時雨スタジオより

9年の休止期間を経て、
なんとなく再開してみました。

ゴルゴンの館

2020-06-21 10:33:11 | 『別府と占領軍』より
 ──ゴルゴンとは、ギリシア神話の三人姉妹の怪物で、ステンノ・エウリュアレ・メドゥーサの総称だ。ただ、前二者以外には特別の神話がないため、特にメドゥーサを指すことが多い。頭髪は無数の蛇からなり、見る者を石に化す恐ろしい目をもっている。ペルセウスに退治された。僕の子ども時代、家にあった幻灯機でゴルゴンの物語を繰り返し観た思い出がある。今にして思えば、父が買ってくれたものであったのだろうか。さて、忠男(僕の父)の少年時代といえば、戦前から戦中にかけてだ。その時代には、すでに「ゴルゴンの館」はあったようだ。

 朝見川の向うに別世界があった。変りばえのしない木造の二階建てだったが、そこだけはいつもひっそりと陰気で、子供心にも何かその建物をとりまく空気からして他と違っているものが感じられた。 朝見神社に蝉とりに行くとき、赤い御幸橋を渡りながら、なるたけその建物は見ないようにして通った記憶がある。それは丁度首を見れば石になるという魔女。コルゴンの物語りのようだった。それでもある時勇者ペルセース(ペルセウス)のように、ドキドキする胸を圧えながら、その建物に近づいてみると中からプーンと強いオキシドールのにおいと共に、一見してそれと分る女がぞろりとした着物姿で出てくるのに出喰わして、あわててその前を駆け抜けていった。
 その建物は遊廓の女や戦後パンパンの性病の検診所として栄えたが、今はなく、その跡は竹製品の卸間屋と一部マンションに変身している。 明治四十四年の創業で、建物は南小学校付近にあった県立の徒弟学校(県立大分工業高校前身)の生徒が建てたといわれ、建物の礎石にー間ものの御影石が二箇使われていた。「大分県立治療院」がその名前で、その後「大分県立別府病院」となり、売春防止法発効の昭和三十三年までつづいた。
 病棟は三病棟あり、病室は全部畳敷で、六畳と八畳の部屋が全部で十室あった。MPや保健所の性病探索班が街頭でキャッチして来たパンパン等で満員の時もあり、正に激動の別府戦後史の台風の眼的存在であった。
 昭和十六年から同所の婦長をしていた杉田ハルエさんは老いの身をかがめて当時を語ってくれた。
「……大分の軍政部に提出する報告書を書くのに毎日徹夜に近い激務でした。そのために親指をいためて、梅毒の注射をするにも指が曲らないんです。仕方がないので昭和ニ十八年に辞めました」
 病院は医師二人、検査技師一人、薬剤士一人、看護婦五人と他に事務員や賄婦という少人数だった。検診日には県からの応援を乞わなければさばき切れぬ日があったという。
 検診日は決まっており、遊廓の女は週一回浜脇地区 (入江町、新町等)は月曜、松原地区(梅園町を含む)は水曜、行合地区(海門寺を含む)は金曜日に、その外の火、木曜はパンパン(外娼婦)となっていた。パンパンの中には自発的に来るものも居たが、殆んどは性病探班のキャッチ・ジープで連れて来られる者が多く、中にはセーラー姿や人妻もいたという。杉田婦長はこうつづける。
「私達も仕事ですから道具や品物と同じように処置しました。平和になった今でもその時のパンパンや遊廓の女に街で行き会うこともありますが、顔は知らないことにしているんです」
 パンパン狩りで連行される女は多いときは日に二十名も居た。女には番号札が渡され、先づ検査室で血液をとり、次の治療室で検診台に乗せ、綿棒でバルトリン腺から分泌物をとり、それをガラス盤にのせて乾燥させ、色素をつけたものを顕徴鏡でのぞいて保菌者かどうかを見分けた。大体保菌者は一割程度だったが、アメリカさんにとってこの一割が脅威だった。
 保菌者はその場で強制入院、社会と隔離させたが、中には夜抜け出して春をひさぎ、商売する者も居て夜警員を悩ました。昭和二十三年頃まではペニシリンも高貴薬で治療費も馬鹿にならなかったようで、女達も背に腹はかえられなかったようである。
 病院に来る女は遊廓の女とパンパンとは一眼で区別がつき、片一方がおとなしかったのに比べ、パンパンはケンカ、タンカ、ヒステりーと手のつけられぬ女が多く、 係員も「放っておけ」と暴れ放題、騒ぎ放題にさせ相手が疲れて静かになるのを待つといった始末だった。
 それでも中には男のことでケンカをし、「死んでやる」 と前の朝見川にとび込み、雨のあとで水嵩の増した川の中から女を助け出したこともあると当時の保健所の職員 が話していた。
 当時事務をしていた杉田武人さんは、キャッチジープ で連れてこられた一目みて素人娘と分ると、MPの眼をかすめて順番を遅らせ、ソッとにがしてやったことも二度や三度でなかったという。
「二十四、五年でしたか、福岡から流れて来た女でしたが、梅毒の末期症状が顔にも出ていましたが、今度こそ自分は二百円貯め、足を洗ってくにに帰るんだと云っていたのを覚えていますが、病気が長びく丈に隣れでしたね」
 昭和二十四、五年頃、向浜の共同温泉で七、八才の女児が十一人性病に感染した事件があったが、ぬるい温泉に入ったり、浴槽の縁に腰掛けたりすると女の子は特に感染する可能性が多いという警告だった。 杉田ハルエさんは最後にこう話を結んだ。
「兎角日本の女は忍耐強かったですね。戦争で国が分割 されて貧しさに端いでいる国や、東南アジアのように難民の隣れさを見ていると、日本に居てよかったという気がします。それも女の力が強かったのではないでしようかね。 体当りでしたから」

 ──なぜ、遊郭の女性はおとなしく、パンパンたちには手のつけられない女性が多かったのだろうか。時代の証言者の多くは鬼籍に入り、聞くすべはない。
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