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中年男のエレジー 郷愁

yahooブログとの交差点にしたいと開設しました。ヤフーブログ終了により、アメーバとライブドアから発信を始めました。

カムバック自動二輪 リハビリツーリングになります

2017年11月30日 00時56分46秒 | 日記

 議員になって18年間封印していた自動二輪にカムバックすることにしました。

 岡崎市で久々にVF400Fを走らせて  2017/11/19(日)       https://blogs.yahoo.co.jp/s281218/50007609.html

  四国遍路も満願になりました。

昨年からの車いす遍路が満願となり 2017/11/29(水)  https://blogs.yahoo.co.jp/s281218_0417/56532635.html

 上高地も閉山式が終りました。

上高地閉山式 今年最後のボランティアへ 2017/11/15(水)https://blogs.yahoo.co.jp/s281218/50003782.html

 横井庄一記念館も新展開になります。

特定非営利活動法人横井庄一記念館を護る会 2017/11/28(火) https://blogs.yahoo.co.jp/oshika59/43405732.html

 半年間もブログを放置していました。


久々の映画鑑賞とボーリングへ

2017年02月15日 10時38分29秒 | 日記

 本日の一言 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218

コロナワールド中川 http://www.korona.co.jp/cinema/nak/top.asp

 本日は夜に書道会があるため、夕方のウォーキングはできないので、家内に何処かに行ってこようかと言われて、中川コロナへボーリングに行くことがひらめき、ボーリングの後に映画を鑑賞する予定で自宅を出発しました。

 過去の一言から確認すると、ボーリングは一昨年12月以来となり、なんとか100点を取れる程度の体たらくのため、隣のレーンで見事なプレイをしておられたHさんに助言を求めると、解りやすく教えていただき、フロントから「必ず上達 必見マニュアル」なる冊子も持ってきていただきました。

 
 
 思いつきのボーリングと映画鑑賞でしたが、60歳以上のシニアに対する割引はあったものの、映画を見終わってからロビーを見ると、鑑賞したチケットを出すとボーリング1回分(2ゲーム以上で)が無料になることが判りました。
 
 3ゲーム1200円のシニア割引でボーリングを楽しみましたが、映画のチケット購入後にボーリングを2ゲーム(450円×2回)分で、1ゲームは無料で3ゲームできたことから、これからは映画チケット購入後に楽しもうと思います。
 
 
 もっとも、夜9時以降は1ゲーム200円でボーリングが楽しめ、映画も6回分のスタンプをためると1回分無料になることから、機械化されてフロントに行かなくても映画は鑑賞できますが、映画もボーリングもフロントを訪れると割安になることを実感する一日ともなりました。
 
 
岐阜ロイヤル劇場 http://www.tochiko.co.jp/royal.html
 
 
 映画については、何も目的とする作品はありませんでしたが、午前中に愛知県で再放送されているテレビ朝日系の番組「京都迷宮案内」に主演している橋爪功さんを見てから外出しており、橋爪功さんが出演し、映画の主役が佐々木蔵之介さんであったことから迷わず決めました。
 
 
 
破門 ふたりのヤクビョーガミ http://hamon-movie.jp/
 
 実は私がお気に入りとしている日本酒「雪紫」は、京都大徳寺門前の山国屋細見酒店のお酒ですが、雪紫は佐々木さんの実家である「佐々木酒造」で醸造されており、こんなことからも身近に感じており、本日は京都つながりの一日ともなりました。

 過去の一言に、「一週間に1回は運動を」と、ボーリング場か野球のバッティング場に行くことを目標にしている」と記しましたが、現実には1年以上ボーリング場を訪れておらず、体力維持のためにも継続して通いたいと思います。

           本日の体重 71、9キロ 徒歩数 5662歩 間食あり
                                    2月14日の一言

新しい年を迎えて 神野選手のおかげで最高の正月に

2015年01月03日 11時24分49秒 | 日記

 

明けましておめでとうございます。

やったー 日本一 !!

今年の元旦は、大晦日から出かけていた京都からスタートし、吹雪く高速道路を何とか帰宅しましたが、翌日に開催された箱根駅伝で、母校である神守中学校の卒業生である「神野大地」君が大活躍し、1位でゴールテープを切るとともに、「三代目山の神」として日本一の選手となり、最高にうれしい新年のスタートとなりました。

12月31日   私のヤフーブログです

 京都大原 宝泉院 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/48484096.html

 坂神社 をけら詣り http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/48484096.html

 百万遍 年越し法要 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/48485137.html

 除夜の鐘 百万遍  http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/48485499.html

1月1日 謹賀新年 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/48485622.html 

1月2日 神守中から日本一ランナーへ 神野大地選手に乾杯

             http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/48489351.html     

神野選手の活躍で果たした日本一を、復路でも果たして欲しいと本日もテレビにかじりついています。たぶん、このまま総合優勝を果たしてくれることでしょう…

 


みちのくの蔵王権現と山寺巡拝へ

2014年08月15日 01時43分14秒 | 日記
  本日(7月25日)はみちのくの「蔵王巡礼」と、「山寺」立石寺(りっしゃくじ)を訪れました。山岳信仰の聖地「蔵王」は、日本有数の霊場ですが、私は初めての訪問となります。
 
 私が大学生の頃の話ですが、名鉄に勤務していた父親が、上司から出世するために名鉄のグループとなった宮城交通に出向する話を打診され、当時の宮城県から北海道にかけて関心を持っていた場所でもあります。
 
 蔵王と言えば樹氷とか、スキーなどに注目が集まりますが、元々は神々が宿る信仰の山で、蔵王権現を崇拝する行者や、温泉による湯治場として歴史を刻んでおり、神秘のエメラルドグリーンの御釜と、万年雪に感動の一日となりました。 
 
 左に添付したのが山寺ですが、日ごろから四国霊場の山々を歩いているため、1千段の階段も苦にならず、本堂から奥の院、五大堂まで、久々に観音霊場の御経を唱えることとなりました。
 
 「閑しさや 岩にしみ入る 蝉の声」…元禄2年の句だそうです。
 
俳聖と言われる松尾芭蕉がこの山寺を訪れてから数百年が経過していますが、五大堂の辺りから眺める風景には、当時とまったく変わっていないような錯覚を覚えます。
 
 さて、上高地や四国遍路ばかりを話題にしており、突然のみちのく巡礼の発信に驚かれるかもしれませんが、明日から東北大学を会場にした「被災地で学ぶホンモノの地方自治」をテーマにした自治体学校が3日間開催されるため、一日早く訪れています。
 
 「議員が視察中に大相撲観戦」や、政務調査費の不正流用が社会の大問題や事件となっている時だけに、「観光旅行」とお叱りを受けるかもしれませんが、今回の自治体学校参加は行政からの視察ではなく、私が個人的に参加する勉強会で、旅費等については全額自己負担で、政務調査費や税金を使わずに参加していますから誤解のないようにお願いします。
 
7月25日の転載です。

26歳の愛車ライトエースが戻り

2014年02月03日 22時28分10秒 | 日記
 
 私の旧来の愛車「ライトエース」ですが、今月21日で車検が切れるため稲沢市(旧祖父江町)の自動車工場に出し、車体下のサスペンション付近から異音がするため、続けて修理を依頼してありましたが、本日修理が済んで戻ってきました。
 
 車体下の異音については、走行には支障がなく、車検そのものには関係無いと判っているものの、車から出る「キシミ音」は人を乗せることが出来ず、同乗者に心理的な不安を与えそうなため、修理を続けてもらいました。
 
 このライトエースは平成1年に初年度登録された車で、今年で満26年目となり、これから2年先の28歳まで走ることになりますが、部品によっては存在しない物もあることから、故障するたびに思案することになりそうです。
 
 
 かつてはトヨタ系列の営業所で車検を受けていましたが、当方が感ずる微妙な異常のたびに高額な部品交換を要求され、当方の指摘する部分(ハブベアリング)だけの修理をしないため、部分的な修理をする近くの自動車屋さんに修理を依頼して、トヨタで提示された15万円の部品交換が3万円以下の部品交換で済みました。
 
 この修理工場も、私が感ずるキャブレターのわずかな異常の原因が判らず、「トヨタの営業所で調べて欲しい」と言われ、トヨタではキャブレターの修理ではなく高額な部品交換を提示され、我慢して乗っていましたが、現在持ち込んでいる稲沢市の山内商店が、キャブレターのオーバーホールをして不調を解消してくれました。
 
 元々が自動車解体業もやっていたため、部品の取り替えも熟れており、旧い車の修理には手頃な自動車工場と思います。
 
 今回の異音についても、車体下の消耗品(ゴム類)を全部交換したものの収まらず、サスペンション関係の部品交換は7から8万円かかるそうですが、部品を全部分解してグリスを補充して音を消したそうで、当分は大丈夫と思われるものの、車が旧いため異常を解消すると他の部分からの異音が聞こえてきます。
 
 エンジンは極めて好調で、天井のスカイルーフや、後ろ向きや横向きになるセカンドシート、完全にハネアゲとなるサードシートによって、荷台には冷蔵庫や洗濯機も乗せられ、三男が参加するロードレースへ自転車を乗せて遠征や車中泊が可能です。
 
 「お父さん、もう新しい車に代えたら」
 「どこも悪い所がないのに…」
 「いくらでも安い車があるのに」
 「軽トラックに乗るよりはマシだろう」
 
 我家は兼業農家ですが、田畑の草刈り、水田の除草作業や、玄米の精米には軽トラックも必要となり、大量に出る庭の剪定時の枝葉の移動は乗用車ではできず、軽自動車並みに小回りのきく愛車は捨てがたく、7人も乗車できる一方で、貨物にも変身する愛車は万能の車としか思えません。
 
 それにしても、26年間も走ってきたのは驚異で、タフで大きな故障もしなかった事が長持ちの原因と思われますが、このまま私が運転できる限界年齢まで走り続けて欲しいものです。

知多八十八ケ所巡りの二日目

2013年10月05日 08時52分08秒 | 日記
 
篠島の松島海上タクシー
 
 本日(10月2日)は三河湾の篠島で目覚め、朝7時30分に予約してあった海上タクシーによって知多半島に戻り、第35番成願寺から北上を始め、南知多町、美浜町、常滑市を越え、最後は東海市の第77番寺まで巡拝を進めました。
 
 明日も一日残しており、明日は八十八ヶ所の結願を果たした後に、名古屋市昭和区にある「八事山興正寺」への御礼に参拝する予定をたてています。
 
八事山興正寺 http://www.koushoji.or.jp/
 
※興正寺(こうしょうじ)は、愛知県名古屋市昭和区八事本町にある高野山真言宗の別格本山。山号は八事山。通称は八事観音。本尊は大日如来。境内は本堂などがある西山普門院と奥之院がある東山遍照院に分かれており、全域が興正寺公園として開放されて います。
 
 冒頭に添付した海上タクシーだけを見れば、完全なる観光旅行ですが、お寺を素早く巡拝するために高額なタクシーを契約しており、一般的には併設されている名鉄海上観光船を利用して巡拝が行なわれています。
 
 雨と比較すれば有難い快晴も、強い陽射しがキリキリと皮膚を射し、車のエンジンを停めると車内が暑くなるため、一日中エンジンはかけっ放しとなり、運転手の私は車を降りて納経所に走り、朱印をもらったら一目散で車に帰り、次の目的地をカーナビに入れていると、同行者が戻ってきて、そのまま車を走らせる繰り返しで一日が過ぎ去りました。
 

 昨日も篠島の番外寺が無人でしたが、本日も常滑市に入るといつも無人のお寺が存在し、私が同行者の納経帳を開いて、私の手によって朱印を押しましたが、四国では考えられない行為が当り前に行なわれていました。
 
 無人の納経所に先客としておられた御夫婦は、ご主人が納経帳ではなく掛け軸に朱印を押されていましたが、この人たちは一度も本堂に手を合わせることなく、お寺から車で立ち去っていかれましたが、こんな姿にお遍路とは何だろうと自問自答の一日です。
 ちなみに、知多半島の納経帳は、あらかじめ全部の寺院名が印刷されており、一ヶ所100円の朱印を押してもらうだけで、納経所に「手書き300円」の料金が表示してあるものの、筆とスズリが置いてないお寺がほとんどでした。
 
 お遍路は四国以外には存在せず、四国以外をお遍路とは言わないとの持論は変わりませんが、今回同行しておられる身代り講の人々は、朱印こそ私任せとしていますが、境内に入ってからは私語も厳禁で、一心不乱に読経を続け、読経が終わると遅れてはならずと車に帰り、次の札所に向かいます。
 こんな繰り返しで、先祖や先輩の指導を守って巡拝を続けておられる姿には共感するものがあり、私の足を頼りにされている責任も実感する一日ともなりました。
  
本日の宿 
観光旅館いろはや http://www.irohaya.jp

横井庄一さんと母親が新聞一面に

2013年08月06日 00時20分51秒 | 日記

 7月30日の中日新聞一面に、「横井庄一さんの戦死公報信じず」と題した記事が掲載され、戦死公報を受け取った横井さんの母親つるが、「まだ生きとる」と死んだことを否定し続ける一方で、お寺に立派なお墓を建てたり、我家の隣のお寺に永代供養を依頼していたことから、息子が死んだとは認めたくないものの、周りで多くの戦死者が出ている現実から、死んだと思うしかない複雑な心境が記されています。

 横井庄一さんは生後なもなく母親の離婚によって、母親の実家である我家に連れてこられ、当時は出戻りでは田舎にはおり辛く、母親は奉公先に住み込んで働いたため、母親の姉(私の曽祖母)と娘2人(私の祖母たち)の3人と、我家の大鹿庄一として小学校5年生まで生活しました。
 
 母親の再婚によって横井家に入ったものの、義父以外の親族には辛くあたられ、やっと洋服屋として独立したものの、戦争によって満州からグアム島に転戦し、昭和47年まで帰国できず、帰国したときに母親は他界していました。
 
 新聞記事にも記されていましたが、息子が戦死して横井家の後継者が無くなり、頼りとした夫も亡くなった中で、親族からいじめられ、追い出そうとしたり資産を狙う親族の横槍に、「息子は生きている」という一言が封印し、生きていると信ずることが生きて行く活力になったと私は推察しています。
 
 グアム島のジャングルで28年間も自給自足生活をしたことで、横井さんを逞しい野蛮人のように思われる人も存在しますが、現実には寡黙でしんの強い女性のようなタイプで、それとは逆に母親は大柄で声の大きい男勝りの性格でした。
 
 そんなことから、息子を連れて横井家に入りこみ、戦争で戦死した公報が届いた中で、夫も亡くなった当時の話では、親族に厳しい罵声や嫌味を言われ続け、頼りは所持するお金だけとなり、そのお金で私の叔母(故人)を養子に迎えようと騒動も起していました。
 
 「庄一は行きとる」の一言は、誰もあてにできない母親の生きていく活力になり、子供の頃から出戻りの子供として学校や横井家でイジメられ、耐えることに慣れていたことも横井庄一さんがグアム島から生還する力になったと思いますが、「母親が待っている」との一念も生きる活力になりました。
 
 学校や親族にイジメられと記しましたが、私の住む大鹿家では横井さんの従兄弟となる私の祖母たちが可愛がって生活しており、私の父親たちにとって横井さんは頼もしい兄貴分のような存在でした。
 
                      (下記は横井さんによる幼少時の記録です)
 の当時、私の母の里は、母の両親はすでに亡く、母の姉で私には伯母にあたる人が、もう主人もなく、あきゑ、キヌ、という二人の娘と、女ばかり三人で暮しておりました。
 現代では、離婚をしても何もいわれませんが、その頃 (大正の初め) は、「出戻り」などと、人に後ろ指をさされて女性は大層肩身の狭い思いをしたものです。
 それで母も実家には居辛くて、ひとり、街へ、女中奉公にでてしまいました。後に残された私は、私のいとこになる、あきゑ、キヌ姉妹が可愛がって育ててくれましたが・・。
 私は、小さい時から、親も、兄弟もなく、自分の家とてもないひとりぼっちの寂しい境遇で、よく友だちからも「親なし子」と馬鹿にされ、いじめられました。
 自然私は、消極的な、おとなしい、無口な子供になり、みんなから私の名前、大鹿庄一をもじって、「オシか、ツンボか、庄一か」とはやされるほどでした。
 子供心に人知れずどれほど口惜しく思ったことか、そして人並みに、親と一緒に暮せる生活を幾度夢みたことかしれません。
 
 
 私が十二の時に、母が再婚しました。母の再婚先には子供がなかったので私も一緒につれられて行きました。
 「ああ、やっと母と一緒に暮せる、自分の家もできる」 と、喜んだのも束の間、やはりそこも、私にとって安住の場所ではありませんでした。新しい義父は、とてもよい人で、ひとから「仏の重三さん」といわれるほどでしたが人が好すぎるために押しがきかず、まわりの人たちに、母も、連れ子の私も、ずいぶんひどく扱われました。ことごとに苦労する母を見るにつけ、「こんなに口惜しく、辛い思いをするぐらいなら、母はなぜ、再婚なんかしたんだろう。もうあとわずか二、三年の辛抱で、自分が学校を卒業したら一生懸命働いて親子みずいらずでも幸せに暮せたものを」と心の中で、何度思ったことかわかりません。
                                    横井庄一手記「明日への道」から
 
 私にとっては、高校生になって突然出現した親族ですが、私の学生時代に家内と出来ちゃった結婚については、横井さんが私の両親を説得しただけでなく、家内の在所に出向いて両親に謝罪してくれ、夫人とともに結婚式の仲人も務めてもらいました。
 
 今回の中日新聞の記事についても、横井さんの幼少時の苦しかった生活や、我家の苦難の時代については、夫人や第三者にも語っておらず、当時を知っている親族が亡くなってしまったことから、横井さんから幼少時の話を聞いているのが私一人になっていたことから、母親と2人の写真が新聞の一面を飾ったことで肩の荷がおりたように思います。私の名前と、隣の住職も、新聞の一面に名前が載ることも、これが最初で最後になるでしょう。

 


鶴田浩二の唄に代役はない

2013年02月22日 15時44分09秒 | 日記
 テレビ東京の番組で「木曜8時のコンサート2時間スペシャル」が今夜放送され、小林旭さんや西郷輝彦さんの懐かしい歌声を聞きながら久しぶりにのんびりとしていました。
  しかし、画面に作詞・宮川哲夫、作曲・吉田正のテロップとともに、「街のサンドイッチマン」の曲名が紹介され、タンタン、タララララ、ララララララララ、タンタン、タラ…と懐かしい演奏が始まったまでは良かったものの…
 
 「お父さん、良かったねー」
 「なァに、がー」
 「歌ってもらって」
 「何を言っとるんだー×××」
 
 歌うのは私が生涯のファンとなる「鶴田浩二」さんではなく、渥美二郎なる演歌歌手ではないか。昭和28年に発売された曲ではあるが、この歌を歌うことを作曲者の吉田正さんはどう思い、何よりも鶴田浩二さんはどう思うのか。難しい著作権とか、法律は許しても、似ても似つかぬイメージで歌われては鶴田浩二さんのために作られた曲ではなくなってしまうではないか。
 
街のサンドイッチマン http://www.youtube.com/watch?v=p_Pc9hGe-m8
 
 「映画俳優の鶴田浩二でございます」…鶴田浩二さんがステージで歌う場合に必ず冒頭に挨拶した一言ですが、この一言を巡って鶴田さんは吉田正さんと大喧嘩をし、歌についてはプロとしての厳しさ、難しさを熟知していたことから生涯貫きとおした哲学でもありました。
 
 街のサンドイッチマンについても、昭和28年に吉田正さんがビクターのスタジオで「これはダメな曲だ」と断って弾いた曲であったが、この曲を聞いた鶴田浩二さんが「この歌はいい歌だ」と宮川哲夫さんの詩の一編を気にいって引っ張り出し、「さすらいの湖畔」のB面で発売されている。
  鶴田浩二さんにとっては代表作となるこの曲も、すぐには人気がでず、発売された翌年になって当時のサラリーマンの心理と重なり合って大流行し、翌年の「赤と黒のブルース」から31年の「好きだった」の大ヒットにつながっていきました。
 
 「酒でも飲んで少し砕けろや」との鶴田さんの一言が、それまでほとんど酒の飲めなかった吉田さんを変え、「大衆歌謡は、書斎に閉じこもって書くものではない。絶えず世の中に肌で接していてこそ書けるものなのだ」と、この曲の誕生が作曲家の人生も変えていきました。
  曲の誕生秘話については、大学の後輩となる杉井輝応さんが、平成9年に発行された「鶴田浩二」に詳しく記されているが、作曲家の吉田正さんと俳優の鶴田浩二さんが酒を酌み交わしながら世情とともに誕生して披露されたもので、鶴田さんの曲は映画の主題歌となっている例が多く、映画のイメージにも影響することから、プロの歌手であっても、金(ギャラ)をもらって人々に歌って聞かせられるものではなく、金を払ってカラオケで歌うしかないのである。
 
 現実に、吉田正さんや鶴田浩二さんが現存していたら、絶対に渥美二郎がテレビで歌って聞かせることはできなかった曲で、「歌は人間の心を伝えるものだ。人間の肌の温かさを感じさせるものだ。生身の人間の愛おしさを感じさせるのが歌だ」と語っていた鶴田浩二さんしか表現のできない曲でもあり、本日の歌声には寂しさとともに、怒りが込み上げてきました。
  少なくとも渥美二郎が、杉井さんの「鶴田浩二」を熟読しても、鶴田さんの曲を歌えるのかを知りたいものですが、何でもかんでも現役で、しかも、盛りの過ぎた歌手が歌う必要もなく、当時の映像と鶴田浩二さんの実声を聞くしかないのである。
 
 ただし、久しぶりに、鶴田浩二さんのことが家庭の話題となり、家内は「勝手に言っててよッ」とかなり立腹のようですが、過去に記した一言に添付したユーチューブが無効になっており、改めて添付してテレビの前で(車内では毎日聞いております)唄声を聞けたことには感謝です。
                                  2月21日の一言
 
名もない男の詩  http://www.youtube.com/watch?v=df2PokRsRps         
 
                                       ヤフーブログからの転載です