僕は珈琲(片岡義男/光文社)
何年か前に、この人の『珈琲が呼ぶ』を読んだ。
片岡義男といえば、ある年代以上の人にとっては有名人で、私も、確かにこの人の文章を読んだことはある。だが、熱心な読者ではなく、『スローなブギにしてくれ』も、読んだかどうか記憶が定かでない。
だから、エッセーを探す、という意識がなければ、『珈琲が呼ぶ』を読むこともなかっただろう。珈琲そのものに関する蘊蓄ではなく、例えば、「珈琲でいいや」という注文の仕方についての考察や、珈琲が登場する映画や歌、喫茶店の椅子の話などが出てくる。
読後感がよく、このブログで取り上げようとも思ったが、結局、そのときには見送った。
で、今回、この本を見つけた。
前作と同様、珈琲に関する書き下ろしエッセー。「僕は珈琲」という注文の仕方に関する考察があり、それが題名になっている。喫茶店で短編小説のあらすじを思いつく話があり、続いて、その短編小説も掲載されている。その題名は「謎なら解いてみて」。
この人の文体は、(言葉の正しい意味での)ハードボイルドだと思った。そして、そのような文体でしか表現できないものが、この世界にはたくさんあるのだろう。
この人の、昔の作品を読んでみようかとも思うが、私のことだからきっと、読まないだろう。
何年か前に、この人の『珈琲が呼ぶ』を読んだ。
片岡義男といえば、ある年代以上の人にとっては有名人で、私も、確かにこの人の文章を読んだことはある。だが、熱心な読者ではなく、『スローなブギにしてくれ』も、読んだかどうか記憶が定かでない。
だから、エッセーを探す、という意識がなければ、『珈琲が呼ぶ』を読むこともなかっただろう。珈琲そのものに関する蘊蓄ではなく、例えば、「珈琲でいいや」という注文の仕方についての考察や、珈琲が登場する映画や歌、喫茶店の椅子の話などが出てくる。
読後感がよく、このブログで取り上げようとも思ったが、結局、そのときには見送った。
で、今回、この本を見つけた。
前作と同様、珈琲に関する書き下ろしエッセー。「僕は珈琲」という注文の仕方に関する考察があり、それが題名になっている。喫茶店で短編小説のあらすじを思いつく話があり、続いて、その短編小説も掲載されている。その題名は「謎なら解いてみて」。
この人の文体は、(言葉の正しい意味での)ハードボイルドだと思った。そして、そのような文体でしか表現できないものが、この世界にはたくさんあるのだろう。
この人の、昔の作品を読んでみようかとも思うが、私のことだからきっと、読まないだろう。