25日)、県立図書館の元館長、村井加代子さんに声をかけていただき、今年も山城を歩く同好会に参加しました。
昨年は、末森城跡、石動山へ行ったことがきのうのことのように思い出されます。

今回、まず最初にめざしたのは、富山県福岡町の木舟城跡(富山県指定史跡)です。
途中、道に迷って、時間をロスしてしまいました。

北陸道の南方約400メートルに位置し、東西を川に挟まれた大きな沼地に浮かぶ要害です。
水の中に浮かぶさまは、映画「のぼうの城」のワンシーンのようです。
戦国期に作られた城は、天正13年の大地震で、崩壊・埋没したということです。現在は、水田地帯の中に小高く盛り上がり、昔日の姿を知る人にのみ、ある種の感慨を与えてくれます。

次に、行ったのは、守山城跡(高岡市東海老坂)。
小矢部川左岸にそびえる二上山の支峰、城山の上にあります。
守山城の築城は古く、南北朝期とみられるそうです。
のち、前田利長の居城となるも、その後、利長は富山城を築き、そこへ移転したということです。移転後はしばらく、家臣の前田対馬長種がとどまり、城を守ったといわれます。のちに3代藩主となる利常が幼少の頃、育ったのは、この守山城なのです。

本丸跡の広場で記念撮影。


山頂からの眺望は抜群です。


ここで、昼食をとりました。


眺めのいい山の上でとる昼食は、最高です。


ちょうど、八重桜が満開で、花見気分を味わうことができました。


次に、二上山を下りて、古国府城跡(高岡市伏木古国府)に行きました。
ここは、小矢部川の河口左岸に臨む台地の上にあり、古くはかの有名な万葉歌人・大伴家持がいた越中の国府が置かれていたところです。
「古国府」という地名は、まさにそのことを示しているんですね。
城跡のある勝興寺の周囲には、土塁や空堀の遺構が残っており、そこにある「椿の道」を歩きました。
椿の木が生い茂った味わいのある散策路です。


土塁や空堀を確認しながら、勝興寺の周囲をひと巡りしました。




途中、景勝地の雨晴海岸に立ち寄りました。
きょうはラッキーなことに、海の向こうに立山連峰を望むことができました。


最後に訪れたのは、阿尾城跡(氷見市阿尾)。
富山湾に突き出た丘陵の上にあります。
海抜30メートルほどですが、こうした断崖の上に築かれた城は、富山県では例がないそうで、珍しいものです。




なお、今回も山城研究の専門家・高井勝己さんに案内していただき、現地で説明していただきました。感謝です。

今回は、前の日が雨で、空模様が心配でしたが、幸いにして天候にも恵まれ、充分に山城の旅を楽しむことができました。

『白山行程記』を読む

2013-03-24 22:30:41 | 日記
   『白山行程記』を読む

石川郷土史学会の村井加代子さんがこのほど『白山行程記』(能登印刷出版部)を出版されました。



『白山行程記』というのは、安政期の福井藩御側役・御用人、天方(あまかた)彜之助(つねのすけ)が著した白山登山の記録です。
天方は、福井城下を出発し、平泉寺で宿泊し、小原峠を越えて市の瀬に至り、加賀の白山に登山し、帰途は白峰を通り、谷峠を越え、大野で宿泊して福井へ帰っています。
村井さんは、この貴重な記録(石川県立図書館蔵)を翻刻して、現代語訳を付して出版されたのです。
私も登山が好きで、若い時期にはよく白山にも登りましたが、これほど詳細に登山の記録を残したことはなく、脱帽の思いです。
村井さんは、自らも福井、勝山、平泉寺、市の瀬、白峰などその行程を歩き、その紀行文も合わせて収録しています。
昔も今も人々を魅了してやまない白山に関心のある人に一読を薦めたい本です。

講演会「城下町金沢を築いた武将たち」

2013-03-11 20:45:41 | 日記
  講演会「城下町金沢を築いた武将たち」

「百年後の国宝を作ろう」キャンペーンの市民公開講座が3月9日(土)、金沢エクセルホテル東急で開かれました。




今回は、石川県金沢城調査研究所副所長の木越隆三さんが講演。
木越さんは「城を中心にして町ができているのは、世界でも珍しい」と話していました。

このあと、パネル討論では、金沢学院大学教授の見瀬和雄さん、北陸大学教授の長谷川孝徳さん、石川郷土史学会幹事の横山方子さんがパネリストを務めました。

この中で、見瀬さんは、利長、利常に見られるように、藩主の移動で町割りが変わっていった、長谷川さんは家臣団がすべて城下に住んでいる金沢の特性について、横山さんは、前田家とつながりがある宝円寺、波着寺、経王寺、天徳院、如来寺など小立野寺院群についてその由来を話していました。

会場いっぱいの人で、熱気にあふれる講演会でした。



江戸名所 富岡八幡宮

2012-11-18 19:53:15 | 日記
  江戸名所 富岡八幡宮

次は、富岡八幡宮です。


地下鉄の門前仲町駅を降りて、すぐのところです。
ここは、深川と呼ばれ、庶民に人気の場所でした。祭礼の時は大いににぎわったそうです。

『江戸名所図会』には「富岡八幡宮」として、出ています。

「富岡八幡宮」


広重の『名所江戸百景』では、「深川八まん山ひらき」として、出てきます。


広重「深川八まん山ひらき」

江戸名所 山王社

2012-11-18 19:24:51 | 日記
  江戸名所 山王社

「江戸名所」、次は神田明神と並び称せられる山王社です。
山王社というのは、現在の永田町にある日枝神社のことです。


日枝神社


『江戸名所図会』には「山王祭」として、3枚の画がかかげられています。
山王祭は、将軍家の産土神で、将軍が上覧する「天下祭り」として賑わったということです。

「山王祭」(『江戸名所図会』より)

広重の『名所江戸百景』には、不思議なことに、山王社は描かれていないようです。
山王社の近くを描いたものには、「赤坂桐畑雨中夕けい」があります。


広重「赤坂桐畑雨中夕けい」

江戸名所 聖堂

2012-11-12 21:22:36 | 日記
  江戸名所 聖堂

江戸名所散歩、次は湯島の聖堂です。JR御茶ノ水駅を出て、神田川にかかる聖橋を渡ると、すぐの場所でした。
入口の門は、塗り替えの工事中でした。


門の脇から中に入ると、大成殿という建物です。




大成殿の中はかなり薄暗いです。
5代将軍・綱吉(犬公方ともいわれる)は学問を好み、元禄3年、湯島に聖堂を建立、幕府の力で強く庇護したということです。


それ以来、聖堂は昌平坂学問所として、多くの俊才が集う場となっていったようです。

『江戸名所図会』には、長谷川雪旦が描いた「聖堂」がおさめられています。

「聖堂」(『江戸名所図会』より)


江戸時代に描かれた「聖堂絵図」というものもあります。

「聖堂絵図」


広重の『名所江戸百景』では「昌平橋聖堂神田川」の遠景に聖堂が取り入れられています。

広重「昌平橋聖堂神田川」



江戸名所 神田明神

2012-11-10 19:29:45 | 日記
  江戸名所 神田明神

「江戸名所散歩」と洒落込んで、神田明神を訪れてみました。
「江戸総鎮守」として江戸の人々に親しまれてきたそうです。




江戸の鬼門を守る神社で、9月15日を中心に行われる「神田祭」は、山王祭と並んで、「天下祭」と呼ばれ、大いに賑わったそうです。

訪れたのは、11月の大安吉日。結婚式を挙げる人たちで、賑わいをみせていました。




川田壽氏の「江戸名所図会を読む」(東京堂出版)によると、神田祭は、山車や余興・飾りつけなどに莫大な費用がかかるので、延宝9年以降は山王祭と隔年に行われるようになったということです。
「氏子60町の山車・練物は行列を組んで繰り出し、田安門から城内に入り、将軍の御覧に供してから竹橋を通って外へ出た。この日、商家は家業を休んで桟敷を設け、無理をしてでも金屏風をかざったり、紫の幔幕を張りめぐらし、三方を置いて御神酒を供えるなどした」そうです。
そのにぎわいぶりは、長谷川雪旦が描いた画からもよく伺えるようです。

「神田明神社」(『江戸名所図会』より)



「神田明神祭礼」(『江戸名所図会』より)


神田明神といえば、広重の『江戸名所百景』にも描かれていますね。

広重「神田明神曙之景」

境内の東から下谷方面を望むもので、ここからの景観は評判がよく、特に初日の出、月見、雪見の場所として親しまれたそうです。


池波正太郎ふれあい館(南砺市)

2012-08-27 21:22:57 | 日記
  
池波正太郎ふれあい館(南砺市)


5月27日(日)、北陸3県歴史研究会の研修旅行で、南砺市の瑞泉寺に行った折り、瑞泉寺に向かう通りの中ほどに、「よいとこ井波」という観光施設があり、のぞいてみました。



そこに、「池波正太郎ふれあい館」という文字を見つけ、
<ああ、ここは池波正太郎さんの故郷だったんだ…>
と。

中に入ってみました。


そこは、まさしく池波正太郎の世界でした。






池波正太郎さんの父方の先祖は、ここ井波で、宮大工をしていたそうです。

「ほとんど自動車も通らぬ、しずかな井波の町を歩いていると、ふしぎなもので何ともいえぬ愛着をおぼえる。そして、代々、東京に生まれ育った自分にも故郷があったのだというおもいが強く感じられてくる。」
と、池波正太郎さんは、「越中・井波」というエッセイの中で回想しています。『作家の四季』(講談社文庫)

館内に人の姿はなく、静かに、池波正太郎さんの作品世界にひたることができました。



月刊『遠州』に「加賀藩と小堀家」

2012-06-25 12:58:01 | 日記
  月刊『遠州』に「加賀藩と小堀家」


石川郷土史学会会員の横山方子さんが遠州流茶道の月刊『遠州』に、3回にわたって「加賀藩と小堀家」を連載し、小堀遠州及びその子孫たちと加賀藩のかかわりについて、もろもろの史料を引用しながら鋭い考察を加えておられます。
同誌4月号の「(上)金沢城玉泉院丸」では、小堀遠州が加賀藩大津屋敷の庭園を見て、琵琶湖や比叡山の借景を示唆して帰ったエピソードなどが紹介されています。
5月号の「(中)利常と遠州、正春」では、遠州の異母弟・左馬助(正春)が利常の機嫌をそこねてしまったにもかかわらず、進退極まって頼みごとをしたところ、利常が頼みに応じてくれたという話などが紹介されています。
また、6月号の「(下)新十郎と孫兵衛の子孫たち」では、左馬助の二男・孫兵衛が初めて加賀藩に仕えたほか、遠州の孫にあたる新十郎が加賀藩に仕え、以後、子孫たちが加賀藩に仕えたことが紹介されています。
ところで、昨年、小堀遠州の甥・孫兵衛と孫の小堀新十郎一族の墓が金沢の野田山墓地で発見され、話題となりました。
この論文は、小堀遠州と加賀藩のかかわりを考える上で、貴重な論考といえるでしょう。



小堀遠州画像