宗谷岬の続きです。
大岬中学校跡地
裏側
思い出
昭和二十二年五月廿日新教育制度により宗谷村立大岬中学校として旧海軍兵舎を使用し開校す。卒業同窓生六百名は良き師と共に、この丘に建つ学校を愛し育まれ社会に巣立っていった。
昭和四十三年八月三十一日、稚内市立宗谷中学校に統合のため閉校す。
慰霊碑
宗谷海域海軍戦没者
宗谷海域海軍戦没者慰霊碑
この碑は、宗谷周辺の海域を守り殉職した旧日本海軍々人の鎮魂のために建てられたものです。特に、終戦直前の1945(昭和20)年7月、アメリカ海軍潜水艦の魚雷攻撃を受けた稚泊航路連絡船「宗谷丸」を守るため、身代わりとなって爆沈した宗谷防備隊所属の「第112号海防艦」の乗組員152名の霊を慰めるため、旧防備隊々員から寄せられた寄付により建立されました。
平和の碑
平和の碑
1943年10月11日宗谷海峡において5時間に及び日本海軍とアメリカ合衆国海軍との間で悲痛な戦いが繰り広げられた。
この場所より、北東12マイルの宗谷海峡にアメリカ潜水艦ワフーSS238号乗組員80名のアメリカ人が眠っている。
この碑は、日本側の人々とワフー号に眠る乗員の家族とによって設立されたものである。
かつての敵は、今日、兄弟として出会い、両国の平和がつきることのないよう、また、我々が今あたためている友情が決して再び壊れることのないように、献身したい。
この場所から見える海です。
あけぼの像
あけぼの像
北海道の牛乳生産量100万tと飼育乳牛50万頭突破を記念して、1971(昭和46年)に建立されたもので、彫刻家・峯孝氏の作品です。牧柵の前で、若い男女が、果てしなく広がる宗谷丘陵を見つめながら力強く建っており、天北酪農の夜明けを象徴しています。
当時における開拓は、明治の中期に始まり、末期には雑穀、馬鈴薯など畑作中心の農業が確立されましたが、冷害などで苦労が絶えず実りが少なかったことから、畑作にピリオドを打ち昭和20~30年代から酪農への変換が進められました。稲作の北限線より北に位置する稚内では、農業の大部分を酪農が占めています。
佐野 峯 池田 中島 草野 と刻まれています。
側面にレリーフがあります。
ラペル-ズ顕彰記念碑
1785年、フランス国王ルイ16世は世界海洋科学調査航海を命じ、海軍士官のラペルローズ伯爵(ジャン・フランゾワ・ド・ガロー)がこの航海の指揮にあたりました。1787年、2隻の戦艦を率い、北海道北部の海上を探査通過時に、北海道と樺太(現サハリン)の海域に海峡を発見しました。世界海洋界はこの発見と航海者の功績を讃えて、この海峡をラペルーズ海峡と命名しました。欧州人として初めて宗谷海峡を通過してから220年になるのを記念し、海峡を望むこの丘に、2007年顕彰記念碑が建立されました。
稚内市宗谷岬