時雨スタジオより

9年の休止期間を経て、
なんとなく再開してみました。

「鬼」──前編

2020-06-11 15:05:11 | アデクション
石見神楽の「紅葉狩」では、美女が鬼女に変身する。


貯金箱
「家中が寝静まった夜、私は子どもの部屋に忍び込みます。小遣いを貯めている貯金箱に手を伸ばし、音を立てないように小銭を抜き取ります。それから、そ〜っと家を出て、自販機に向かいます」
 女性がアルコールをやめられなかった頃、そんなことが何度もあった。
「子どもから、お母さん、貯金箱のお金が足りないんだけど知らない? と言われても、もちろん知らないと返します。いま、子どもたちは別れた夫のほうに引き取られています。もしも会えるときが来るのなら、本当に心から謝りたいと思っています」
 でも、当時はアルコールがすべてに優先した。

自動販売機
「明け方だったでしょうか。子どもの貯金箱から盗んだ小銭を持った私が、自販機の前にいます。私は、手に握りしめた小銭を自販機に入れます。ところが、そのまま返却口から出てきてしまいます」
 町のどこにでもアルコールの自動販売機があった時代だった。販売時間の制限もなかった。金さえあれば、いつでも、誰でも、自由に酒が買えた。しかし、女性には、自由に使える金がなかった。
「何度お金を入れても戻ってくるのです。なぜなんだろうと不思議でした」
 1円玉や5円玉を入れていたのだ。
「なかなか気づきませんでした。考える力もお酒で麻痺していました。それでも何度目かには気がつきました。勤めに行くのでしょうか、若い女性が通りかかりました。私は1円玉と5円玉を差し出しながら、これを10円玉か50円玉に換えてくれませんかと聞きました。そうしたら、その女性は怖いものでも見るように私を避けて遠ざかっていきました」

怖い鬼
「飲んでいる私は、誰にとっても怖い存在でした。娘が私に向かって言った言葉は今でも忘れられません」
 ある日、娘は母親に言った。「飲んでいないときのお母さんは優しいけれど、お酒を飲んだときのお母さんは鬼のようで怖い」と。娘には隠れて飲んでいたつもりだったが、娘はとうに感づいていた。娘が小学校に上がる頃に女性は離婚し、他の子どもたちと一緒に夫のほうに引き取られた。それ以降、子どもには会えていない、いや、会うことが許されていない。
「子どもに誕生日のプレゼントを贈るのに母親である自分の名前ではなく、姉の名前を使うしかありませんでした。なぜなの! と、どうしようもない気持ちになり、自販機の前で飲んでしまいました」
 娘は母親を見て「鬼のようだ」と言った。女性もまた自分の母親を見て鬼のようだと思った。

母親
 女性は、3人姉妹の末っ子として生まれた。父親は病気がちで、母親が一家の家計を支えていた。
「私が、小学校5・6年の頃でした。見てはいけないものを見てしまいました」
 それは、鬼とも形容できそうな母親の異様な行動だった。
「母は勤めから帰ると靴も脱がずに台所へ行きました。何をするのだろうとこわごわと見ていると、お酒を瓶からどくどくと茶碗に入れて、3杯、4杯とごくごくと飲むのです。その後で、夕飯を作り始めました」
 石見神楽に「紅葉狩(もみじがり)」という演目がある。クライマックスは、酒の宴の後で美女が一瞬にして恐ろしい形相の鬼女に変わる場面だ。小学生の女性が見た母親の姿も、娘が見た女性の姿も、まさにそのようなものであったのではないだろうか。
 やがて、母親は勤め帰りに飲んで来るようになってくる。その頃、父親は病床にあった。
「毎日のようにお酒の臭いをさせて帰ってくるようになりました。ひどいときには、会社の男の人に背負われて帰ってきたこともありました。私は、母のようになりたくないとずっとずっと思っていました」
 父親は女性が中学生のときに他界した。女性は一日でも早く家を出たかった。
「姉が高校に行くお金を出してくれると言ってくれたのですが、私は、病院の寮から通える看護の学校に入りました」
 女性は、准看護師になる道を選んだ。
「家からそれほど離れていない寮だったのですが、休みの日も家に帰らず、病院の寮に居ました」
 准看護師となったのちも家に帰らず、病院で働いた。

上京と帰郷
「8〜9年すると人間関係に嫌気がさしてきました。ちょうどその頃、すぐ上の姉から東京でお店をやるので手伝ってほしいと言われ、喜んで東京に出て行きました」
 手伝ったのは、小さなクラブだった。現金を扱うのは身内がよいと判断し、妹に声を掛けたのだ。
「男の人たちとお酒を飲む姉や店の女の子たちの姿を見ながら、この人たちのようにはなりたくないと思い続けた」
 それなのに、女性の酒量は増えていった。
「ママの妹ということで、お客や店の人たちにかわいがられました。おだてられて飲むようになっていきました」
 数年後、姉の店は経営が苦しくなった。女性には、准看護師時代からの交際が続いていた男性が
いた。姉が店を閉じるのを機に、故郷に戻り結婚することになった。

つづく

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