時雨スタジオより

9年の休止期間を経て、
なんとなく再開してみました。

占領政策と戦った役者達

2020-06-27 16:49:46 | 『別府と占領軍』より
 ──新型コロナ禍で役者さんたちが苦境に立っている。敗戦後の占領時代には、今とは別の形で苦境の真っただ中にあったようだ。

 敗戦の嵐は旅役者のいる芝居小屋までも烈しく吹き荒れた。楽屋に米兵が入り込み、台本の提示を求め、占領政策に合わなければ、即刻上演中止が命令された。
 仇打ちや心中物等は一切アウト。反対に人情劇や新時代の教育劇なんかは歓迎された。 例えば三大仇討といわれる「一は富士(曽我兄弟)、二は鷹の羽のぶつ違え(赤穂義士)、三は上野の仇桜 (渡辺一馬と荒木又右衛門)」は不合格、どういう訳か水戸黄門は上演を許された。

 ──曾曾我兄弟の仇討ちは鎌倉時代に富士野の狩場で父の仇をとったもので、その後、武士のしきたりの一つとなった「元祖仇討ち」だ。鷹の羽とは赤穂義士の主君浅野内匠頭の家紋。「伊賀越えの仇討ち」や「鍵屋の辻の血統」とも呼ばれ伊賀上野の仇討ちは、荒木又右衛門の三十六人斬りで有名である。

 爪をもがれた役者達は何とかして生きのびんと必死になって台本を書きかえたり、新しい趣向をとり入れたりして頑張ったが、やはり身についた段平を振りまわす役者芝居が忘れられず、機の到来をひたすら心待ちにした。
 現在鉄輪のアパートの一室を借りて余生を送っている中村円十郎こと浅井光治氏は、終戦直後、博多の多聞座で公演したとき、事もあろうに御法度の「上野の仇桜」を選んだ。
 池田侯の御殿での場面を採録すると次の通りである。
殿様「荒木待て、主従は何とやら申したの?」
荒木「死して生れて又死して、生れて死するそれまでは ………」
殿様「(親子は一世、夫婦は二世、主従は)三世と申すか」
 荒木扇子で腹一文字に切る所作をする。
殿様「はは………、行け」
 早速、天神町にある松屋デパートにあったMPステーションに呼び出された。

 ──松屋デパートは、戦前・戦中に「福岡松屋」として営業していた百貨店だ。昭和48年には「マツヤレディス」として新装開業。時代は流れ、平成15年に破産した。

 円十郎は胸を張り、MP隊長を舞台の大日得よろしくカーッとにらみつけた。
 MP隊長は思わず眼をそらせ、うろうろと室内を歩きまわりながら、こう言った。
「貴方は楽屋で『アメリ力なんかくそくらえ。おれはアメリカ人にフーフー(つべこべ)言わんぞ』と言ったそうだが、それは一体どういう意味かね?」
 円十郎はオヤ、と思った。自分はてっきり腹切りで呼び出されたと思ったが、そうではなく、楽屋で座員にもらした寸言が進言された故だった。円十郎は自分の思い違いが可笑しくなり大きな声でアハハハ……と笑い出した。
 突然豹変した日本人の老優の顔をポカンと見ていた憲兵隊長は、傍の日本人通訳に、この男はこれか、と自分の頭のところで指をグルグルと左に回した。
 通訳もさあ、と首をかしげた。何で笑い出したか分らないからである。
 すると今度は、円十郎氏やおら立ち上り、直立不動の姿勢をとると、「朕惟うに我皇祖皇祖国をはじむること広遠に………」とやり出した。
 そして、眼を白黒している憲兵隊長を前に、「このように日本人は、天皇をあがめ、親に孝行をし、友達と仲よくし、博く人と平和に暮すことを念願している人情のあつい民族である。民主主義という言葉があれば、それは日本人のことを言うのだ。私は日本人が世界で一番すぐれた人種だと信じている。貴方達も私達に交際っていればそれが分ってくるだろう。………」
 立て板に水を流すように話すものだから、さすがのこの憲兵隊長も畔易し、もういい、もういいと早力に退散 してもらったと言う。こうした気骨のある舞台人は段々と少なくなっていく。淋しいことだ。
 この円十郎氏、三十も年の違う若い奥さんと二人暮し。行けば手料理で酒を汲み交し、例によって談論風発してとどまるところ知らず、浮草稼業に身をやつした者でな ければ分らぬ味のある話をし、そのあけっぴろげた助平話に顎の外れる程笑い、ああ世の中にこんなひとも居るのかと変な感心の仕方をしたりした。その又別れ方が圧感というか、天下一品。晒屋に近いアパートから、一気に上の街通まで駆け上り、我々の乗った車に向って、「サイナラ!」と大音声。弁慶の立往生ならぬ大手を力いっばい大空にひろげてバンバンザイ。これにはマイッタ、マイッタ。 こうした魅力にひかれてか、日本映画の代表的な監督今村昌平や俳優の緒方拳、倍償美津子等が別府に来れば先ず訪れ、ステテコ姿や手枕で楽しい話の華を咲かす所でもある。

 ──きっと父、忠男は、『復讐するは我にあり』の撮影で別府を訪ねた今村昌平監督、緒形拳さん、倍賞美津子さんらを連れて、円十郎氏を訪ねていたのであろう。

 戦後の役者達にとって悩みのーつは化粧品で、今のようにドーランや開発された舞台お白粉などなく、パッチリと呼ばれるマッチ箱半分ぐらいの豆腐を固めたような固型のものを、机の上に置き、瓶を転がして粉にし、それを小さな空瓶に入れ、水を注いだ表面にチリ紙をのせてアクをとり、それに火をつけて手早く固めたものを水バケで顔に塗った。早く固めるために消し炭を使い、七輸で団扇をバタバタやりながら煮るものもいた。
 ドーランはベンガラや食紅を焼物の中に入れ、砂糖や塩を混ぜたものを水で溶かして煮、べたつとするのを付けた。
 衆道(若衆)なんかは煉瓦色に砥の粉を溶かして塗ったので、肌が荒れて困ったらしい。
 一番困ったのはロ紅や頬紅でこれは代用がなく貴重品あつかいされた。水白粉を塗ってたたく牡丹刷毛や紅筆墨筆なんか品物がなく先輩や親方のを使う役者が多かったという。

 ──「パッチリ」とは、えりなどに塗る固形の白粉。湯で溶いて用いる(精選版 日本国語大辞典)。「ベンガラ」とはポルトガル語で、インドのベンガルで産出したことによる。黄色を帯びた赤色顔料。酸化第二鉄を主成分とする。安価で着色力・耐久性が強い(同)。
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