場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

身延山 ・・・日蓮が籠もった奥域 

2023-11-11 18:07:06 | 場所の記憶

不思議なもので、何がしか聖なる雰囲気が漂う場所というものがあるものである。
 その地に、一歩踏み入ることで、そこにただならぬ、神々しい空気が流れていることを感じるのだ。聖なる場所に聖なる雰囲気が醸し出されるのはどういう作用によるものなのかを実体験したい思いにかられて、秋のある日、身延山に登った。
 身延線の身延駅からバスに揺られること1時間ばかり。途中、ゆったり蛇行する富士川の広い川筋に沿う富士川街道を走る。やがて、富士川の本流と分かれ、その一支流、早川に付き従うように山中の崖道に沿ってバスは進む。進むほどに、いよいよ山深い地に入りこんだ感を濃くする。 
 赤沢の集落を谷あいに見たのは、すでに陽が山の端を離れ、冷気が身体を包みこむ時刻であった。
 赤沢は、ちょうど南アルプス南端の山あい、身延山を南に見る位置にある。古くから身延詣での基地として知られるところである。そうした理由で、そこには身延山参拝客向けの宿があり、現在も、三十軒ほどの宿が山の斜面に点々と建っている。古い建物だと鎌倉時代のものもあるという。 
 江戸屋、両国屋などの宿名から察するに、多分、江戸からやってきた参拝客を主にもてなした宿であったのだろう。何々構中と書かれた札が掛かるのは、そこがそれら講中の定宿であったことを伝えている。
 ざっと眺めわたすと、いずれの建物も、屋根を茶色の木羽葺きにし、外壁を板張りでおおっているのが分かる。それら二階建ての家々は一、二階が開放された板廊下でぐるりと巡らされている。手摺りのついた二階の造りがいかにも旅籠を感じさせる。
 このように、赤沢集落全体に現れ出ている景観の統一感は、聞くところによれば、歴史ある赤沢を残そうという住民の意思の表れであるという。
 これからはじまるお山登りの労苦を予感しながら赤沢の集落を後にする。めざすは、身延山の山頂近くにある奥之院である。
 つづら折りの、傾斜の強い山道を歩きだすと、すぐに身体中から汗が吹き出してくる。眼下の赤沢集落の家並みが次第に小さくなってゆく。
 こうして、秋の日盛りの中を歩いているだけであれば、ただのハイキングといった風情であるが、歩くほどに、そこが信仰の山であることをあらためて知らされる。
 それというのも、谷間のかなたこなたから、静寂を破るかのように「南無妙法蓮華経」を唱和する読経の声が響き渡ってくるからである。
 初めは耳慣れぬその声に驚かされたが、しばらくそれを耳にしているうちに、次第に快いモノトーンリズムとなってくる。やがて、それが身体に溶けこんで、山道を登る歩調とぴたりと重なってくる。
 思うに、「南無妙法蓮華経」を唱えながら、遊行僧が布教行脚の旅をしているのは、それが精神修養であるばかりでなく、身体的な歩行リズムをつくる効用があってのことではないかと、ひとり合点する。  
 山中では、なんども参拝団の白い集団に出会った。彼らは、いずれも何かの団体に属しているらしかった。手甲脚半に白装束、地下足袋を履き、鉢巻きをする者、饅頭笠をかぶる者などいろいろであった。
 なかには、明らかに都会からやって来たと思われる、にわか修行者の集まりもあった。彼らは皆、若者たちである。いかにも都会育ちの青年らしく、どこかたくましさに欠ける身体つきをしている。
 とはいえ、リーダーの指揮の下、「南無妙法蓮華経」を唱和しながら山を登り、谷を下って行く姿は、健気でさえあった。
 したたれ落ちる汗をふきながら、苦労しながら、いくつもの峰をこえ、谷を下った。
 それでも、ときおり、ぱっと視界が開け、はるか眼下にひろがる風景を眺め見た時などは、心から爽快な気分に満たされたものだった。高い山ではないのに、実に山深い印象があった。
 快い疲れを身体に感じながら、久遠寺の奥之院に到達した時には、すでに午後の陽が大きく西の空に傾きかかろうとする時刻になっていた。
 それにしても、日蓮はいかなる理由で身延の山を自らの修行の場として選びとったのだろうか。
 顧みれば、幾度かの迫害に遭い、佐渡に流罪にもなり、その度に、それらに耐えてきた日蓮であった。その日蓮が、佐渡流刑を赦免され、再び鎌倉の地を訪れることになるのである。
 それは鎌倉幕府の下問に答えるためであった。時の執権北条時宗は、その頃、蒙古襲来の恐れと不安をもっていた。そこで、日蓮を赦免してその可能性について問いただそうとしたのである。
 そのことを問われて日蓮は、蒙古の襲来は今年のうちに必ずあるであろうことを、真摯な態度で答える。だが、時宗は、その言葉を信じていないようであった。 
 日蓮は思ったことであろう。今また、国を憂えて直言したことが容れられなかった。となれば、もはや鎌倉を去り、山中に引き籠もるばかりであると。日蓮はひとつの決断をすることになるのである。
 甲斐の国、身延山の麓、波木井の里に赴くことを決意したのは文永11年(1274)5月12日、日蓮五十三歳の時である。
 この時の心境を、日蓮は『波木井殿御書』の中で語っている。
 「国の恩を報ぜんが為に国に留り、三度は諌むべし。用ひずんば山林に身を隠せという本文ありと、本より存知せり。何なる山中にも籠りて、命の程は、法華経を読誦し奉らばや、と思ふより外は他事なし」と。
 波木井の里に赴くことを思いたったのは、そこに旧知の波木井氏が居を構えていたからであった。当主の波木井実長は、甲斐源氏の流れをくむ家柄で、その頃は、波木井三郷の地頭の任にあった人物である。
 その実長の長子実継が、実は熱心な日蓮信徒であった。彼は以前から日蓮の教えに帰依していた。その縁で日蓮を身延山麓に招いたのである。
 その頃の身延の地は、人里離れた実に不便極まりないところであったにちがいない。その不便さをおして、日蓮の日常生活は、波木井氏の援助に支えられて営まれたことは想像にかたくない。
 日蓮が西谷と呼ばれる山中に草庵を結んだのが初夏の六月。庵とは名ばかりで、床には木葉を敷き、壁は木の皮を張りめぐらせた状態の苫屋であった。
 そこで日蓮は晩年の九年間を過ごすことになる。人生で最も静穏な時を過ごし、信仰生活の最終を飾ることができたのである。
 今、西谷の地には日蓮の遺骨を収める御廟が建っている。近くに身延川が流れ、川をはさんだ高台には久遠寺の巨大な本堂が望める。草庵の跡と伝わる場所には石で造られた玉垣が巡らされ、そこがひとつの歴史的事蹟であることを印象づけている。
 それにしても山の中である。
 自らの身を隠すそのような場所に草庵を結び、そこに潜むように住み続けた日蓮の心の内にあったものは、いったい何であったのだろうか、という思いがふとわき起こる。
 幾度かの試練に遭ったあと、ようやく静穏な生活に戻れる機会を得た日蓮は、いよいよ法華経に専心し、人材の育成に専念しようと考えたであろう。
 だが、それだけの理由であれば、険しい山中に分け入って、不便な生活を営む必然性はなかったといえる。
 許されて佐渡から戻った日蓮が、幕府に申し述べた蒙古来襲の予言は、結局受け入れられなかったが、日蓮みずからは、そのことを確信していたのである。
 いずれ日本国は、蒙古に征服される、その時こそ、法華経の教えを、生き残った民人に布教しよう
 そのためにも、蒙古軍の手が及ばない山中に身を潜め、たとえ亡国ののちも、そこに法華王国をうち建てるのだ、という考えがあったと思われる。山の奥は、精神の自立を確保するにふさわしい場所でもあった。  
 日蓮が身延の山中にこもったその年の十月、「蒙古来襲があるであろう」という日蓮の予言が見事に的中することになる。蒙古の大軍が北九州の海岸に押し寄せてきたのである。 
 幸にして、蒙古軍は秋の台風に遭遇し、壊滅してしまうのであるが、この一事によって、日蓮の声望はいちだんと高まることになった。
 日蓮はこの頃、たて続けに『撰時鈔』をはじめとする数多くの著作をものにしている。また、日蓮の徳を慕って身延の山中を訪れる人がますます増えるようになるのである。
 こうしたなか、弘安4年(1281)の11月24日、念願の十間四面の信仰道場、現在の久遠寺の前身、法華堂が落成する。
 落成式には多数の人々が山を訪れ、その賑わいは京、鎌倉の町中のようであったと、日蓮はのちに書き記している。身延山に入山してから七年後、日蓮六十歳の時である。
 工事は波木井氏の協力によって行われたといわれ、ここに初めて本格的な布教活動の拠点がつくられることになった。日蓮教団の本拠地の誕生である。
 この間、再度の蒙古来襲があったが、神風(台風)が吹いたおかげで、今また蒙古軍が大敗するという椿事が起こる。日蓮はどんな思いで、その出来事を聞いたことだろう。
 法華堂の完成をみた年の翌年の秋、日蓮は、持病となっていた下痢の症状をさらに悪化させる。そして、その療養のために、故郷である安房の国へ赴くことになる。九年間住み慣れた身延の里を後にして、衰えた身体を馬にゆだねて、旅立ったのである。 
 だが、日蓮の病状は、安房の国にたどり着く猶予を与えなかったのである。弘安5年(1282)10月13日、旅の途上の、武蔵の国、池上村の知人宅で、ついに病に倒れ、帰らぬ人となる。享年六十一であった。
 現在の池上本門寺は、その旧跡に建てられたものである。
 そして、遺骨は「たとえ、いずくにて死に候とも墓をば身延山に建て給え」の遺言に従って、身延山に帰ったのである。
 ところで、日蓮がその生涯をかけて信仰した法華経とはいかなる内容のものだったのだろうか。
 法華経とは、ひらたく言えば、釈迦の教えが口伝されたものだといわれる。法華経はそれを文字化、つまり経典にしたものである。法華経の思想は、そもそも大衆部仏教(大乗仏教)の流れをくむもので、それが中国を経由、中国僧三蔵法師羅什訳典『妙法蓮華経』として我が国にもたらされたものである。経典は二十八品から成っている。そのうち十四品には、歴史上の釈尊のことが語られている。そして、あとの十四品では、永遠の命をもつ仏の教えが説かれている。
 法華経は説く。仏教徒が理想の世界とすべきところはこの人間世界の中にあると。日蓮がよって立つ立場もそこにあった。人間は久遠本仏の存在を信じて行動すれば、おのずから事実として仏の道が体験されるであろうと説いて、布教した。「南無妙法蓮華教」と口で唱えることは、まさにその実践であった。
 その意味は、「心身を捧げ尽くして(南無)、法蓮華経を唱えよ」ということであった。この題目を唱えることによって、人は本来そなえている仏性を現わすことができると考えたのである。
 仏性とは今様の言い方でいえば、創造的利他心ということであろう。この題目を唱えること即修行であると見なした。
 日蓮は法華経こそが釈尊の本意をいちばんよく伝えるものであると了解していた。その信念は、断固とした確信に満ちたものであった。
 日蓮の教えが他宗派に対する妥協のない闘いとしてありつづけたのも、法華経こそが唯一絶対のものと見なした結果であった。主著『立正安国論』では、日蓮のこの考え方が如実に表されている。
 日蓮はまた、法華経が世に広まる時は、末法の世であるととらえた。布教の過程で、法難に遭うであろうことも予知した。だがそれに耐えて仏の教えを広めることこそが、真の仏教徒であるともみなした。
 奥の院を訪れた翌日、山を下り、久遠寺の大本堂を訪れる。
 三門を潜ると、そこにも白装束姿の参拝団の姿があった。昨日は、山中では見かけなかった女性の参拝者の姿も交じる。それが珍しい光景に映った。白装束に身を纏い、黄色い声で「南無妙法蓮華経」を唱和する姿に、不謹慎ながら、ふと妙な色気さえ感じたものだ。
 老杉の巨木が影を落とす、冷気の漂う参道を進むと、長い階段が見えてくる。
 本堂に参拝するには、菩提梯と呼ばれる287段のその急坂の石段を登らなければならない。名の通り、それは悟りへ至る階段を意味するが、悟りへの階段は実にきついものだった。
 ときおり、小休止をとりながら、息も絶え絶えに登る。頭の中が燃え尽きそうであった。足腰が萎えて、もうこれまでというところで、ようやく入母屋造りの本堂の屋根が姿を現した。
 本堂の建つ広い敷地には、玉砂利が一面に敷かれていて、そこには大本堂のほかに日蓮上人の尊像を祀る祖師堂や、上人の分骨を納める御真骨堂などが建ち並んでいる。
 私は大本堂の千鳥破風のついた入母屋造りの屋根を仰ぎ見ながら、この地が聖地としてありつづけた意味をあらためて考えてみた。
 そもそも日蓮がこの地を隠棲の場所として選びとったその時から、ここが意味ある、特別の場所になったのは確かである。が、それだけでは聖地誕生の必要充分条件にはならないように思える。
 思うに、この地の山深い地理的条件が聖地イメージをいやがうえにも、高めたといえないだろうか。
 日蓮は蒙古襲来を恐れ、その難を逃れるには、身延山の山中が適地であると判断した。その結果選びとられた場所であったとすれば、自ずと山深い、奥行きのあるところであったことは必然である。
 奥行きのある場所に人が抱く神秘な思いというものは、そこが宗教的雰囲気をもつところであればなおさら増幅されるものなのである。